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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第4章:境界の向こう

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第28話:帰る場所の灯り ―帰りを待つ人たち―

 春の陽が、ゆっくりと西へ傾き始めた頃。

 禁忌の森には、静かな帰巣の気配が満ち始める。

 昼間には若々しく光を弾いていた若葉たちも、次第に沈みゆく陽光を透かし、長く伸びた影を、その身に纏わせている。


 セレスティアは、エマと別れた境界の場所に、しばらくの間立ち尽くしていた。

 無意識のうちに持ち上げられた手のひらを、彼女は不思議な面持ちで見つめる。

 エマと共に摘んだ薬草の、苦くも瑞々しい香りが残っていた。


 彼女の胸の奥には、これまで感じたことのない種類の熱が灯っている。

 ベルローズとの魔法訓練で得られる達成感とも。

 厳しい訓練の果てに、ルシアンにかけられる言葉への満足感とも、異なるものだった。


 自分自身の足で歩き、自分と同じ時を生きる誰かと出会い、言葉を交わした。

 外の世界へ触れた者だけが抱くことのできる、落ち着かない高揚だった。


 だがその一方で、日が落ち始めるにつれ、胸の奥には別の感覚も芽生え始めていた。

 もっと外を見ていたい、もっとエマの話を聞いていたい。

 自分の知らない景色や、聞いたこともない村の暮らしを、もっとその目に焼き付けていたい。

 その渇望は、確かにある。


 それなのに、森へ差し込む光が薄れ、影が紫がかった濃淡を描き出すほど。

 彼女の足は、自然とドラクロワ城の方向を意識し始める。


 帰りたくないという執着よりも強く、あの城へと、自分の魂が引き寄せられていくのを感じる。

 セレスティアは、その相反する二つの感情の揺らぎを、春の冷気の中で初めて自覚したのだった。


 森に住まう小動物たちが、カサカサと落ち葉を鳴らしている。

 それぞれの暖かな巣穴へと戻る支度を始めているのが、空気の震えを通じて伝わってきた。


 一方その頃、ドラクロワ城では、夕刻の冷えた空気が石造りの回廊を満たし始めていた。

 城の住人たちは、表面上は普段と変わらぬ日常を演じていた。

 だが、その意識は等しく、城外の森へと向けられている。


「春の森ってのは、時の流れが狂いやすいんだから……」


 ピピは中庭に面した回廊で、ぶつぶつと独り言をこぼし、石壁の点検を続けていた。

 石を叩く槌の音は正確だが、その視線は数分おきに窓の外へと彷徨う。

 廊下に置かれた時計の針を確認するたびに、その手元は微妙に落ち着きを欠いていく。


 温室では、アマンダが静かに、苗の植え替えを行っていた。

 彼女は誰に聞かせるでもなく、穏やかに呟いている。


「今日は風がとても優しいですから。大丈夫ですよ」


 彼女の手から伸びる微細な菌糸は、無意識のうちに森の浅層へと、広く深く、網の目のように広がっている。

 セレスティアが発する微かな魔力の波導を、アマンダはその感覚の指先で、繊細に探り当てようとしていた。


 大広間では、ベルローズが暖炉の傍で紅茶を口にしながら、静かに本を開いていた。

 その姿勢は優雅そのもので、周囲には静寂が漂っている。

 しかし、開かれた頁の文字は先ほどから、一文字も彼女の脳裏には刻まれていない。


 彼女はただ、城を包む魔力結界の縁に、愛娘の気配が触れるその瞬間を待ちわびていた。

 そしてルシアンだけは、露骨に不機嫌な空気を、全身から発散させている。


「……だから、一人で行かせる必要なんざなかったんだ」


 何度目かも分からない文句を低く吐き捨て、落ち着かない尾の動きを隠そうともせずに、大広間を往復している。


 ルシアンには、森の気配の流れから娘の位置が手に取るように分かっていた。

 危険な魔物に遭遇していないことも、怪我一つしていないことも理解している。


 だからこそ、迎えに行くという過保護を、理性が制止しているのだが。

 帰りが遅いという事実そのものが、彼の野性的な親としての本能を、これ以上ないほど苛立たせる。


 ベルローズは、そんなルシアンの背中を静かに見つめる。

 彼女の胸の奥にも、微かなざわめきがあった。


 彼女は、セレスティアをこの城という檻に閉じ込めておきたいとは、思っていない。

 むしろ、かつての自分のように、狭い檻の中で世界を歪め、孤独を深めるような思いをしてほしくない。

 だからこそ、娘には自由な世界を見てほしいと願っている。


 だがその一方で、これまで完全にこの城の内部だけで完結していた、セレスティアの閉じた世界。

 それに、今日踏み出した一歩が、外という異質な概念を持ち込んだことも、理解していた。


(……あの子は、いずれ私たち以外の誰かと出会い、私たちの知らない景色へと、惹かれていくのでしょうね)


 生きるものとして、あまりにも当たり前の未来であり、祝福すべき成長だ。

 それを理解しているからこそ、ベルローズは自分の中に、消えることのない確かな寂しさが溜まっていくのを認めていた。


 その頃、セレスティアは一人で春の森を歩きながら、森の呼吸へ耳を澄ませていた。

 昼間は高揚のせいで気づかなかったが、エマと別れて独りになったことで、全身を覆っていた心地よい緊張が、少しずつ解けていく。


 エマは優しかった。

 自分の異形を恐れず、ただの女の子として笑ってくれた。


 その記憶を思い返すたびに、胸は温かくなる。

 それと同時に、今こうして森を歩きながら無性に「帰りたい」と切望している自分自身にも気づいてしまう。


 ドラクロワ城は自分にとって、最も深く、最も安心して息を吐ける場所だ。

 その事実を、彼女は森の静寂の中に独り身を置くことで、改めて実感していた。


 やがて、森が濃い夕闇へと沈み始めた頃。

 木々の隙間から、見慣れた西塔の窓灯りが見えてきた。


 深い夕空の中で、その灯火だけが、静かな温もりを持って森を照らしている。

 その光が瞳に映った瞬間、セレスティアの胸の奥で、今日一日抱え続けてきた緊張と興奮が、ゆっくりと鮮やかに解けていった。


 そこで初めて、彼女は自分が無意識のうちに早足になっていたことに気づく。

 城へ近づくほど、周囲を包む魔力の結界が、肌へと馴染んでいく。


 ベルローズの、静謐で洗練された魔力の流れ。

 ピピの、石壁を伝う微かな共鳴。アマンダの菌糸が歌う、柔らかな呼吸。

 そして、城の奥深くから漂ってくる、ルシアンの深く低い、圧倒的な存在感。


 それら全てが、一斉に彼女を迎え入れるように包み込んでくる。

 大広間の重厚な扉を開けたセレスティアを、予想通り不機嫌そうな顔をしたルシアンが迎えた。


「遅ぇぞ」


 開口一番、彼は不満を隠さずに声を落とした。


「日が落ちる前に戻れって言っただろうが。足音が軽すぎて、追いづれぇんだよ」


「ご、ごめんなさい」


 厳しい言葉とは裏腹に、彼の尾は娘が帰ってきた瞬間から、明らかに安心したように、ゆったりと大きく揺れている。

 セレスティアは最初、父の剣幕に肩を縮めてしゅんとした。

 だが、その胸の奥に溢れる感情を、もう抑え込むことはできなかった。


「……お父様。あのね、今日……、友達ができたの」


 ぽつりと零されたその一言に、大広間の空気が静まり返った。

 ピピは運んでいた工具を置かぬまま目を瞬かせ、アマンダは、柔らかく笑った。 

 ベルローズは、慈しむように目を細めている。

 そしてルシアンだけが、石像のように固まった。


 娘に、友達ができた。

 その事実は、彼の理性においては喜ばしいことだった。


 だが同時に、自分たちだけの聖域であった世界に、外の何者かが繋がり始めた感覚。

 それが彼の本能的な縄張り意識を、激しく刺激したのだ。

 ルシアンは、その複雑で説明のつかない感情を無理やり押し殺し、努めて低く、冷淡さを装った声で尋ねた。


「……どんなやつだ、そいつ」


 セレスティアは椅子に座り、家族に囲まれながら、エマのことを少しずつ語り始めた。


 薬師の娘であること。森の植物に詳しく、この森を愛していること。

 春祭りの楽しそうな話を、たくさんしてくれたこと。

 そして何よりも、自分の姿を見ても怖がらず、友達として笑ってくれたこと。


 その話に耳を傾けながら、ドラクロワの面々もまた、理解していた。

 セレスティアが、自分たちの腕の中から少しずつ滑り出し、自分だけの新しい世界を築き始めていることを。


 それは少しだけ、痛みを伴う変化だ。

 けれど冬を越え、花を咲かせようとする生命の、正しく美しい営みだった。


 夜も更けた頃。

 セレスティアは西塔の自室で、今日エマと共に摘んだ花や薬草を、机の上に丁寧に並べていた。

 指先には、まだ春の土と瑞々しい緑の香りが残っている。


 けれど、彼女の背後には暖炉の火が爆ぜる温かな音がある。

 城の奥からは、家族たちの穏やかな気配が、心地よく届いている。


 外の世界は、美しかった。

 見たこともないものに満ち、刺激に溢れていた。

 それでも、帰ってきた瞬間に、張り詰めていた心の糸がふっとほどける。

 この場所は、自分にとってかけがえのない家なのだ。


 セレスティアは、静かな幸福に包まれながら、深い眠りへと誘われていく。

 窓の外では春の夜風がそよぎ、西塔の灯りを優しく揺らしていた。

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