僕を使って!
1069年4月上旬 イタリア ビアネッロ砦 ジャン=ステラ(15歳)
「どうして、まだ動かないんだ! このままじゃ、村が焼かれるのを見ているだけじゃないか!」
「なりませぬ、ジャン=ステラ様。我らは兵力で劣っております。今、平地に出れば、敵の望む形で戦うことになりますぞ」
アンセルモ・デッリ・インツィッジは、僕の言葉を正面から退けた。
その一言に、胸の奥がかっと熱くなる。
アンセルモはトスカーナ軍の指揮を預かる将だ。決して僕を軽んじているわけではない。けれど、この戦場で軍令を下す権限は、僕ではなくアンセルモにある。
マティルデが僕に全軍の指揮を預けなかったのは、僕を信用していないからではない。
トスカーナの騎士たちにとって、僕は預言者であり、カナリア諸島王であり、マティルデの夫だ。けれど同時に、トリノから来た十五歳の少年でしかない。
マティルデが僕を信じてくれていても、トスカーナ軍が同じように僕を信じてくれるとは限らない。
それを、アンセルモの硬い声が突きつけていた。
かつて彼らは、髭公ゴットフリート三世には従っていた。そのゴットフリートをトスカーナから追い落としたのは僕なのに、今の僕には全軍を動かす威信がない。
理不尽だ、と叫びたくなる。
でも、戦場を知る者たちからすれば、ゴットフリートに勝ったことと、僕に軍を預けることは別なのだろう。
そのため僕が直接動かせるのは、青銅砲部隊と直属の重装騎馬隊だけだった。
カノッサ城を半日ほど北上すると、イタリア半島を南北に貫くアペニン山脈の北縁が終わり、ポー平原へ向かう丘陵地帯に出る。
その境目には、東西へ連なる四つの丘があり、丘の上にはそれぞれ砦が築かれている。
なかでももっとも大きく、北の平原を見張るのに向いている砦が、僕たちの本陣となっているビアネッロ砦だった。
ビアネッロ砦を中心とする丘陵地帯に、トスカーナ軍三千四百が展開してから、すでに十日が過ぎている。
そう、兵力を集中させるのではなく、展開しているのだ。
そもそもビアネッロ砦は、三千を超える兵が入れるほど広くない。砦に入れるのは、せいぜい百名程度。
中にいるのは、僕やアンセルモといった指揮官、伝令役の軽装騎馬隊、それに本陣を守る兵士たちだけ。
青銅砲部隊と直属の重装騎馬隊は、敵から見えにくい砦の南斜面で待機している。砲を運ぶ荷馬車も馬も場所を取るし、何より敵に見せるわけにはいかない。
残りの兵は、アンセルモの命令で、南へ続く街道、山道、峠、村の周辺を警戒していた。
つまり、トスカーナ軍はビアネッロ砦に籠もっているのではなく、砦を中心に周囲へ散っている。
理屈は分かる。
分かるけど、僕にはそれが勝つための布陣には見えなかった。
守りを固めるばかりで、肝心のドイツ軍を叩きに行かない。
これで本当にハインリッヒを追い払えるの? そんな疑いさえ、脳裏に浮かぶ。
そのハインリッヒ四世率いるドイツ軍六千は、北のレッジョ周辺に陣を敷いている。ここから歩いて一日ほどの距離だ。
そのあいだに広がる平地を、ハンガリーの軽装騎兵たちが、まるで自分たちの庭みたいに我が物顔で駆け回っている。
家畜を奪われた村。倉を荒らされた村。火をかけられた家。
砦の近くまで来て、こちらを笑うように馬を走らせる騎兵たち。
そんな報告ばかりが毎日届く。
青銅砲はある。馬もいる。敵も近くにいる。
それなのに、僕たちは村が焼かれる報告を聞くだけ。
どうしてアンセルモは動かない?
もう、黙って待っているなんて無理だった。
僕は北を見た。
ビアネッロ砦の北側には、クアトロ=カステッラの平地が広がっている。
とはいえ何もない平原ではない。細い川が流れ、林が点在し、ところどころに起伏もある。
僕には、それらが青銅砲を隠すに十分な地形に見える。
「あそこで迎え撃とう。川と林を使えば、敵の騎兵をまっすぐ突っ込ませないようにできる。青銅砲を横から撃てば、ハインリッヒの騎兵だって崩せる」
「勝てる、ではなく、勝てるかもしれない、ですな」
アンセルモは即座に返した。
「その希望的観測に、兵の命を賭けることはできませぬ」
「でも、ハインリッヒは青銅砲を知らないんだよ! あの音も、煙も、馬が崩れる怖さも知らないんだ」
「知らぬからこそ、最初は驚きましょう。ですが、一度撃てば、敵も学びます」
アンセルモは、僕が指した平地を静かに見下ろした。
「切り札は、見せたその場で敵を壊滅させねばなりませぬ」
「勝つだけじゃ、足りない?」
「はい。あの平地では広すぎます。撃たれた敵は左右へ逃げ、後ろへ退き、態勢を立て直すでしょう。そうなれば、青銅砲の恐ろしさだけを教えて、肝心の敵を取り逃がすことになります」
「じゃあ、どこならいいのさ」
「逃げ道の少ない場所です。横に広がれず、退けば味方の列に押し潰され、前へ進むしかない場所」
アンセルモは、北の平地ではなく、東西に連なる丘と丘のあいだへと視線を移した。
「丘のあいだの峠。そこで初めて撃つからこそ、青銅砲が戦を決めるのです」
アンセルモの言うことは、多分、正しい。
だけど、僕にはそれが、勝つために待っているのではなく、負けないために動かないだけに見えた。
その間にも、村は襲われている。
だから、納得なんて出来ないし、納得なんて出来なくたって良い。
「アンセルモの言う通りなら、確かに勝てるかもしれない。でも、どうやってハインリッヒをあの峠に誘い込むの?」
「必ず、その機会は訪れます」
そのあいまいな答えに、思わず奥歯を噛み締めた。
「それはいつ?」
「分かりませぬ」
アンセルモは僕をまっすぐに見据えて答えた。
嘘でもいいから、明日だと言ってほしかった。いや、明日でなくてもいい。確約が欲しかった。
でも、アンセルモはそんな慰めを言わないだろう。それは僕もわかっている。それでも言わなければ気が済まない。
「その機会を待っている間も、村は襲われ続けるんだよ」
「承知しております」
「家畜を奪われて、倉を焼かれて、逃げ遅れた人が傷ついても?」
「それでも、ここで負ければ、守れるものは何も残りませぬ」
僕の視線とアンセルモの視線がぶつかり合った。先に目をそらしたら負けだといわんばかり。
僕だってわかっている。アンセルモが冷静に情勢を判断しているだけなのだって。
単に、僕に意地悪をしているわけじゃないのだって。
そこには、アンセルモの見ている正義がある。軍を預かる者の矜持がある。
でも、僕にだって正義はある。目の前で痛めつけられている村々を見過ごすなんてできない。
だからこそ、僕には別の方法が必要だった。
敵が来ないのなら、来るまで待つのではなく、誘き寄せる方法がいる。
ハインリッヒが無視できない餌が何かないだろうか。
しゃにむに襲いかかってくるくらいの魅力的な餌がいる。
僕の脳裏に、初めて会った時のハインリッヒの目が浮かんだ。
——嫌な目をしていた。
あれは嫉妬と警戒が混じった目だったと思う。
だから、一瞬でハインリッヒが嫌いになった。多分、あいつも僕を嫌いなんだろう。
そりゃ、ハインリッヒにしてみれば、面白くなかっただろう。
預言者として持ち上げられている子供がいて、枢機卿であるイルデブラントが敬語で話しかけていた。
それは今も同じこと。いや、より悪化している。
髭公ゴットフリートを追い出して、トリノとトスカーナを血縁で繋いだ。
しかも、同じイタリア王の座を狙っている。
ハインリッヒからすれば、僕は邪魔で邪魔で仕方ないはず。
僕がトスカーナにいる限り、イタリアは手に入らない。
ローマで教皇から皇帝冠を受けるにも、僕の存在は目障りだろう。
少しだけ、胸がすっとする。
でも、今は相手の立場で考えるべきだ。
僕を捕らえれば、ハインリッヒは好き勝手に言える。
偽預言者だった。
イタリア人を騙した偽の王だった。
トスカーナもトリノも、偽物に騙されていただけだった。
そう言い張るだけで、僕の足元はガラガラと音を立てて崩れる。
だから、ハインリッヒが一番欲しいものは何か。その答えは、もう出ている。
僕だ。
そう気づいた瞬間、嫌な寒気と、妙な高揚が同時に襲ってきた。
狙われている。
そう思うと、胃の中身がひっくり返りそうになる。
でも、狙われているということは、僕に価値があるということだ。
ハインリッヒを動かすだけの価値が。
僕には、トスカーナ軍を動かす権限がない。
アンセルモは動かない。
だったら、僕が動けばいい。
僕自身を囮にする。
ハインリッヒが食いつく餌にすればいい。
ハインリッヒの前に姿をさらし、青銅砲の射程へと誘導する。
言葉にするのは簡単だけど、失敗して捕まれば全部終わる。
それでも、村が焼かれる報告をこれ以上聞くだけでいる方が、もっと嫌なのだ。
「アンセルモ」
僕は丘の間の峠道を見た。
「僕を囮にして、ハインリッヒを釣り出そう」
その瞬間、アンセルモの眉が、初めてわずかに動いた。




