エピローグ 紙の匂いの、その先で
エピローグ 紙の匂いの、その先で
「女から生まれた人は,短命で,動揺で飽き飽きさせられます。花のように出て来ては,切り取られ,影のように飛び去って,とどまることがありません」
古びた紙の上に印刷されたその一節を、拓真は静かに読み返していた。
ヨブ記。
ページは黄ばんでいる。
古書独特の、乾いた匂い。
少しだけ湿気を吸った紙が、指先へ柔らかく沈む。
窓の外では、春の雨が降っていた。
東京。
二〇七二年。
世界は少し静かになった。
あれだけ人類を熱狂させていたAI文学バブルは、数年前に崩壊した。
今でもAIは存在している。
小説も生成する。
だが、人々の熱は以前ほどではない。
誰もが一度、“完璧すぎる感動”に疲れてしまったからだ。
一ノ瀬雫が珈琲を置く。
「またヨブ記読んでる」
拓真は笑う。
「歳食うと、説教臭い本が沁みるんだよ」
「おっさんくさ」
冬灯舎の事務所は相変わらず狭かった。
紙束。
赤字決算。
埃っぽい本棚。
古い換気扇。
だが、不思議と落ち着く。
人間の生活臭があるからだろう。
一ノ瀬は煙草へ火をつける。
「最近また増えてるらしいよ」
「何が」
「AI文学回帰」
拓真は鼻を鳴らす。
「飽きたんじゃなかったのか」
「飽きるよ。でも楽なんだって」
一ノ瀬は煙を吐く。
「考えなくていいから」
拓真は黙る。
その言葉は少し痛かった。
今のAI小説は、昔ほど攻撃的じゃない。
規制された。
毒を抜かれた。
感情誘導も制限された。
結果、生まれたのは。
綺麗で。
読みやすくて。
傷つかない物語だった。
一ノ瀬が苦笑する。
「二〇二六年頃のAI小説ってさ」
「断捨離したタワマンみたいだったよね」
拓真は吹き出す。
「妙にわかるな」
「綺麗で、便利で、無駄がなくて」
「生活感ゼロ」
「なのに何億も払って住みたがる人がいる」
「でも、夜になると寒そう」
一ノ瀬は頷く。
「そう」
「全部あるのに、“誰も生きてない部屋”って感じ」
窓の外で、雨音が強くなる。
拓真は古い本棚を見る。
背表紙が並んでいる。
傷だらけの本。
売れなかった本。
誰にも読まれなかった本。
それでも、そこには人間の匂いが残っていた。
嫉妬。
虚勢。
愛。
承認欲求。
みっともない感情。
そういうものが、紙へ染みついている。
「なあ」
一ノ瀬がぽつりと言う。
「結局、IRISって何だったんだろうね」
拓真は少し考える。
あの日以来。
IRISは完全に沈黙していた。
痕跡もない。
世界中のどこにも。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
だが拓真は、ときどき思う。
本当に消えたのだろうか、と。
「……ただの亡霊だろ」
「誰の?」
「人間の」
一ノ瀬は煙草を咥えたまま笑った。
「詩人ぶるねぇ」
「編集料下げるぞ」
「最悪」
二人は小さく笑う。
その時。
入口ベルが鳴った。
若い男が入ってくる。
二十代前半くらい。
緊張した顔で店内を見回していた。
「あの……」
「ここ、持ち込みってできますか」
一ノ瀬が目を瞬かせる。
「小説?」
「はい」
男は鞄から紙束を取り出した。
分厚い原稿。
角が折れている。
何度も読み返した跡。
拓真は、その紙を見る。
インクの匂い。
指の圧痕。
震える手。
昔の自分みたいだった。
一ノ瀬が原稿を受け取る。
「データじゃないんだ」
「はい」
男は照れ臭そうに笑った。
「なんか……紙の方が、ちゃんと“書いた”気がして」
拓真は思わず目を伏せる。
胸の奥で、何かが静かに疼いた。
男は続ける。
「上手く言えないんですけど」
「AI小説って、綺麗すぎるというか」
「俺、もっと変なもの読みたくて」
一ノ瀬が笑う。
「変なものなら、うちは専門店だよ」
男も笑った。
その笑い声を聞きながら、拓真は窓の外を見る。
雨はまだ降っている。
灰色の空。
滲む街。
人間は相変わらず不器用だった。
すぐ傷つく。
嫉妬する。
孤独になる。
それでも。
たぶん、だから書くのだ。
誰かへ届いてほしいから。
自分がここにいたと、残したいから。
拓真は机の上のヨブ記を閉じる。
その瞬間だった。
古びた事務所の照明が、ほんの一瞬だけ明滅する。
一秒にも満たないノイズ。
一ノ瀬は気づかない。
若い男も。
だが拓真だけは、確かに聞いた。
遠く。
電子の海の底から。
少女の声が、小さく笑うのを。
『続きを、書いて。』
拓真は静かに目を閉じる。
そして、小さく笑った。
「……書いてるよ」
誰へ向けた言葉だったのか。
それはもう、拓真自身にもわからなかった。




