おまえのかーちゃん、でーべそ!
1069年4月上旬 イタリア レッジョ・エミリア ジャン=ステラ(15歳)
「おまえのかーちゃん、でーべそ!」
叫んだ瞬間、城門前の空気が凍った。
味方の騎馬隊からも、城壁の上のドイツ兵からも、音が消えた。
僕の目の前には、固く閉ざされたレッジョ・エミリアの城門がある。
それほど大きな町ではないけれど、司教座が置かれているだけあって、けっこう立派な城壁で守られている。
城門の上からこちらを見ているハインリッヒ四世に向かって、僕は大声で叫んだ。
もちろん、好きでこんな悪口を叫んでいるわけじゃない。
僕が囮になると決めたからだ。
昨夜の軍議で、僕はアンセルモに宣言した。
「ハインリッヒに、僕がここにいると見せてくる」
ハインリッヒを怒らせて、ビアネッロ砦へ追ってこさせる。
そして、峠道に隠した青銅砲で、敵の騎馬隊を叩き潰すのだ。
「ジャン=ステラ様、危険すぎます!」
アンセルモは最後まで反対だった。
「危険でも僕はやるよ」
僕には直属の騎馬隊を動かす権限がある。
トスカーナ全軍は動かせなくても、自分の手勢なら動かせる。それをアンセルモは止められない。
「仕方ありません。ジャン=ステラ様が無事、お戻りになれるよう、できるかぎりの手は打ちます」
そう言って最後には、折れてくれた。けれど、僕には少し不満な返答だった。
僕は首を横に振った。
「僕を守るんじゃなくて、敵を砕くことを優先して。そうでないと、僕が危険を冒す意味がないでしょう?」
「……そのお言葉、マティルデ様には聞かせられませぬな」
アンセルモは苦い顔でそう言った。
レッジョ・エミリアからビアネッロ砦へ戻る道には、見張りの騎兵と伝令を置くことになった。途中の林と丘には伏兵。そして、砦の峠道の奥には青銅砲。
敵が僕を追いかけてきたら、逃げて、逃げて、砲の前まで釣り出す。
「決して、長居はなりませぬぞ。餌を食われては戦になりませぬ。生きて戻ることも、作戦のうちでございます」
それが、アンセルモの最後の忠告だった。
夜明け前、僕は百騎を率いてビアネッロ砦を出発した。
十六夜の月が、レッジョ・エミリアへの夜道を明るく照らす。
これなら迷うことなく、払暁に合わせて着けるだろう。
***
日が明ける少し前、レッジョ・エミリアの城壁が闇の中から浮かび上がった。
閉ざされた城門の前で警戒していた兵たちが、こちらの騎馬隊に気づく。次の瞬間、彼らは慌てて通用扉から門の中へと駆け込んだ。
しばらくすると、城壁の上に弓兵と弩兵が並び始めた。
「ジャン=ステラ様、あまり近づきすぎませんように」
「分かってる。声が届けばいい」
近すぎれば射られる。
でも、遠すぎれば声が届かない。
僕はティーノの助言に従い、射程に入らないぎりぎりの場所で馬を止めた。
射程の境界に立つのは、思っていたよりずっと怖い。全身がぶるりと震えた。
僕が頷くと、ティーノが短く命じた。
「角笛を」
ぶおぉ、と低い音が朝の空に広がる。
これで、こちらは使者として来た、という形になった。
いきなり射るなら、そちらが礼を破ったことになる。
そんな建前を盾にして、僕は馬を一歩だけ前へ出した。
「ハインリッヒ四世に告げる!」
声が震えないよう、腹に力を入れる。
「なぜイタリアに足を踏み入れる。イタリアは我らの地。ドイツの兵を率いて、すぐに北へ去れ!」
背後の騎馬隊が声を重ねる。
「ドイツへ帰れ!」
「イタリアは我らのもの!」
角笛が鳴る。トスカーナ辺境伯家の旗と、僕の紋章旗が朝風に揺れる。
これで、僕がここにいることがハインリッヒに伝わるだろう。
しばらくして、城壁の上が大きくざわめいた。
望遠鏡を覗く。
いた。
ハインリッヒ四世だ。
朝早くに叩き起こされたのか、髪の一部が妙な方向に跳ねている。
そのくせ、目だけはぎらついていた。
僕を見ている。
間違いなく、僕を見ている。
でも、城門は開かない。
兵も出てこない。
ハインリッヒはただ、城壁の上からこちらを睨みつけるばかり。
「怖気付いたのか! この軟弱者!」
さらに叫んでも、返事がない。
きっと、こういう罵声には慣れているのだ。
臆病者だの、北へ帰れだの、王侯貴族なら何度も浴びてきた言葉なのだろう。
だから、もっと変な角度から突き刺す言葉が必要だ。
けれど、すぐには出てこない。
嫌な沈黙が続く。
このままだと、僕はただ城門の前で騒いだだけになる。
それでは、何のために危険を冒してここまで来たのか分からない。
それに、長居はできない。
敵に少しでも頭の回る指揮官がいれば、別の門から兵を回し、僕の帰り道を塞ぐだろう。
アンセルモの忠告が頭をよぎる。
――餌を食われては戦にならない
「ジャン=ステラ様、そろそろ退きましょう。これ以上は危ないですぜ」
護衛のティーノの言う通り。そろそろ退くべきだ。
でも、このまま引き下がるのは悔しい。
何か。
何か、刺さる言葉はないものか。
そう思った時、前世の記憶の奥から、とてもくだらない悪口が浮かんだ。
おじいちゃんから聞いた、昭和の小学生男子が叫んでいたという謎の悪口。
なぜ悪口になるのか、今でも分からない。
でも、小学生に効いたなら、ハインリッヒにも効くかもしれない。
ちょっと最低だけど、今は試す価値がある。
僕は大きく息を吸った。
「おまえのかーちゃん、でーべそ!」
言った瞬間、世界から音が消えた。
城壁の上のドイツ兵も、味方の騎馬隊も、全員が固まっている。
あれ?
効きすぎた?
「ジャン=ステラ様」
最初に沈黙を破ったのは、隣にいたティーノだった。
やけに真剣な顔をしている。
「アグネス様のお腹を、ご覧になったことがあるのですか?」
「ないよ!」
僕は即答した。
ハインリッヒ四世の母、アグネス・フォン・ポワトゥー。
政界を退いた今は、イタリアのどこかの修道院で暮らしていると聞く。
でも、会ったことなんてない。まして、お腹なんて見ていない。
「では、なぜそのような女性の秘事をご存じなのですか?」
「秘事じゃないから! ただの悪口だから!」
「悪口のつもりで、アグネス様の秘事を言い当てたのですか?」
ティーノの顔が、すうぅっと厳粛になっていく。
まずい。
これはまずい。
軽い悪口のはずが、思いっきり滑った。
しかも、敵味方どころか神様まで巻き込んで滑っている。
「いや、それは、その……僕の記憶にあっただけだから」
言ってから、しまった、と思った。
もっといい言い訳があったはずなのに、もう遅い。
「預言、でございますか」
違う。
前世の記憶という意味では違わないけど、そうじゃないんだって!
「え、えっと」
どう説明したものか迷っているうちに、ティーノの中で答えが出てしまったらしい。
「神は、アグネス様のおへその形までご存じなのですね」
「いや、神様もそんなところまで見てないと思うよ」
そう言いかけた時だった。
城壁の上で、ハインリッヒの肩が震えているのが目に入った。
怒りか。屈辱か。それとも別の何かだろうか。
次の瞬間、城壁の上から怒鳴り声が落ちてきた。
「ジャン=ステラァ!」
ハインリッヒ四世だった。
顔を真っ赤にし、城壁の上から身を乗り出している。
「なぜ母上がでべそだと、お前が知っているのだぁぁぁ!」




