生きた証
いつからだろう。
「いつからだろう」と、考えるようになったのは。
変わったことを、ひとつずつ数えるようになった。
大盛りを頼まなくなったこと。
夜更かしをしなくなったこと。
知らない番号に出なくなったこと。
約束を先送りにするようになったこと。
実家に帰らない正月があって、
親の背中が小さく見えて、
誕生日を静かにやり過ごし、
妻と手を繋がなくなった。
そのどれもに、はっきりした境目はなかった。
ある日突然、変わったわけじゃない。
気づいたときには、もうそうなっていた。
昔は、「いつからだろう」なんて考えなかった。
今しか見ていなかったし、
先のことも、深くは考えていなかった。
振り返るようになったのは、
たぶん、立ち止まれるようになったからだ。
走り続けなくても、大丈夫だと思える場所に、
いつの間にか来ていた。
変わったことを数えるのは、
失ったものを嘆くためじゃない。
ここまで来た道を、確かめるためだ。
若い頃は、前しか見ていなかった。
振り返る必要がなかったし、
振り返る時間もなかった。
今は、歩く速度が少し遅い。
立ち止まることも増えた。
先の景色より、来た道の方が、
よく見えるようになった。
「いつからだろう」と思うたび、
その答えは、たいてい曖昧だ。
でも、それでいいのだと思う。
人生のほとんどの変化は、
始まりも終わりも、はっきりしない。
気づいたときには、もうそこにあって、
気づかないうちに、通り過ぎていく。
それでも、こうして振り返れるということは、
ちゃんと時間を生きてきたということだ。
終わりが見え始めた今、
思い出すのは、
大きな成功でも、派手な失敗でもない。
大盛りを頼まなくなったこと。
夜を引き延ばさなくなったこと。
誰かと、手を繋がなくなったこと。
そんな些細な変化の積み重ねが、
この人生だった。
「いつからだろう」と考えるようになったのは、
人生が、ちゃんと自分のものになったからだ。
そう思いながら、目を閉じる。
変化を数えられるのは、
ちゃんと生ききった証だから。




