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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第3章:悠久の庭園

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第21話:獣の感覚 ―父、容赦なし―

 冬の気配が、本格的に色濃くなり始めた禁忌の森。

 濃密な朝靄と共に、芯まで凍てつくような冷気が、淀みなく沈殿していた。


 ドラクロワ城の尖塔を囲む森の巨木たちは、すでに大半の葉を振るい落としている。

 裸になりかけた枝々の隙間から差し込む淡い朝日が、白く湿った地面へ、鋭く長い影を描き出す。


 夜明け直後の森は、一見すれば、深い静寂に守られているように思えた。

 しかし、その静止した空気の下で息をひそめているのは、霜を踏む小動物の微かな足音。

 地中深くを流れる水脈の律動。枝から枝へと渡る、風の溜息。


 さらには土の下で眠る菌糸の、微かな呼吸に至るまで。

 無数の命の気配が幾重にも折り重なり、一つの巨大な生き物として、森全体を脈動させていた。


 セレスティアは、そんな森の入口に立っていた。

 肺の奥まで凍りそうな冷気を吸い込み、白く重い息を吐き出している。

 昨日までの魔法訓練とは、肌を刺す空気の質そのものが違う。


 ベルローズの教えは、静謐で、理知的だ。

 己の内側の深淵へと沈み込み、魔力の糸を一本ずつ丁寧に紡ぎ上げるような作業だった。


 しかし今、目の前に立つ父は、森の暴力的なまでの生命力そのものを背負っているかのような圧を纏っている。

 その耳は、風の揺らぎに合わせて絶えず細かく動いている。

 尾は地面すれすれを波打つように、ゆるやかに揺れていた。

 その姿には、生存の極限まで研ぎ澄まされた捕食者の気配が、隠しようもなく滲み出ている。


「……それで、今日は何から始めるの?」


 セレスティアが、慎重に問いかける。

 ルシアンは腕を組んだまま、顎の先で森の奥、光さえ届かぬ影の領域を示した。


「走るぞ」


「……え?」


「森の中をだ。転ぶな、気配を見失うな、風向きを読め。……それと、余計なことを考えずに音を聞け」


 あまりにも無機質で、雑な説明だった。

 説明にすらなっていない。

 だが、それらはルシアンにとってはすべて、切り離せないひとつの感覚だ。


 セレスティアは思わず、目を瞬かせる。

 父が森を訓練場に選んだ理由は、正直なところ、よくわかっていなかった。

 木剣でも放って寄越されるか、ここで魔法陣でも描くよう言われるかと思っていたのだ。


(どういうこと? ……ぜんぶ、同時にやらなきゃいけないの?)


 母が相手であれば、順序立てて積み上げてくれたはずだ。

 だというのに、構えや呼吸法すら教えられない。


 そのまま父は当然のように、無音の足取りで森の深部へと踏み込んでいく。

 その広い背中を慌てて追いながら、セレスティアは自身の尾の先を不安げに揺らした。


 最初のうちは、ただついていくだけで、全ての感覚が擦り切れる思いだった。

 ルシアンは速い。

 それでも、彼にとっては全力疾走などではなく、むしろ娘の歩幅を考慮して、極限まで抑えられた速度だった。


 ごつごつと隆起した木の根を、寸分狂わず避ける足運び。

 湿った苔に重心を預けないように注意を払った、滑らかな移動。

 枝葉をわずかにも擦らせない、身の沈め方。

 その全てが無駄なく自然で、彼は森の一部となって、滑るように進んでいく。


 父親になり、ルシアンは確実に、何かが丸くなった。

 それでも、幻獣としての野生も技術も、彼は何一つ失っていない。


 対してセレスティアは、少しでも速度を上げようとすれば、枯葉を無様に踏み鳴らす。

 尾による均衡が追いつかずに身体を揺らし、何度も何度も、腐葉土に足を取られそうになった。


「違ぇな」


 ルシアンが、振り返ることもせず低く言った。


「なに? 何が違うの?」


「お前、自分の尾が今どこにあるか、頭で考えなきゃ分かってねぇだろ」


「え?」


 セレスティアは反射的に、自身の背後にある尾へと意識を向けた。

 だがその瞬間、意識の空白を突くように、前方の木の根が足を掬う。


 大きく体勢を崩し、凍った土に顔を打ち付けるかと思った直後。

 気づかぬ間に背後に回ったルシアンの、しなやかに伸びた尾が、彼女の腰を軽く押し戻して立て直させた。


「視線を落とすな。森は下だけを見て歩く場所じゃねぇぞ」


 低い声が、頭上から降ってくる。

 呆れてはいるが、怒りも甘さも、責めるような響きも、そこにはなかった。

 ただ、生き残るための冷厳な事実だけを、淡々と叩き込む声色だ。


 訓練は、さらに森の深部へと続いた。

 耳を澄ませろと言われても、最初は何を拾い上げればいいのかさえ判別できない。

 

 風の唸りも、葉擦れの音も、遠くの鳥の羽ばたきも。

 全てが一塊の雑音となって、鼓膜に押し寄せてくる。

 しかしルシアンは、一切の助け舟を出さなかった。


「考えるな。聞こうとしないで受け入れろ」


「聞いてるよ……! でも、全部の音が一度に来るんだもん」


「聞こえてねぇんだよ。お前は今、音を探してる。そうじゃなく、向こうから勝手に入ってくるもんをただ拾え」


 それは、ベルローズの教えとは対極に位置するものだった。

 母は魔力を精密に制御し、己のなかで律しろと言った。


 だが父は、自らの境界を曖昧にし、身体を世界へ向けて開けと言っている。

 理屈ではなく、純粋な本能で、この森という巨大な回路に接続しろ、と。


 やがて、極限の疲労で視界が揺らぎ、呼吸が喉を焼く熱を帯び始めた頃だった。

 セレスティアは不意に、乾燥した小枝が弾ける、微かな硬い音を拾った。


 自らの左後方、わずか数歩の距離。

 考えるよりも先に、身体が沈んだ。


「……わっ」


 その直後、ルシアンが指先で弾いた木の実が、彼女の耳先を掠めて飛んでいく。

 ルシアンが、ようやくその足を止めた。


「今のは、悪くねぇ」


 セレスティアは荒い息を切らしながら、自分の耳をそっと押さえた。

 音を聞こうと意識したわけではない。

 ただ、その音が直接脊髄に触れたかのように、身体が勝手に反応したのだ。


「お前、やっぱ目より耳の方が速ぇな」


 ルシアンは興味深そうに目を細めると、独り言のように、ぼそりと呟いた。

 セレスティアの感覚は、母のように精密な制御ではなく、感覚的で、獣に近い。

 それでいて、単純な自分の映しというわけでもない。

 ただの野生の反応では終わらず、その奥底で、精密な星の魔力と分かちがたく結びついている。


「そう、なのかな」


 ルシアンは黙ったままで、娘を見つめて頷いた。

 笑みひとつ浮かべてはいなかったが、耳の先が満足そうに、微かに揺れている。


 悪くねぇ。

 父に認められたその一言が、鮮烈にセレスティアの胸へと刻まれる。

 セレスティアは、疲労に強張った頬にほんの少しだけ笑みを浮かべ、父の言葉を受け止めていた。


 冬の森は、なおも静かだ。

 その静けさの奥で、少女の中に眠る獣の感覚が、目を覚まし始めている。

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