第26話:森の外側 ―はじめての出会い―
禁忌の森と外界を隔てる、曖昧な境界線の上で。
二人の少女は、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
春の柔らかな風が、若葉をさざめかせている。
雪解け水が岩を打つ、透明な音だけが、静かに周囲を満たしている。
セレスティアにとって、自分と同じくらいの年頃の少女と真正面から向き合うことそのものが、人生においてほとんど未知の経験だった。
城の中にいるのは、親愛なる家族であり、師であり、自分を守る守護者たちだ。
対等で、純粋な他者として、これほど近い距離に立つ同世代の人間。
それは、彼女の記憶のどこにも存在しない。
しかも目の前の少女は、セレスティアの頭上で時折ぴくりと動く獣の耳や、上着の裾から覗く尾を見ても、怯える様子を見せなかった。
驚きは確かにあったが、それは例えば道端で、初めて見る花を見つけた時のような。
素朴で、率直な困惑に近いものだった。
その視線の温度が、セレスティアには不思議なほど心地よかった。
相手は、彼女を魔女の落とし子とも、畏怖すべき幻獣の娘とも見ていないらしい。
ただ「今まで知らなかったものを見つけた」という、剥き出しの好奇心で彼女を捉えていた。
先に沈黙の糸を解いたのは、その少女の方だった。
「……もしかして、ドラクロワ城の人?」
柔らかな声だった。
怯えを押し殺した無理な硬さも、敵意を隠して探りを入れるような、嫌な響きもない。
セレスティアは、緊張で強張っていた耳を揺らし、小さく頷いた。
「うん。……私、セレスティアっていうの」
「やっぱり。なんとなく、そんな気がしたんだ。私はエマ。森の外れの集落で、薬師をやってる家の娘なの」
エマと名乗った少女は、どこか確信を得たように、ほっと肩の力を抜いた。
そして、胸元に抱えていた編み籠を持ち直しながら、屈託なく笑う。
「この時期はね、雪の下から芽を出す薬草が一番いいから、よくこうして採取に来るんだよ」
セレスティアは、その言葉に目を丸くした。
森の外側で、ごく当たり前に生活を営んでいる人間がいること自体は、ピピやアマンダの話から知識として理解していた。
だが、実際にこうして言葉を交わし、彼女たちが自分たちと同じようにこの森の恩恵を受けて生きているのだと実感するのは、これが初めてだった。
「でも、本当にいたんだねぇ。幻獣と魔女の娘さん、なんだっけ?」
エマは、セレスティアの戸惑いに気づいているのかいないのか。
あっけらかんとした様子で、春の陽光が差し込む周囲を見回す。
「お父さんから、森の奥には恐ろしい化け物じゃなくて、森を守っている人たちがいるって聞いてたけど……。思ったよりずっと、普通の女の子なんだね」
普通の女の子、という響き。
セレスティアは思わず、胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えた。
エマの言い方には、悪意や揶揄はない。
幼い頃から枕元で聞かされてきたものの存在を、ようやく確認できた。
そんな、純粋な喜びだけがあった。
「せっかくだし、少し一緒に歩こうよ?」
エマはそれ以上、深く追及はしなかった。
そして、まるで何年も前からの友人に呼びかけるような、自然な調子で言う。
セレスティアはほんの一瞬、城の厳しい教えや、ルシアンの不器用ながらも心配そうな顔を思い浮かべた。
迷ったけれど、不思議とこの少女を拒む理由は見つからない。
むしろ、胸の奥に小さな、消えない熱が灯るような感覚があった。
自分の知らない外の世界が、今まさに、目の前で手招きをしているように感じたのだ。
「……うん。いいよ、少しだけなら」
二人は並んで、芽吹き始めた春の森を歩き始める。
エマは、薬草採取にはだいぶ慣れているらしい。
陽光の当たり具合や、土の湿り気を丁寧に確かめながら、迷いのない足取りで獣道を進んでいく。
その様子を、セレスティアは少し後ろから眺めていた。
セレスティアが拾い上げるのは、風の流れや遠くの音、地中を流れる魔力の気配だ。
対してエマが見ているのは、もっと具体的で、生活に根ざした植物の息吹だった。
同じ森の空気を吸い、同じ景色を歩いているのに、見ている世界が全く違う。
その差異が、耐え難いほど新鮮だった。
「うわっ、ちょ、ちょっと待って! なんで、そんなところを普通に歩けるの?」
エマが、驚きから裏返った声をあげる。
斜面に倒れかけた、苔むして滑りやすそうな古木の上を、セレスティアが軽々と渡りきったときだった。
セレスティアは振り返り、不思議そうに小首を傾げる。
「え? ……普通じゃ、ないかな」
「普通じゃないよ! そこ、絶対滑るし、下手したら真っ逆さまでしょ」
セレスティアは、無意識のうちに尾で重心を微調整している。
まるで平坦な回廊でも歩くかのような安定感で、そこに立っていた。
彼女にとっての森は、自らの身体と呼吸を合わせるべき空間そのもの。
風の向き、枝の軋み、苔が体重を吸い込む具合。
それら全てが、考えるよりも先に身体へと入り込んでくる。
「いつもお父様に、厳しい訓練をされてるからかなぁ」
「訓練?」
「うん。森の中を目隠しで走らされたりとか、風の音だけでお父様の位置を当てたりとか……、そういうの」
エマは呆気にとられたような顔をして、しばし絶句した。
「……セレスティア。あなたのお父さん、一体何をしてる人なの?」
「え?」
「だって、普通の訓練じゃないでしょ、それ。木こりさん? それとも、腕利きな狩人さんなのかな?」
セレスティアは、その問いに初めて言葉を詰まらせた。
考えてみれば。
自分はルシアンを父として無条件に認識し、愛している。
だが、彼が人間たちの社会においてどのような役割に分類されるのかを考えたことがなかった。
父は木こりでも、狩人でもない。
いや、そもそも、人ですらない古の幻獣だ。
だが、それをそのまま口にできない自分がいた。
先ほどエマが言った『普通の女の子』という言葉が、急に遠い物語へと飛躍してしまうような気がして、怖かったのだ。
「ええとね……」
セレスティアは真剣に、適切な言葉を探して考え込む。
「森を、守っている……人? かな?」
「守っている人?」
エマが、思わずといった様子で吹き出した。
「何それ、全然職業っぽくないよ。でも、なんだか凄そう」
「でも本当に、そんな感じなの。毎日巡回してるし、すごく強いし……。それに、たまに大きな犬みたいに温かくなるし」
「あはは、変なの! お父さんが犬みたいって」
エマは、心から愉快そうに瞳を細めた。
その笑い声を聞きながら、セレスティアは少しだけ目を瞬かせる。
普通、という言葉の響きは、不思議だった。
エマは、ドラクロワ城の住人を「森の奥に住んでいる、ちょっと変わった家族」くらいの親しみやすい温度感で捉えていた。
そのことが、セレスティアにとっては何よりも誇らしく、そして嬉しい。
二人はその後も、まだ固い木の実を拾い、陽光に透ける春の花を摘み、小川のほとりへ腰を下ろして話を続けた。
エマは、森の外にある村の話をしてくれた。
雪が解けたら開かれる春祭りの賑わいや、色とりどりの薬草が並ぶ市場のこと。
今年は日当たりがよく、春の訪れを祝うパンがきっと美味しくなること。
それはお伽話のように遠い世界ではなく、手を伸ばせば触れられるほど近くに息づいている、生きた外の世界だった。
自分たちの知らない場所で、自分たちとは違う理で、それでも確かに同じ季節を愛でている人々がいる。
そう思うだけで、セレスティアの胸の奥は静かに、波打つようにざわめいた。
やがて、西の空へ傾き始めた陽光が、森の木々を淡い黄金色へと染め上げ、影を長く伸ばし始めた。
エマがふと空を見上げ、名残惜しそうに立ち上がる。
「そろそろ帰らなきゃ。うち、お父さんと二人暮らしだからさ。遅くなると、薬の調合どころじゃなくなるくらい心配するんだ」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの胸が重たく、寂しく沈んだ。
もっと話したい。
もっと、彼女の瞳に映る世界の色彩を、分けてほしい。
エマは、そんなセレスティアの心根を見透かしたように、小さく笑いかけた。
「……また、ここに来るでしょ? 春の森は、これからもっと綺麗になるんだから」
「……うん!」
セレスティアは、その言葉を噛み締め、力強く頷いた。
春の風が若葉を揺らし、二人の少女の髪を柔らかく撫でていく。
禁忌の森の外縁で、誰に知られることもなく始まったこの出会い。
それはまだ、名前を持たない小さな光のまま、静かに芽吹き始めていた。
セレスティアは、夕闇が混じり始めた森の道を、ドラクロワ城へと引き返す。
そうして、さっきまでエマが握っていた薬草の、苦くも瑞々しい香りが、自分の指先にも残っていることに気づいた。
それは、彼女が今日初めて踏みしめた外の世界の、確かな手触りだった。




