29. 王太子の怒りと「私」
「ようこそ、テオフィル殿、アンリエット嬢。それからフェリク」
王太子の私的な間に通された一行はこうべを垂れた。上座では王太子が一人、足を組んで掛けている。その傍には護衛の騎士が控えているが、常ならば十数人からなるそれが、今は一人だけだ。フェリクのような文官らしい姿は見当たらなかった。
王太子はにこやかに此方を迎えているが、その眼差しは常よりも鋭く、また声色にも僅かな怒りが滲んでいる。側近であり嫡子かつ年長者であるフェリクへの呼びかけを最後にしたのも、その表れだろう。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「堅苦しいことは良い。それで? 何だって、わざわざ父上に口止めまでして、騙し討ちのようにヴェルディエの令嬢令息を連れてきたんだ? 公爵の不正に関する密告でもあるのか?」
「殿下、人払いを」
王太子の迂闊な発言は容易に政治的混乱を招く。故に人前で一度とて聞いたことのない、皮肉の利いた冗談に、リエットは頭の中で組んでいた段取りのパズルを引っ繰り返された気分になった。
フェリクは慣れているのかいないのか、取り合わないままに護衛の退出を願っている。王太子殿下が、これまた珍しいことに――分かりやすく眉を顰めた。
「私は今、お前に騙されたんだぞ、フェリク。この状態で護衛を外せと? ヴェルディエの二人が暗殺に長けていないという保障が?」
「拝謁前に所持品に問題が無いことは確認されているでしょう。必要ならば私の首に刃を当てながらの話し合いでも構いませんよ、殿下」
フェリクは自分の首に剣に模した手刀をとんとん、と当てて見せる。そしてさり気なく、首を覆うように手のひらを移動させた。挑発するようにも取れるそれに、王太子の、肘掛けに置かれた手に、力が籠められるのが分かった。
「フェ、フェリクさま……?」
「大丈夫だよ、リリ」
思いの外険悪な――――良い言い方をするならば勢いの良い―――――会話の飛び交うさまに目を白黒とさせてしまう。リエットが何とか場を落ち着かせんと声掛けをすると、にっこりと笑って返されてしまった。
どうやら、国王の口止めとやらも万全とまでは行かなかったらしい。足を止められる程ではなかったが、辿り着く前に王太子の耳に入り、故にこうして謁見早々、偽りの予定を入れ込んだフェリクに怒りを飛ばしているのだと思われた。
しばし言葉で殴り合うと、気が済んだのか、王太子ははあ、と分かりやすく機嫌の悪い溜息をつき、護衛を退出させた。おそらくフェリクの出した「魔法に関する話である」という喉元の合図は伝わっていて、受ける気はあったものの、けれど文句を言いたかっただけであるらしい。
「ほら、これで私の身一つだ。ヴェルディエを連れてきた訳を教えてもらおうか。それともなんだ? 彼女の『知識』について隠すのは辞めて、王太子妃として推薦しようと?」
「―――っ」
「その顔はやはり、思い出したのだな、アンリエット嬢は」
先の舞踏会で隠したつもりだったそれは、どうやら怪しまれていたらしい。
フェリクへの文句を言うべく眇められていた眼がリエットを捉え、それこそ色を変えたようだった。
当然、其処に甘さなど皆無だ。
「まさか。幾ら殿下と言えど、リリを渡すなど有り得ません」
「元々その娘は私の婚約者だった。王が返還を求めて何が悪い?」
「王族、です、殿下。まだ国王ではない貴方に、その権限は無い。貴方が国王陛下の承認を得るよりも、我々の婚姻が成立する方が早いでしょう」
二人の男性が己が身を取り合っている。久しく手に取れていない、恋物語でしばしば起こる魅力的な一場面は、しかし我が身に降りかかると全くありがたくも無い代物だった。
フェリクの想いは感じるが、王太子のそれは「知識」への執着が成したものである。ときめきの欠片も無いどころか、どろりとした怨念すら感じる気がする。
リエットが半ば気を飛ばしつつおろおろとしているうちに、二人はどんどんとヒートアップしているようだった。
「私を裏切ってどうする、ヴェルディエとコルベールを第二王子に付け、私を廃嫡させるか?」
「まさか、我が身の忠誠は生涯、シャルル殿下に捧げています。もし貴方が誤った道を進むなら、刺し違えてでも止めこそすれ、他へ寝返ったりなど致しますまい」
「己が忠義を尽くすというなら。では、アンリエット嬢を私に差し出せ、そも、あれはもう、お前が愛したアンリエット嬢ではない、別の世界の記憶を持った違う女だろう」
シャルルの断固とした声に、リエットは唐突に、胸の奥に氷を打ち込まれたような気がした。
それは「前世」を思い出してからずっと、リエットが気にしていたことだ。「リサ」の記憶を思い出した「アンリエット」は、本当に「アンリエット」なのかと。
人権という概念を知り、職業婦人が活躍する世界を知り、遥かに発展した科学技術を知った。そうした「前世」の感覚が、日々の生活へも思想へも、染み出しているのは常に感じている。
これまでの想いも気持ちも、なにひとつ忘れていないけれど、「私」は本当に、「フェリクがあんなにも求めているアンリエット」なのか、という不安はぬぐえなかった。
けれど。
「たとえ別の世界の記憶があろうとなかろうと、彼女は私の愛するリリだ。それは変わらない」
間髪入れずに答えられたそれに、冷え切った胸が、柔らかな火を灯されたようだった。
「私が幼き日に先王陛下の回顧録を読んで感銘を受けたように、当時は覚束なかった淑女の振る舞いをリリが今では完璧にこなせるように。交流の一環としての知識だった恋物語が趣味に転じたように。知識や経験によって人が変容していくのは当たり前です。それはリリにも、殿下にも、テオにも、私にも絶えず続いているはず。にもかかわらず、何故リリが別人にすげ変わったような言い方をされるのですか」
焔は全身を巡り、温かな色でリエットの全身を包んでいく。二人の勢いに気圧されていた身体のこわばりがほどけた気がした。
――今ならば、私は、フェリクさまと並んで戦える――、いいえ、終わらせられる。
リエットも、フェリクも、テオフィルも巻き込まれた一連の騒動は、解決しなければ王族と二家のしこりになるだけでなく、次代への禍根ともなるだろう。それを止めるには、フェリクの説得だけではない、「前世」を持ったリエット本人の口からの、幻想の否定が必要なのだ。




