第22話:生きるための訓練 ―父の尾は、あたたかい―
その後の訓練は、慈悲を削ぎ落としたかのように苛烈さを増した。
目を閉じた状態で、接近する気配の距離を読む。
風向きの変化だけで、背後の父の位置を察知する。
尾で重心を制御しながら、凍りついた細い倒木を渡りきる。
セレスティアは何度も失敗し、その度に無慈悲な重力に引かれて、地面へ膝をついた。
膝には泥と霜がこびり付き、白い吐息は乱れ、指先は冷え切っている。
「……もう、無理……。動けないよ……」
とうとう力尽き、座り込んだ娘を見下ろしながら、ルシアンはしばらく無言で立ち尽くしていた。
彼は娘の足取りと呼吸から、どこまでが疲労で、どこからが危険なのか、すべて把握している。
差し伸べようとした手を引き戻し、隠すようにして、胸の前で腕を組む。
ルシアンは眉を寄せ、あえて素っ気なく、セレスティアに声をかけた。
「立てねぇのか?」
「立たなくちゃって、分かってるよ……。でも、脚が、震えて……」
「もし俺がお前の敵だったら、待ってくれねぇぞ」
突き放すような、硬く冷たい言葉だった。
しかし、その声音の底に隠された響きは、決して拒絶ではなかった。
ルシアンは痛いほどに知っている。
一度倒れた時、自力で立ち上がることができなければ、その先にあるのは確実な死であることを。
自分の血を引く娘には、いかなる絶望の中でも自分を支えうる足を持ってほしい。
いつでも守ってやれるとは限らない。
常に傍には、いてやれないかもしれない。
自分が駆け付けられない瞬間にも、生きていて欲しい。
そう願うからこそだった。
ルシアン自身、誰かから優しい教えを受けた経験などない。
だからこそ彼は、怪我をしない範囲で、実践感覚を叩き込むやり方しかできなかったのだ。
セレスティアは震える唇を噛み、泥にまみれた手で地面を押して立ち上がる。
すると、ふいに自分の尾へ、重厚で柔らかな感触が絡みついた。
ルシアンの大きな尾が、支えを失いかけた彼女の身体を補強するように、腰の後ろへと回されていた。
「……甘やかさないんじゃ、なかったの?」
「勘違いすんな。……お前が歩けなくなったら、日が暮れるまでに城へ帰れねぇだろ。俺が面倒なだけだ」
目を逸らし、吐き捨てるようにして返す父。
それでも絡められた尾は、振り払われることはなかった。
そのまま二人は、並んで冬の森を歩き出した。
城への帰り道。
夕暮れの低い光が、木々の隙間から斜めに差し込んでいる。
深い冬色へ沈み始めた森を、蜂蜜のような淡い色に照らし出していた。
セレスティアは無意識のうちに、隣を歩く父の大きな尾へ、指先を絡めて歩いていた。
幼い頃に父の背を、尾を追いかけていた、あの頃のように。
「お父様って、昔から、毎日こんなことしてたの?」
ルシアンは歩調を緩めることなく、少しの間を置いて答えた。
「毎日でも足りねぇよ。死にたくなきゃ……」
そこまで言いかけて、彼は言葉を止めた。
かつての自分には、暴力と生存しかなかった。
独りで生き残るために牙を研ぎ、殺される前に殺す。
それが世界の全てだった。
だが今、隣を歩く娘に、同じ血塗られた道を歩ませたいわけではない。
自分の足で立つことと、独りきりで歩くことは違う。
歩くのが辛いときには、誰かと支え合ってもいい。
ルシアンが自分の人生で、遅れてようやく知ったことだった。
ルシアンは娘に視線だけを向け、ぽつりと零す。
「……まあ、お前には俺たちがいる。全部を一人で背負って、死に物狂いで牙を剥く必要はねぇよ」
確かな優しさがこもったその声に、セレスティアは、父によく似た蒼い瞳を丸くした。
彼女は疲れの中に安堵を滲ませて、小さく笑う。
「うん」
その返事を聞きながら、ルシアンは前を向いた。
ドラクロワ城の尖塔が、夕闇の紫の中に、静かに浮かび上がり始めている。
窓から漏れる灯りは、冬の冷気の中で星のように瞬き、帰還を待つ温もりを放っていた。
かつてのルシアンにとって、帰る場所など、実体のないものだった。
だが今、あの灯りの下には、愛する番がいて、共に城を守る仲間がいて。
そして何より、今隣で自分の尾を掴んでいる、この娘がいる。
「おい、いつまで赤ん坊みてぇに尾掴んで歩く気だ?」
「だって……。疲れちゃったよ」
ルシアンは呆れたように鼻を鳴らしながらも、その温かな重みを振り払うことは一度もない。
結局セレスティアは、城の門が見えるまで、父の尾を決して離そうとはしなかった。
疲れ切った身体を引きずって城へと戻ると、玄関ホールでベルローズが二人を待っていた。
泥だらけになった娘と、大した汚れもないルシアンを見比べ、彼女は呆れた眼差しを向ける。
「……少し、やりすぎではないかしら? ルシアン」
「怪我はしてねぇ」
ルシアンはベルローズの刺すような視線を受け、ほんの少し耳を伏せた。
ベルローズは顎に手をやり、セレスティアの魔力の巡りや身体の状態を、慎重に検分する。
なるほど。
確かにルシアンの言うとおりだ。
彼女は泥に塗れ、疲労困憊ながら、傷ついてはいないようだった。
「……それならいいけれど。それで、セレスティア。ルシアンとの訓練はどうだったかしら。実りあるものになった?」
「うん。はじめはついていくのもやっとで、何度も、もう無理って思ったけど……。お父様、褒めてくれたよ」
セレスティアは息を整えながら、心から嬉しそうに笑みを形作った。
娘の笑顔に、ベルローズは目を見開き、ルシアンを見つめた。
ルシアンは、彼女のそうした仕草を予期していたかのように、目線を逸らしたままだ。
「そうなの。……それは良かったわね」
ベルローズはセレスティアに歩み寄ると、優しくその髪を撫でた。
セレスティアは目を細め、父がするのと同じように、耳を小刻みに揺らす。
「それとね。城に戻ってくるまで、お父様が尻尾に掴まらせてくれたから……、なんとか帰って来られたの」
「あら、そう……」
ベルローズはルシアンを見つめ、くすり、と堪えきれない笑みを零す。
その深紅の瞳が語っている。
あなたは少しも変わらないのね、と。
「余計なことまで喋んな」
ルシアンは居心地悪そうに耳を伏せ、踵を返した。
セレスティアははっとして口元に手をやり、困ったように母を見ている。
「……いけないことだったかな」
「いいえ。構うことはないわ」
背後から聞こえてくる、母娘のやりとり。
ルシアンは長い指で、深い皺を寄せた眉間を押さえる。
「さっさと飯に行くぞ。遅れるとピピがうるせぇ」
言い捨てて歩き出す背中とは裏腹に、その尾はぎこちなく左右に揺れていた。
ベルローズはその素直な様子に、改めて密やかな笑みを漏らす。
「そうね。温かい薬湯も用意しましょう。二人とも、体がすっかり冷えているでしょうから」
セレスティアの耳が、ぴんと立つ。
疲労で重かったはずの足取りも、温かな食事を思い浮かべた途端、少しだけ軽くなった。
「お父様、待って!」
ふらつきながらも懸命に父の後を追う娘に、ルシアンは振り返らないまま溜息をつく。
けれどその歩幅は、娘が追いつけるよう、ほんの少しだけ緩められていたのだった。




