第29話:春の訪問者 ―ちょっと変わってるけど、素敵―
春の陽光が、柔らかく禁忌の森へ降り注ぐ朝。
ドラクロワ城の空気には、どこか普段とは異なる落ち着かなさが漂っている。
何も変わらないはずの光景の中で、その内部に暮らす者たちの心は、目に見えない小さな波紋によって揺らされていた。
特にセレスティアは、朝から隠しきれないほどそわそわとしていた。
彼女が城の外へと飛び出し、初めて出会った友達、エマ。
あの日から時折、セレスティアは、森の外縁で彼女との時間を過ごしていた。
小さな花を摘み、他愛のない会話をするなかで。
セレスティアはふと、エマを誘ったのである。
「ねぇ、エマ。あのね……、私の家に、遊びに来ない?」
エマは一瞬、面食らったような顔をした。
だが、すぐに明るい表情を見せる。
「いいの!? 絶対行くよ!」
その笑顔を見たセレスティアも、輝くような微笑みを返した。
そして今日。
セレスティアは初めて「自宅に友達を迎える」という、年頃の少女らしい体験を味わおうとしていたのだった。
セレスティアは、西塔の窓辺へ何度も足を運んでは、まだ霞の残る森の外縁をじっと見つめていた。
意味もなく髪の房を指先で整え直したり、落ち着きなく尾を揺らしたりしている。
漆黒の尾が石床を叩くたび、彼女の緊張が微かな音となって響いた。
その様子を、ソファに腰掛けたベルローズが静かに見守っている。
彼女は紅茶を一口含んでから、呆れ半分に告げた。
「セレスティア。そんなに窓を見続けなくても、来る時は来るわよ」
「……分かってるの。でも本当にあの子が、このお城まで来てくれるって思うと、どうにも落ち着かなくて」
セレスティアは窓辺から離れられぬまま、小さく声を漏らした。
初めて『友達を家へ招く』という行為。
それがどれほど特別なことで、どれほど勇気の要ることなのかを、彼女自身も持て余しているようだった。
一方、ルシアンは朝から露骨に機嫌を損ねていた。
大広間を無意味に横切り、窓の外を鋭い眼光で睨みつけ。
普段なら気に留めることもないはずの城門周辺の巡回を、既に三度も繰り返している。
「……だから言っただろ。外の人間をわざわざ城へ入れる必要はねぇって。厄介事の種を蒔くだけだ」
不機嫌そうに吐き捨てる声は低く、野性的な響きを孕んでいる。
だが、彼がエマという少女個人に対して敵意を向けているわけではないと、皆が理解していた。
実際のところ、ルシアンはエマが向かってくるであろう道周辺を、魔物や野生の獣がうろついていないか、徹底的に点検していた。
戦う力のない、娘の『友達』が、一人で安全にこの城に来られるような保証はないからだ。
「昨日から城の周りをずーっとぐるぐるし続けてる人が、何を言ってるんだか」
ピピが盆を磨きながら、呆れたように茶化すと、ルシアンは鼻を鳴らした。
「……別に。ただの見回りだ」
「ふーん、そう。見回りにしては、さっきから尾がずっと落ち着きなく揺れてるけど?」
ルシアンは顔をしかめたが、その指摘を否定することはできなかった。
彼の尾は、自らの言葉とは裏腹に、城門の向こうから近づいてくる未知の気配を、鋭敏に察知しようとして揺れ動いていた。
やがて、城門を覆う結界の縁に、微かな外部の気配が触れた。
セレスティアは弾かれたように立ち上がり、迷うことなく城門へと駆け出す。
ベルローズの魔力に呼応して、重厚な格子や扉が開かれていく。
春の風と共にやって来たのは、小ぶりの薬草籠を抱えたエマだった。
エマは、天を衝くように聳えるドラクロワ城の威容を見上げ、圧倒されたように立ち尽くした。
だが、その瞳に宿っているのは恐怖ではなく、純粋な感嘆だった。
「わぁ……。本当にお城なんだ。なんだか、絵本の中に入っちゃったみたい」
門をくぐる彼女の、その素直な感想。
セレスティアは、胸の奥を締め付けていた結び目が、ふわりと緩むのを感じた。
もしエマが、この場所を呪われた城として怖がったなら。
自分の育ってきた日常さえも否定されたように感じて、深く傷ついたに違いない。
エマの真っ直ぐな視線が、何よりの救いだった。
「どうぞ、こっちだよ」
セレスティアは少し誇らしげに、エマを城内へと案内し始めた。
中庭に咲き誇る黒薔薇を見れば、エマは「夜の色をそのまま写したみたい」と感嘆する。
図書室で壁一面を埋め尽くす古書の群れを見れば、その背表紙を愛おしそうに眺めた。
エマがそれらを異様なものとしてではなく、誰かが大切に守り、ここで暮らしている場所として見ていること。
案内するセレスティアにとって、それが何より重要だった。
自分にとっては当たり前の日常。
けれど外の人間から見れば、恐ろしく歪んだ、怪物の巣窟なのではないか。
そんな得体の知れない不安を、セレスティアはずっと心の底で飼っていた。
エマの歩みは、その不安を一つずつ丁寧に塗り替えていった。
やがて、ベルローズと対面した時。
エマは一瞬だけ、その美貌と、頭部にある角、魔女としての底知れぬ威厳に息を呑んだ。
しかし、ベルローズが静かな仕草で温かい茶を勧めると、エマはすぐに表情を和らげた。
「……セレスティアのお母さんって、すごく綺麗な人なんだね」
あまりにも飾らない、純粋な賛辞に、ベルローズの方がわずかに目を瞬かせた。
一人の母親として、これほど無垢な賞賛を受けたのは初めてのことだ。
「ありがとう。お口に合うか分からないけれど、召し上がれ」
彼女は少しだけ口元を綻ばせ、優しく返した。
ルシアンだけは、最後まで微妙な警戒を解こうとはしなかった。
窓を背にして腕を組み、身体を窓枠に預けたまま、無言でエマの動向を観察している。
だがエマは、そんな彼に対しても臆することがなかった。
「セレスティアのお父さんって、本当に背が高いんだねぇ」
「そうでしょ? 大きいよね」
「目はセレスティアと似てるかも。青くて透き通ってる」
妙に日常的な感想をぶつけてくる、調子を崩されるような感覚。
ルシアンは、若干やりづらそうに眉を寄せた。
「お父様は、いつも森を守ってるの」
「やっぱり木こりさんじゃなかったんだ。森の番人さんだったんだね」
セレスティアがどこか自慢げに紹介すれば、エマは、自分の中で妙な納得をしていた。
「は? 木こり……、何の話だよ」
ルシアンは低い声でぼやいたが、エマの屈託のない笑顔を前に、それ以上鋭い言葉を向けることはできなかった。
城で時間を過ごすうち、エマは次第にドラクロワの住人たちが纏う空気の色を、肌で感じ取っていく。
ベルローズが無意識に、セレスティアの乱れた髪を指で整え、ピピが階段の段差で躓きかけたエマとセレスティアを、注意深く引き戻す。
アマンダが「冷える前に、この薬草茶を飲んでくださいね」と湯気の立つ杯を差し出す。
ルシアンが不器用ながらも、無言でセレスティアの歩幅に合わせて歩いている。
それらの些細な積み重ねを見たエマは、ふと、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「なんか、みんな本当に仲良しなんだね」
その言葉に、ドラクロワの面々は少しだけ目を丸くした。
彼らにとってそれは特別なことではなく、ただ当たり前に続いてきた日々だった。
外の世界の瞳に映った自分たちは、その当たり前が、何よりも光り輝いて見えるのだということを、彼らは初めて教えられた。
エマは窓辺から城内をもう一度見回し、ぽつりと零した。
「……セレスティアの家族って、ちょっと変わってるね」
その一瞬、セレスティアは思わず身体を強張らせた。
やはり、隠しようのない異形さが、彼女を不安にさせたのだろうか、と。
だが、エマはすぐに続けた。
「変わってるし、珍しいし、正直最初はちょっとびっくりしたよ。でも、すごく素敵。みんなちゃんと、セレスティアのこと大事にしてるのがわかるから。私、遊びに来られて良かったな」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの胸の奥で、長い間言葉にならなかった不安が溶けていった。
自分たちは、普通ではない。
人とは違う血を分け合い、隠れるようにして生きている異分子だ。
けれど、そんな自分たちの在り方を、肯定し、素敵だと言ってくれる人が外の世界にいた。
その事実は、セレスティアにとって何物にも代えがたい救いだった。




