ランドセルで出陣
1069年3月上旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(15歳)
「それじゃ、行ってくるね」
出陣前に妻へかける言葉としては、我ながら軽すぎると思う。
けれど、できるだけ普通っぽく出ていきたかったのだ。
カエサルの「来た・見た・勝った」みたいに、あっさり勝って帰ってきたい。そんな僕なりの願掛けだった。
額に残るぬくもりを意識しないようにしながら、僕は執務室を出た。
廊下へ出た瞬間、執務室にあった穏やかな時間はきれいさっぱり消し飛んだ。
従者が走り、伝令が叫ぶ。
中庭では、馬のいななきと車輪のきしみがぶつかりあっていた。
青銅砲を載せた荷馬車が並び、その脇で砲兵たちが縄の締め具合を確かめている。
火薬樽、石弾、散弾、砲架、予備の紐、替え車輪。
鼻の奥で、革と油と火薬の匂いが混じりあう。
どれも現地で都合よく手に入るものじゃない。自分たちで運んでいくしかないのだ。
大砲というのは、撃つ前の準備がとにかく大変なのだと、嫌でも思い知らされる。
「ジャン=ステラ様、あちらをご覧ください」
従者に呼ばれて振り向くと、歩兵たちが妙に四角い革袋を背負って整列していた。
「あ」
思わず間の抜けた声が漏れた。
革製の四角い背嚢。
肩掛け袋はあっても、こういう背負いカバンはなかった。
実用一点張りで作らせただけなのに、背負った姿はどう見てもランドセルだった。
両手が空くし、荷物がぶらぶら揺れにくい。便利なのはわかっている。
それでも——
「なんで、おっさんがランドセル背負って歩いてるんだろう……」
思わずこぼすと、すぐ横にいたティーノが肩をすくめた。
「そりゃ、便利だからです」
確かにそうだけどさ……。
すると従者が、僕の分まで差し出してきた。
「こちらがジャン=ステラ様の分になります」
僕のランドセルは茶色だった。
前世で背負っていたのは赤色だったな、と妙なところが懐かしい。
「僕も背負うの?」
「兵と同じものを預言者様が背負えば、皆が喜びます」
それは、確かにそうかもしれない。
受け取ってみると、見た目よりずっと重かった。
中には地図、羊皮紙、筆記具、そして望遠鏡が入っていた。もちろん教科書は入っていない。
本来なら従者に持たせる荷物だ。
けれども、これで兵士たちが喜んでくれるなら、これくらいお安いご用だ。
十五歳になってランドセルを背負うのは少し恥ずかしかったけれど、僕は肩ベルトに腕を通した。
ずしりと肩に重さがかかる。ランドセルが背中に密着する。
背負った瞬間、砲兵隊からうぉーと地鳴りのような大歓声があがった。
どうやら、かなり注目されていたらしい。
「ジャン=ステラ様、万歳! マティルデ様、万歳! イタリアに勝利を!」
その唱和を聞いた瞬間、さっきまでの可笑しさが少し薄れた。
ランドセルを背負っていても、これは登校じゃない。
戦争へと向かうのだ、と。
「ジャン=ステラ様、城門前の整列が済みました。そろそろ出陣のご挨拶をお願いします」
従者の声にうながされ、僕は中庭の奥を見た。
青銅砲も、荷馬車も、軍勢も、もう待ってはくれない。
僕が軍の先頭に立つ時が来た。
***
カノッサの城門前広場には、軍勢が揃っていた。
まず目に入るのは、前列に並ぶ馬上の騎兵たちだ。
槍を立て、日の光を受けた兜と鎖帷子が鈍く光っている。
その後ろに歩兵が列をなし、さらに少し離れた場所で、青銅砲を載せた荷馬車が待機している。
先ほどまで中庭でばらばらに動いていた兵たちも、こうして隊列になると、これが軍隊なのだとひしひしと感じる。
「ジャン=ステラ様、よろしくお願いします」
ティーノに促され、僕は城門上の通路へ出た。そこからは広場の軍勢が一望できる。
兵たちの視線がいっせいに僕へ集まり、ざわついていた広場が水を打ったように静まり返った。
静まり返っているけど、僕を眺める目には熱気がこもっている。
僕たちの兵力は、ドイツの半数ほどしかない。
それなのに彼らの目は、勝利を疑っていない。
預言者。
そう呼ばれる僕が負けるはずはない。彼らは本気でそう信じている。
途端に、胃がきりきりするようなプレッシャーが襲ってきた。
——逃げられるなら逃げ出したい。
もちろん、わかってる。逃げちゃだめだってことくらい。
それでも、戦争は怖いのだ。
下を向きそかけた時、執務室の窓にマティルデの姿が見えた。
遠くて表情までは見えない。
でも、僕はマティルデを知っている。
ああしてじっとしていても、心の中では今にも僕のところへ駆け出してきそうなほど心配しているはずだ。強い顔は作れても、不安を隠せるほど器用じゃない。
——大丈夫だよ、マティルデ。ちゃんと帰るから。
小さく呟いたら、逃げ出したかった気持ちが、すっと消えていった。
前を向く。顔を上げる。一度兵を見渡した。
喉が渇く。唾を飲み込む。
僕は拳を振り上げ、腹の底から叫んだ。
「イタリアは誰のものだ!」
一瞬の静寂。
その次の瞬間、兵たちの声がいっせいに爆ぜた。
「イタリア人のものだ!」
その怒号が、城門の石壁を震わせた。




