イタリア讃歌
1069年3月上旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(15歳)
軍議が終わった次の朝、執務室の窓の外から合唱の歌声が流れ込んできた。
「もうっ! 朝からうるさいわねっ」
執務机に僕と並んで座っているマティルデが、書状から目を離さないまま言った。
出陣すると決めたせいで、目を通しておかないといけない書類が山積みだ。
いらいらするのも無理はない。
「なによ、ジャン=ステラ。私の顔に何かついてる?」
「ぷりぷりしているマティルデもかわいいなって思ってね」
「もうっ……!」
頬をふくらませる仕草が、すこしだけいつものマティルデに戻った気がして、僕の肩から力が抜けた。
知らない間に、体がこわばっていたみたい。
けれど、窓の外から流れ込む大音量は止まらない。
最初は城内の教会で修道士たちが朝課でもしているのかと思った。
けれど違う。
神様を称える静かな祈りではなく、もっと勇壮で、力強い歌なのだ。
足並みを揃えて前へ出ろと背中を押してくる。太鼓に合わせて、何度も同じ旋律が繰り返されていた。
しかも、聞き覚えのあるのだ。
まだトリノにいた時、アデライデお母様と一緒に歌ってた旋律だった。
ちなみに、前世の記憶をたどると、友達讃歌という曲名だったはず。
なのに今、窓の外で響いているそれは、仲良しの歌とは全く別物の歌詞になっている。
イタリア万歳。神の雷がドイツを撃つ。
正義は我らとともにあり。ハレルヤ、ハレルヤ。
そんな調子で、城じゅうの空気を煽っている。
「……ずいぶん景気がいいね」
思わずそう言うと、マティルデが窓の外へ目を向けたまま答えた。
「修道士も兵士も、あなたが出れば勝つと思っているのよ」
軽い口調ではなかった。 むしろ逆だ。そう信じている者が多すぎるからこそ、彼女の声は硬い。
僕も同じことを思っていた。
本当に、そんなふうにうまく勝てるのかなって。
ちょうどそのとき、執務室に入ってきたイシドロスから報告をうけた。
「ジャン=ステラ様、あの歌をお聞きください。兵の士気は高く、皆、イタリアの勝利を疑っておりません」
兵士たちが意気軒昂なのは、喜ばしいはずだった。
でも胸のどこにも、軽さを運んでこない。
それどころか、イシドロスの前で笑顔をつくり、ため息をこらえるので精一杯だった。
執務室の外は熱に浮かされている。 けれど、その熱は部屋の中まで届いてこない。
僕とマティルデだけが、妙に静かだった。
***
青銅砲の輸送について二、三の質問を受けると、イシドロスは一礼して下がった。
執務室は、マティルデと僕の二人だけに戻った。
窓の外では、あいかわらず勝利の歌が響いてる。
けれど、その浮き立った空気だけは、この部屋の中に入ってこなかった。
「ねえ、ジャン=ステラ」
マティルデが、そっと僕の名を呼んだ。
「なに?」
「少し、こっちへ来て」
言われるままに席を立って近づくと、マティルデも立ち上がり、僕の上着を両手で整えはじめた。
肩の布を引き、襟元を直し、紐の結び目を締め直す。
いつもなら侍女がすることを、今日はマティルデがしていた。
「……そんなに着崩れてた?」
「違うわ。ただ、私の手で整えたかったの」
そう言うマティルデの視線は、服を見ているようでいて、ほんとうは僕を見ていた。
やがて、その手がほんの少し止まる。
「……怖いの?」
聞いた瞬間、しまったと思った。 でもマティルデは怒らなかった。
「怖いわよ」
あまりにもまっすぐな返事だった。
「あなたが行くんだもの」
その言葉の前では、軽口の続きを思いつけなかった。
マティルデは、僕に十字を切ろうとして、途中でやめた。
「預言者のあなたに、私が十字をきるのも変よね」
少し困ったように笑ってから、僕を見上げる。
「それなら、こっちの方がいいわ」
そう言って彼女は背伸びをし、僕の額へそっと唇を触れさせた。
「神のご加護がありますように」
ほんの一瞬だった。
けれど、そのぬくもりも、その祈りも、十字架より深く胸に残った。
外では、まだ勝利の歌が響いている。
でも僕の耳に残ったのは、その歌じゃなくて、額に触れた熱の方だった。
アデライデお母様がこの歌を口ずさんでいたのは第69話:「真っ赤なお鼻のトナカイさん」です。
元歌は、the battle hymn of republic:邦題リパブリック讃歌。アメリカの南北戦争の北軍が共和国を守るぞ!と奮起する歌です。歌詞は、おおざっぱに言うと「神の正義で南軍を蹴散らせ」って感じで、その一節に「神が剣を振って稲妻を放つ」なんてのがあります。
***
ジャン=ステラ:「でも、僕の手元にセイデンキないよ?」
ハンガリー王 ソロモン:「俺が持ってるぜ」
***
原初の本歌として「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか」なんてBLちっくな歌とか、「ジョン・ブラウンの屍」なんて物騒な歌がありますが、気しな〜い。




