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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第3章:悠久の庭園

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第25話:群れの熱 ―今宵は幻獣が暖炉です―

 禁忌の森に、その冬一番の寒波が降りてきた。

 夜明け前から、空は鉛色に重く沈み、雲は低く垂れ込めている。


 ドラクロワ城は、厚い石壁と強固な魔力結界に守られている。

 とはいえ古い城特有の、微細な隙間から忍び込む冷気までは、完全に拒みきれなかった。

 石床は氷のように冷え、回廊を渡る風が、肌へ絡みついてくる。


 セレスティアは大広間で、厚手のショールを肩に掛けたまま、窓辺に立ち尽くしていた。

 窓硝子の向こうでは、雪が斜めに激しく吹きつけている。

 見慣れた中庭の景色は、白く曖昧な影へと変わっていた。


 朝から続く、尋常でない寒さのせいで、彼女の獣耳は力なく伏せられている。

 尾も、外套の内側へしまい込まれるように丸まってしまう。


 魔女と幻獣の血を引くとはいえ、彼女の身体は、まだ十五歳の少女のものだ。

 霊峰で育ったルシアンほど、寒さへの耐性があるわけでもない。

 ベルローズのように魔力で体温を調律する技術も、まだ身についていない。


「……寒いなぁ」


 思わず零れた呟きは、本人が思うより、ずっと頼りない響きを帯びていた。

 ちょうど広間へ入ってきたルシアンが、それを聞いて片眉を上げる。


 濃藍の髪には、外の巡回で浴びた吹雪の名残の、白い霜が付着していた。

 それでも、彼自身は寒さなど欠片も気にしていない様子だ。

 極寒の冷気を肺へ入れて育った幻獣にとって、この程度の寒波は不快ですらない。


「この程度でへばってんのか」


「お父様の『この程度』とは違うんだよ……」


 セレスティアが恨めしそうに返すと、ルシアンは鼻を鳴らした。

 だが、その視線はすでに娘の頬の血色、耳の角度、尾の力の抜け具合を正確に読み取っている。

 呆れているのではなく、体調を緻密に測っている目だった。


「動けばいいだろ。丸まってるから余計に芯まで冷えるんだ」


「昨日も、いっぱい訓練したのに?」


「寒い時こそ、身体動かして熱を回せよ」


 それだけ言うと、ルシアンは部屋の暖炉の火力を手早く確認し、薪を一つ追加してから去っていった。

 セレスティアは、不満げに唇を尖らせる。


 けれど、父がわざわざここへ来た理由が、ただ様子を見るためだったこと。

 それくらいは、もう理解している。

 文句を言いながらも火を強めていく背中に、彼女は小さく笑みを零した。


 その日の城は、どこもかしこも冷え切っていた。

 ピピは回廊の隙間風を塞ぐため、石材の継ぎ目へ魔力を通しながら、忙しく走り回っている。


「この寒波、絶対に城壁の継ぎ目に悪いよ」


 ピピ本人にとって、寒さそのものは大きな問題ではない。

 それでも、急激な気温低下による石の収縮や、微細な歪みは見過ごせないらしい。

 彼はぶつぶつ言いながら、厚手の外套を着込んで城中を見回っていた。


 アマンダは温室へ籠もり、寒さで萎えかけた苗たちの根元へ菌糸を巡らせていた。

 植物たちを眠らせるべきか、無理に温めるべきかを、静かに見極めているのだ。


 ベルローズは大広間の暖炉へ魔力を通し、冷えた城全体へ穏やかな熱を分配する調律を行っていた。

 けれど、どれほど手を尽くしても、その夜の寒波はしつこく、石壁の奥深くへと冷たさを染み込ませていった。


 夜になり、吹雪はさらに荒れ狂った。

 窓が風に悲鳴を上げ、城の外では森全体が、猛烈な白い闇に呑み込まれている。

 大広間の暖炉前には、自然と城の面々が集まり始めていた。


「これは冬眠の気配ですね」


 アマンダはどこか穏やかに言い、両手で薬草茶の杯を包み込む。

 セレスティアは椅子へ座って膝を抱え、厚い毛布にくるまっていた。

 ピピは帳簿を抱えたまま、火に近い場所へ、無理やり陣取ろうとしている。


 ベルローズだけは、普段と変わらぬ優雅な姿勢で長椅子に腰を下ろし、黒いドレスの裾を整えている。

 彼女の蒼角は、暖炉の火と魔力の循環に呼応して、わずかに淡い光を宿していた。


「寒い……」


 セレスティアがまた小さく呟いた時、大広間の扉が重厚な音を立てて開いた。

 現れたルシアンは、しばらく全員の様子を見渡した後、面倒そうに深く息を吐いた。


「仕方ねぇ奴らだな」


 その声には、諦めにも似た響きがあった。

 次の瞬間、彼の身体を濃い蒼の魔力がゆらりと包み込む。

 ベルローズだけがわずかに笑みを浮かべ、彼を見つめている。


 人の形をしていた輪郭が、ゆるやかに歪む。

 骨格が大きく広がり、蒼い毛並みが暖炉の光を受けて、水面のように波打った。


 大広間の床へ、大きな影が落ちる。

 ルシアンが、古の蒼き幻獣の姿を露わにしていた。


 しかし今のその姿には、戦場の凄絶な殺気はない。

 暖炉前に悠然と身を横たえた彼はただ強大で、そして圧倒的に、温かそうな存在だった。

 彼は大きな頭を低く下げ、サファイアブルーの瞳でセレスティアを見た。


「ほら、来い」


 それだけだった。

 十五歳にもなって父の毛並みに埋まるのは、子供っぽいのではないか。

 そう、セレスティアは一瞬だけ迷ったようだ。


 けれど吹雪の音は、容赦なく窓を叩く。

 暖炉の熱よりも、目の前の分厚い毛並みから伝わる確かな体温の方が、どう考えても魅力的だった。


 彼女は毛布を抱えたまま、吸い寄せられるようにおずおずと近づき、父の前脚と胸の間の広い空間へ身を沈める。

 途端に、外套越しにもわかるほどの強烈な熱が、全身を包み込んだ。


 毛並みは驚くほど深く、柔らかく。

 冬の冷気を遮断するように、彼女を受け止める。


「……あったかい!」


 セレスティアの声が、長い毛の奥へ吸い込まれる。

 ルシアンは何も答えなかったが、大きな尾の先が一度だけ、満足げにゆるく動いた。


「ちょっと、セレスティア様だけずるくない?」


 ピピが不満げに言う。

 彼は本気で羨ましいのか、それとも単に茶化したいだけなのか分からない表情で、ルシアンの毛並みを見つめていた。


「……毛がつくとか、土臭いとか言うんじゃねぇのか?」


 ルシアンの低い声が、喉奥から鳴った。

 人型の時よりもさらに深く、床を伝って、暖かく響く声だった。


「それとこれとは別だよ。寒いものは寒いんだ。……すみませんセレスティア様、ちょっと詰めてください」


 ピピはむっとしながらも、結局セレスティアの横へもぞもぞと、強引に潜り込んだ。

 最初は遠慮がちに端へ座っていたくせに、数分も経つ頃には、彼はルシアンの腹の毛へ半身を埋め、顔だけを出していた。


「……お前な。くすぐってぇよ」


「なんだよ、我慢しろ。これが一番効率いいんだから」


「そうやって潜り込んどいて、どうせ抜け毛がとか言って騒ぐんだろ?」


「うーん、それは正直否定しない。……けど、あったかいよ。これ」


 二人の応酬を、セレスティアは豊かな毛並みに頬を埋めながら聞いていた。

 昔からずっと変わらない、父とピピのやり取り。

 その声が、暖炉の火よりも不思議と心を落ち着かせる。


「では、わたしも少しだけお邪魔しますね」


 アマンダはそう言うと、当然の権利を行使するように、尾の付け根近くへしなやかに腰を下ろした。

 彼女は温室の湿り気を纏ったまま、ふわふわの毛並みに指先を埋めて、満足そうに目を細める。


「うん。とても温かいです」


「おいアマンダ。服、湿ってねぇだろうな」


「大丈夫です。……たぶん」


「たぶんってなんだよ」


 抗議はしたものの、ルシアンは誰一人として追い払わない。

 大きな尾をゆっくりと動かし、暖炉の熱を逃がさぬよう、集まった者たちを半円状に囲い込む。

 その仕草は、巣穴の中で群れを温める生き物そのものの慈しみだった。


 ベルローズだけは、しばらく離れた位置から、その奇妙で温かな光景を眺めていた。

 深紅の瞳には、呆れたようで、どこか柔らかな笑みが浮かんでいる。


「私は平気よ。あなたたちほど寒がりではないもの」


 ルシアンはゆっくりと片目を開け、ベルローズを射抜くように見た。

 次の瞬間、長い尾が生き物のように彼女の腰元へ伸び、柔らかく巻き込んだ。


「……ちょっと、ルシアン」


「冷えてるじゃねぇか。角の光も弱ぇぞ」


 短い断定に、ベルローズは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに抵抗をやめた。

 彼の毛並みに直接包まれる熱は、魔力で整えた無機質な暖かさとは違う。

 生き物の、泥臭くも確かな温度を持っていた。

 彼女は静かにルシアンの首元へと移動すると、身体を預け、背を凭れさせる。


「……本当に。ずいぶん贅沢で、大きな暖炉ね」


「暖炉扱いすんな。……もう寝ちまえよ」


 低く返す声に、ベルローズは小さく笑った。


 吹雪は、夜更けまで続いた。

 窓の外では雪が石壁を叩き、森は白い闇に閉ざされている。


 大広間の暖炉前だけは、幻獣の体温と星灯り草の青白い光、そして炎の橙色が混ざり合う。

 どこか夢の中の巣穴のような、安堵が湛えられていた。


 セレスティアは父の胸の毛に埋まり、幼い頃のように耳を伏せて、深い眠りに落ちかけている。

 アマンダは既に穏やかな寝息を立て、ピピも帳簿を胸に抱えたまま、いつの間にか舟を漕いでいた。

 そしてベルローズも、彼の首元へ凭れたまま、静かに目を閉じている。


 ルシアンは薄く目を開け、自らの身体に身を寄せる者たちを見下ろした。

 群れとは自分を拒み、傷つける場所だった。

 けれど今、彼の周囲にいる者たちは、誰も彼を遠ざけない。


 巨大な獣の身体に身を預け、その温もりを分かち合い、安心しきって眠っている。

 それがひどく不思議で、少しだけ面映く。

 そしてどうしようもなく、満たされる。


 ルシアンは静かに息を吐き、大きな尾をもう少しだけ深く、皆へ巻きつけた。

 戦うための獣でも、傷つけるための牙でもない。

 今夜の彼はただ、この小さな群れが冬を越すための、たった一つの熱だ。


 吹雪の音は遠く、暖炉の火は、穏やかに揺れている。

 深い夜の中。

 蒼き幻獣は、自らの体温に包まれて眠る家族の重みを感じ、ゆっくりと、穏やかに目を閉じた。

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