第38話:蒼い花の髪飾り ―あいつに似合う色―
中央広場から少し外れた、石畳の通り。
ルシアン、アマンダ、セレスティアの三人は、波打つ人波に押されるようにしながら歩いていた。
焼き菓子や染布、香油、精巧な木工細工、乾燥させた薬草束。
通りの両脇には、多種多様な露店が、隙間なく並んでいる。
色とりどりの天幕の下で絶え間なく、人々の笑い声と、威勢のいい売り声が交差していた。
セレスティアはその全てを、瞳いっぱいに映し込んでいる。
あちらの香ばしい屋台へ駆け寄ったかと思えば、次の瞬間には、こちらの古びた店先で足を止める。
アマンダもまた、未知の花や草木の香りへ引き寄せられるように、ふらふらと夢見心地で、進路を変え続けていた。
その後ろを追うルシアンは、すでに心底疲弊した顔になっていた。
「だから……。勝手に離れんなって、何度も言ってんだろ……」
低く落とされた声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
それでも、本気で怒鳴りつけたりはしない。
むしろ問題なのは、彼自身がこの奔放な二人をどうしても放置できない、過保護な性質をしていることだった。
人混みの流れに紛れてセレスティアの姿が見えなくなれば、彼の耳は即座に周囲の喧騒を遮断して、娘の足音だけを正確に拾い上げる。
アマンダが珍しい宿り木に気を取られて、薄暗い裏路地へ入りかければ、尾を掴むような執拗さで呼び戻す。
彼の広く頑強な肩は、無意識のうちに一般の通行人を遮っていく。
他人の肩や荷物がぶつからぬよう、自然と二人を庇う位置へと動き続けていた。
だがその代償として、獣としての耳も尾も、神経を削られて疲れ切っていた。
普段の森であれば、威圧感に満ちた、孤高の幻獣であるはずの彼。
それが今や、自由奔放な娘たちに振り回される、哀れな保護者の姿そのものだ。
「この辺りの土は、本当に面白いですね。漂う花の香りに、少しだけ古い鉄分が混ざっています」
「アマンダ、そっちは荷車の通り道だ。轢かれたくなきゃ戻ってこい」
「お父様見て! 蜂蜜をたっぷり塗ったお菓子が売ってる。いい匂い……!」
「お前ら、少しは聞けっての……」
ルシアンは深く息を吐き出し、大きな片手で、自身の額を乱暴に押さえた。
この土地の人間たちが、森の恵みに感謝しながら、純粋に春の訪れを寿ぐ光景。
それ自体には、どこか納得すら覚えていた。
だが、それとこれとは別問題だ。
視界の端で娘たちの姿が消えるたび、獣としての本能が、勝手に神経を尖らせてしまう。
普段の静かな森であれば、気配の流れの揺らぎだけで、全てを網羅できる。
しかし、人間の祭りは匂いも音も、浮ついた感情の質量も多すぎるのだ。
彼にとっては、絶え間なく脳内に押し寄せ、五感を侵食してくる情報の濁流に他ならなかった。
やがて一行は、細かな装飾品を扱う露店が並ぶ通りへと流れ着いた。
硝子細工が淡い虹色の色彩を石畳に反射させ、銀細工や細かな石飾りが、静かな輝きを散らしている。
「わぁ、きれい……!」
セレスティアは、小さな硝子玉を連ねた耳飾りに目を奪われた。
アマンダは乾燥した押し花を閉じ込めた、美しい香油瓶を覗き込んでいる。
そんな中、不意にルシアンの重い歩みが、ぴたりと止まった。
賑やかな露店の片隅。
周囲に並ぶ、色鮮やかな宝石をこれでもかとあしらった、華美な装飾品たち。
それらに埋もれるようにして、一つの小さな髪飾りが置かれていた。
大輪の薔薇を模した細工も、過剰な宝石も、そこにはない。
磨かれた黒檀で作られた細い枝先へ、小さな名もなき小花を模した青い鉱石が、慎ましく散らされているだけ。
ごく控えめな一品だった。
だが、厳しい冬が明けた直後の、冷たくも澄み切った空の欠片を、そのまま閉じ込めたかのように。
その淡い青は、特異な透明感を放っていた。
ルシアンは何も言わず、その髪飾りをじっと見つめた。
脳裏に浮かんだのは、ここへ来る前、鏡の前で自分の角へそっと指を触れていた、ベルローズの後ろ姿だった。
艶やかな黒髪に落ちる、淡い朝の光。
蒼く結晶化した、彼女だけが持つ、唯一無二の角。
彼女が好む、夜の闇を織り込んだような衣装。
ベルローズは、赤も紫もよく似合う。
黒薔薇のような深い色彩は、ドラクロワの魔女としての威厳と傲慢さを、美しく際立たせるだろう。
けれど、ルシアンが思い浮かべたのは、もっと穏やかな彼女の姿だ。
誰もいない夜更けの書斎で、古びた本を読む横顔。
朝靄の窓辺で、まだ眠たげに温かい紅茶を口にする姿。
冷え切った彼女の指先を包んだとき、わずかに細められる、深紅の瞳。
そっと抱き寄せたときに伝わってくる、衣服越しの微かな、ひどく脆い体温。
彼女の、そうした最も無防備で、静かな瞬間。
そこに寄り添うべきなのは、もっと深く全てを包み込むような、澄んだ青だ。
「……お父様?」
隣で硝子細工を見ていたセレスティアが、不思議そうに顔を上げた。
父がこうした、どこか色気のある露店の前で足を止めていることが、珍しく思えたのだ。
「それ……、お母様に買うの?」
セレスティアの視線は、すぐに彼の見つめる小さな髪飾りへと向けられた。
だが、彼女は少しだけ首を傾げる。
「でもお母様なら、もっと大きなお花がついている、華やかなやつとか……。鮮やかな赤や紫の方が似合いそうじゃない?」
確かにその露店には、薔薇を精巧に模した、豪奢な髪飾りも並んでいた。
それから、深紅の硝子石を散らしたもの。
金細工をふんだんに使った、一目で高価だと分かる、派手な品もある。
世間一般の目で見れば。
あるいは、ドラクロワの魔女を知る者が見れば。
そちらの方が間違いなく『ベルローズらしい』と評するだろう。
しかし、ルシアンは低く短い声で答えた。
「……いや。これでいい」
それ以上の説明は、一切なかった。
だがその声には、他者の介入を許さない、揺るぎない確信が満ちていた。
彼は誰よりも、深く知っている。
ベルローズという女性が、本当は他者から過剰に飾り立てられ、定義されるのを、ひどく嫌っていることを。
そして、彼女の夜を溶かしたような黒髪には、夜明け前の空の如き青が、どれほど静かに映えるかを。
けれど、その選択の奥底には、もっと深い衝動が滲んでいた。
赤や紫は、ベルローズ自身の歴史が作り上げた色だ。
魔女としての彼女を象徴する、完璧な、防壁の色彩。
だが、青は違う。
ルシアン自身が放つ蒼炎、彼が産まれた凍てついた霊峰。
瞳に宿る、サファイアの輝き。
それは、ルシアン自身の色だった。
彼は無意識のうちに、己の縄張りを示すように、自分の色をベルローズの黒髪へと纏わせたいと願っていた。
それは番に対する、無骨な独占欲。
他の誰も知らない、自分だけが知っている彼女を、髪飾りの青によって密やかに示したい。
血肉に刻まれた、本能に近い感情だった。
「お父様がそう言うなら、きっとそれが一番なんだろうね」
セレスティアは、なおも不思議そうにルシアンの横顔を見ていたが、納得したように素直に頷いた。
アマンダはその一連のやり取りを、横で静かに眺めながら、外套の袖口から覗く手を口元に当てて微笑んだ。
「青い花というのは、日陰や水辺にひっそりと咲くものが多いですからね。心の奥が静かなベルローズ様に、とてもよく似合う気がします」
ルシアンはアマンダの言葉に、何も返さなかった。
ただ、露店の店主へ短く値段を尋ねると、愛想もなく代金を台の上へ置く。
粗末な紙へと包まれた小さな髪飾りを受け取る、彼の指先。
それは、普段の戦闘からは想像もつかないほど、妙に慎重で、優しかった。
その直後、ルシアンの尖った耳が、ぴくりと微かに動いた。
遠く、何千もの人間の足音が重なる人波の向こう側。
聞き慣れた、冷たくも心地よいベルローズの気配と、ピピの軽い足音がこちらへ近づいてくるのを察知したのだ。
少し遅れて、セレスティアも嬉しそうにその耳を動かし、顔を輝かせる。
「あ、お母様たちだ!」
人混みの向こうから現れたベルローズは、小さな紙包みを、胸元へと大切そうに抱えていた。
その何かを守るような仕草を見た瞬間、ルシアンは微かに眉の間に皺を寄せた。
二人の距離が縮まり、視線が交差する。
そして一瞬だけ、互いの手がしっかりと握りしめている、小さな紙包みへと視線が落ちた。
「それ、持つぞ」
ルシアンが当然のように、彼女の荷物へと手を伸ばす。
けれどベルローズは、ほんの少しだけ、包みを胸元へ引き寄せた。
「いえ。……これは、私が持つの」
「そうか?」
ルシアンは素っ気なく返したものの、わずかに首を傾げた。
ベルローズが、妙に大事そうに抱えているその荷物。
気にかかるが、手のひらに乗るほどの小さな包みだ。
本人が持つというのなら、わざわざ取り上げるほどのものでもない。
そう考えたのか、ルシアンはそれ以上は何も言わなかった。
彼女が何を選び、何を買い求めたのか。
彼が何を想い、何をその手に収めたのか。
まだ、この賑やかな祭りの大通りの中では、互いに言葉にすることはない。
他者の感情が渦巻く祝祭の喧騒の中で。
二人が全く無意識のうちに、互いの存在を想ったこと。
そして、その姿を脳裏に描きながら、小さな土産を選んでいたのだという事実。
それだけが、夕闇の迫る空気の中へ、優しく滲み渡っていく。




