それぞれの道へ
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目が覚めると、ノラはすべてを忘れてしまっていた。大変な冒険をした気がするのに、不思議な壁の穴のことも、双子のトカゲのことも、冥界で出会った弟のことも、ちらとも思い出せなかった。気が付けばリビングのソファで眠っていて、傍らには心配顔のオリオが(今度は本物だ)立っていた。
熱病にかかり危険な状態だったアベルは、奇跡的に一命を取り留めた。
母親のフランカは狂喜し、日頃の信仰の賜物だと、教会に多額の寄付をした。ヨハンナは感激のあまりアベルにキッスして、病室にいたたくさんの見舞客を驚かせた。
ノラはと言えば、アベルが目を覚まして以来、一度もお見舞いに行けないでいた。
一時期の凍て付くような寒さが薄れ、香る風が梢を揺らす、麗らかなその日。ノラはさんさんと日が差し込む窓辺に腰かけて、ぼんやりと家の前の通りを眺めていた。
「おーい」
声がして窓の下を見下ろすと、クリフォードが大きく手を振っていた。ノラは笑顔で手を振り返した。
「診療所に行ってきたんだ。アベル、元気そうだったよ」
「そう」
「ノラに会いたがってた」
ノラは少し困ったように、あいまいに微笑んだ。
「下りてこいよ。話そうぜ」
「今行く。ちょっと待ってて」
ノラとクリフォードは玄関のステップに腰かけた。家の前には彼が乗ってきた荷馬車が停まっていて、土がついた農具が積まれていた。
「これから仕事?」
ノラがたずねると、クリフォードは首を左右に振った。
「もう帰るとこ。シルビアの母さんの頼みで、ランベル夫人に洋服の型紙を返しにきたんだ」
「そんなことまでやってるの?使い走りじゃないの」
「ついでだよ、ついで。グッドマンの人達は金離れが良いんだ。お得意様は大事にしないとな」
クリフォードは嫌みのない笑顔で言った。
「……なあ、どうして見舞いに行ってやらないんだ?」
少しの沈黙の後、クリフォードが遠慮がちにたずねると、ノラは目線を下げて物憂い顔をした。
「アベルが倒れたのは、ノラのせいじゃないよ。責任を感じる必要はないよ」
「…………」
「フランカのこと、気にしてるのか?」
ノラは口を噤んだまま首を横に振ったが、半分は嘘だった。フランカの憎しみに燃える瞳を思い出すと、背骨の芯が震えるようだった。
「会いに行ってやれよ。一人で行くのが怖いなら、俺が一緒に行ってやるから」
クリフォードは付き添いを申し出たが、ノラは頷けなかった。
「もう聞いたんだろ?あのこと……」
クリフォードが言いかけると、ノラは今にも泣き出しそうな顔をした。
命は助かったものの、アベルは病気の後遺症で歩けなくなり、フランカは悩んだ末に、その道に詳しいお医者がいるというトラブキアへ引っ越すことを決めた。トラブキアにはアベルの伯父さんが住んでいて、前々から一緒に暮らそうと誘われていたのだそうだ。
「アルバート医師は、ちゃんと練習すれば、いつかは歩けるようになるって」
「…………」
「隣の領だし、会いたいと思えば会いに行けるさ」
ノラの目に涙が滲むと、クリフォードは慌てて言い直した。
クリフォードの再三の説得も、ノラの心を開くことはできなかった。臆病なノラは一度もアベルのお見舞いに行けないまま、引っ越しの当日を迎えてしまった。
出発の朝、人々は町の入り口に集まり、バスティード親子との別れを惜しんだ。
ヨハンナはかわいそうなほど泣きじゃくり、大人達の同情を誘った。ノラは母の尻の陰から、二人の様子を見ていた。ヨハンナはアベルに、愛を告白することができなかった。
「こいよ」
みんながお別れを済ませた後、見かねたクリフォードがノラをアベルの前まで引っ張っていった。ノラを見ると、フランカは警戒心をあらわにしたが、彼女は黙って先に馬車に乗り込んだ。
「……久し振り。元気だった?」
アベルは御者のダニエル・モリンズの腕の中から、ノラに挨拶した。ノラはアベルの、力を失くした脚を間近で見て、唇を震わせた。
「ノラがお見舞いに来てくれるの、待ってたんだよ」
アベルが拗ねた風に口を尖らせ、ノラの目からは我慢していた涙がどっとあふれ出した。
「ごめんね。ごめんね。私があの日、連れ出さなければ……」
「謝らないでノラ。ヨハンナから聞いたよ。誕生日をお祝いしてくれるつもりだったんだろ?」
アベルがたずねて、ノラは頷いた。
「そういえばアベル、一一歳になったのね」
「そうだよ。ノラより一つお兄さんになったんだよ」
アベルはちょっぴり誇らしげに言った。ようやく泣き止んだノラはアベルに近付き、その膝にキスをした。
「アベルの脚がすっかり治って、一日も早くオシュレントンに戻ってこられますように」
クリフォードは恨めしそうな顔をし、マルキオーレは顔を赤くした。黙って様子を見ていた大人達はため息を漏らした。
「すごいよノラ。直ぐにでも歩けそうだよ」
アベルが感激して言って、ノラの心を軽くした。
「私たち二人で一人よ。どこにいても、心は一緒よ」
ノラは涙にぬれた頬を拭い、彼が好きだと言ってくれた笑顔を浮かべた。
「さようなら、みなさん!さようなら!」
アベルは人々の心にさまざまな思いを残し、町を出て行った。ノラとクリフォードとマルキオーレの三人は、馬車の影が見えなくなるまで、手を振って見送った。
「行っちゃったね……」
道の先を見つめて三人がぼーっとしていると、クリフォードの父のフォスターが近付いてきた。
「おい。クリフォードお前、今日はパーラーの店番じゃなかったか?」
「いっけね!そうだった!」
クリフォードは慌てた様子で、荷馬車の御者台に乗り込んだ。
「こんな日まで仕事ー?」
「まあな。アベルだってがんばってるんだ。俺も俺の夢に向かって、進まなくちゃ」
クリフォードは格好良いようなことを言い、颯爽と去って行った。
二人きりになったノラとマルキオーレは、家の方角に向かって歩き出した。
「帝都へ行くよ」
道中、難しい顔で黙りこくっていたマルキオーレは、お屋敷まであと数メートルといったところで、徐に切り出した。前を歩いていたノラは、立ち止まって振り返った。
「前に話しただろ?親父が俺を、騎士学校に入れようとしてるって。ダミアンがさ、俺は体がでかいから、剣に向いてるかもって言うんだ」
「…………」
「向こうに行ったら一年は帰ってこられないと思う。でも俺、行きたいんだ。どうしても」
マルキオーレはいつになく真剣な眼でノラを見つめ、意気込みを伝えた。凛凛とした悪友の顔を見て、ノラは感慨深い思いに駆られた。
彼だけはいつまでもこの町にいて、五年後も十年後も、自分と一緒に馬鹿をやっていると思っていたのに。それは勝手な思い込みだったようだ。同時に願望でもあることに、ノラは気付いた。
「そっか……」
ノラがふっと微笑むと、マルキオーレは表情を硬くした。
「約束する。強い男になって、帰ってくるよ。そしたらその時は、俺の気持ちを聞いてくれるかい?」
マルキオーレは鼻息も荒くたずね、ノラはしっかりと頷いた。
「待ってる。来年の春に、また会いましょう」
二人は見つめ合い、固い握手を交わした。
四月になると、マルキオーレはオリオと共に、帝都へ向けて旅立って行った。六月にはリッピー家に待望の男の子が産まれ、ジャン・リッピーと名付けられた。
ここまで読んで下さった皆様、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。こんな長くておかしな話を、良くぞ読んでくださいました。
ここで終わりと思いきや、二部がはじまります。また長くなると思うけど、お付き合い頂けると嬉しいです。
~以下、宣伝~
一部が終わって五年後の未来。オシュレントンには恋の季節が到来。孤児院で働くノラは花も恥じらう十五歳。人見知りな弟と神経症の母に振り回され、忙しい日々を送る彼女の元に、お見合い話が舞い込む。お相手は幼馴染の彼!?第二部スタートです!