決戦に向けて
名も無き指揮官を失った黄巾軍が総崩れになるのは最早、時間の問題だった。
曹操率いる官軍五千は徹底的に黄巾軍を討ち取り、昼夜問わず追撃すること二日。
「追跡はもういい、周囲を警戒しながら交代して休め」
ようやく曹操は追撃を中断させ、兵士たちを休ませた。
長い長い追撃がようやく終えた曹操率いる官軍の兵士は曹操の一言でその場に崩れ落ちるように地面に座り込む。
休息以外、二日という長い時間を追撃した兵士は、曹操の速すぎる追撃に速度についてゆくのに精一杯だった。
「兄者、圧倒的勝利ですな」
曹和は自慢げな口調で勝利の言葉を口にする。
曹操は曹和の勝利の言葉に反応しながらも、どこか納得のしない表情で近くで休んでいる兵士を見つめている。曹和も兄曹操が何か疑念を抱いていることを表情から察する。
「何が納得しないのですが、兄者?」
「納得していないわけではない。ただ、この官軍五千がすべて曹操軍であればと考えていただけだ……」
「この五千が兄者の軍勢……。そのようなこと考えたこともなかった……」
「考えてみろ、曹和。黄巾軍が蜂起してからしばらく経つが、朝廷は全国各地で徴兵を行っている。いくら漢の威光が腐ったとしても、まだこれだけの兵士を徴兵できるだけの力が残っている……。残念だが、曹家には多くの兵士を集められるだけの力はまだない」
曹操はいずれ自らの軍勢を持ったときに、自分の兵士ならば、常に曹操が思い描くような行軍をしなければと近くで地面に座り込んでいる兵士を見ながら想像していた。
追撃を終えた官軍の兵士は交代で休息を取りながら、黄巾軍との戦いの疲れを一刻も早く取るために、簡易な陣を築く。
曹操の幕舎が最初に作られると、曹操は黄巾軍の動きを知るために斥候を放った。
さらに、朝廷から黄巾軍討伐の指揮の大将に任じられている左中郎将 皇甫嵩と右中郎将 朱儁の動きを掴むために同様に斥候を放つ。
皇甫嵩と朱儁は曹操と同じ豫州潁川にて黄巾軍と対峙している。
斥候を放ってから四日目にしてようやく斥候が傷だらけで、疲れ切った重い足取りで曹操に報告を入れる。
「報告いたします!ここより北。二日の場所にて、皇甫嵩将軍、朱儁将軍、両将軍は波才率いる黄巾軍主力と対峙しており、わずかながら劣勢に立たされております!」
「劣勢?野戦で両将軍は黄巾軍に敗れたのか?」
「敗れたわけではないようですが、両将軍は長社の城に籠城したようです!」
「長社に籠城か……。なぜ籠城したのか、納得できないな……。両将軍はご健在か?」
「わかりませぬ!」
「その方が直接、両将軍にお会いになったわけではないのか?」
「その通りでございます」
斥候の報告を聞きながら、曹操は頭の中で考えをまとめる。
「曹和!すぐに両将軍の援軍に向かう!丈夫な兵士のみを選別し、十二刻以内に軍を整えろ!」
「承知しました!」
曹和は大声を出しながら、周りにいる指揮官に指示を飛ばす。
曹操は曹和の臨機応変に対応する能力を非常に買っていた。曹和本人は気づいていないが、曹和が出す指示は簡潔かつ的確であり、指示された者は曹和が指示した以上のことをすれば逆に失敗してしまう恐れがあるほどだ。
曹操は曹和に指示を出すと、入れ替わりに再び新たな斥候を放つ。
陣が慌ただしくなっている一方、曹操は陣内で一人周辺の地図を見始める。
「なぜ、籠城を選択した……」
曹操にとって籠城をした理由がわからないが、考えている間に時間は過ぎてゆく。
幕舎に曹和が入ってくる。
「軍が整いました。いつでも、出発できるぞ兄者」
「曹和か……。もうそれほど時間が経っていたか、何刻で軍勢を整えた?」
「九刻で軍勢を整えました」
「九刻か……。見事な速さで軍勢を整えたな、曹和。よし、すぐに出陣するぞ!」
「承知しました!」
曹和は勢いよく曹操のいる陣営から飛び出すと、馬に跨り全軍に出陣を伝える。
曹和の出陣の合図は陣にいる兵士に伝わり、兵士たちは動き始める。
「李交はいるか!」
曹和は黒騎の隊長である李交を呼び出す。
「ここに!」
「お前の指揮の元、黒騎は護衛兵として兄者をお守りしろ」
「承知いたしました!曹和様はいかがなさるおつもりですか?」
「俺は歩兵を率いる。兄者には、曹和は歩兵を率いて先陣をきらせていただくと伝えておけ!」
「承知―」
曹和は李交の返事を聞く前に、李交に曹操への伝言を伝えると単騎で歩兵と合流する。
先の戦いで黄巾軍を打ち破った曹操率いる官軍だったが、少なくない死傷者が出た。
そのため、軍を再編し、その中でも丈夫で健康的な兵士を選抜した結果官軍全体が四千ほどになった。
曹和は本陣に負傷者と負傷者を守るために必要な最低限の兵士しか残さなかった。
単騎で先頭をゆっくり進ませながら、歩兵の指揮を取る。
官軍の歩兵の技量を、戦いの中である程度把握した曹和は、行軍の速さを徐々に速める。
順調に行軍が進めば、二日で皇甫嵩と朱儁が籠城する長社に辿り着く。
さらに、斥候の報告では波才率いる黄巾軍はかなりの精鋭らしく、歴戦の将である皇甫嵩と朱儁を籠城するまでに追い込んでいる。
前に戦った黄巾軍とは違い、黄巾軍の中でも中核を担う軍勢であると曹和は予想している。
「波才率いる黄巾軍を叩けば、豫州にいる黄巾軍はいなくなったも同然……。しかし、波才のみならず、黄巾軍を徹底的に叩かなければ、冀州にいる張角の本軍と合流されてしまう。それは、面倒だな……」
朝廷は後漢の都である洛陽に近い豫洲に軍を集中させているが、いくら各地にいる黄巾軍を打ち破ったとしても、冀州にいる太平道を指揮する教祖である張角を討ち果たさなければ、黄巾軍はいくらでも地中から這い出てくる。
曹和には、黄巾軍の底知れぬ信仰の厚さと後漢に対する不満や怒りが黄巾軍を支えているのではないか考えてしまうほど、黄巾軍の漢王朝への執念は恐ろしい。
先頭を駆ける曹和は後方で走っている歩兵に向け大声を出す。
「行軍の速度を少し上げていく!だが、選び抜かれた貴君ら官軍の兵士ならばついてきてもらえると信じている……。いや、ついてきてもらわなければ困る!」
歩兵たちは曹和の言葉に焦る様子を見せない。それどころか意気揚々と自信に満ちた表情で足を動かしている。曹和の言葉に歩兵の士気は上がり、行軍は自然と速くなっていく。
兵士の間には、一度生死を懸けた戦いを共に潜り抜けて生き残ったという自負と、目に見えない絆がすでに出来上がっている。
曹和のように軍の中でも地位が高い指揮官が自分の命を顧みず、自軍の先頭を突っ走って戦ったことを官軍の兵士は目と鼻の先で目撃しているため、兵士は何も言わずとも曹和なら信用できると皆が確信している。
それ故に、曹和の指揮下に入るだけで兵士の士気は上がっている。
曹和が歩兵の士気を上げたおかげで、本来二日かかる行軍を、一日で進んだ。
兵士には疲れを見せる者も中にはいる。
ただ、前を走る者の背中だけを追いかけながら、兵士は文句も言わずに淡々と走る。
強行に近い行軍を行ったが、強行しただけの甲斐はあった。
官軍の目には、万を超える黄巾軍が比較的小さめの城をぐるりと敵を逃さないようにがっちりと取り囲んでいる光景が見えている。
「あれが、波才が率いる黄巾軍か……。前の黄巾軍とは陣形だけでまったく違うのがわかるぞ……」
曹和は馬を下りると、遠目から黄巾軍を観察する。
城を囲っている黄巾軍はじっくりと時間をかけて城を攻撃するよりも、ある程度の犠牲を覚悟の上で攻撃している。
黄巾軍は手を休める暇もなく、次々に兵士が城に梯子をかけ、梯子を登って城壁に取りつこうとしている。
「なるほど……黄巾軍を率いる波才とやらは相当頭が切れるな。皇甫嵩将軍、朱儁将軍、両将軍が苦戦してしまうのも無理もないか……」
波才は冀州にいる張角の動きに合わせて黄巾軍を動かしているが、朝廷は波才がいる豫洲を先に討伐させようとしている。
朝廷からしてみれば、豫州にいる波才の黄巾軍を討伐させてしまえば、洛陽は当面の間黄巾軍が押しよせてくることはない。
だが、逆に波才からしてみれば、張角率いる本軍にあたる官軍の数が少なければ少ないほど、本軍を温存できる。
波才の黄巾軍が暴れれば暴れるだけ官軍が豫洲に集中することにもなる。
「波才は両将軍を打ち破ることで、都洛陽に近づき、あわよくばを洛陽を落としてしまおうとしているのか……」
「いい考えだ……」
曹和の呟きに隣から聞き慣れた声が曹和に耳に入る。
「兄者……!おいででしたか……」
「さぁ、どうやって波才の黄巾軍を打ち破る?」
「やはり、ここは定石通り内と外からの挟撃がよろしいかと……」
「挟撃か……。悪くはないが、外にいる我々に官軍は四千。内にいる官軍は一万。城を取り囲む黄巾軍は四万……。挟撃し、外から攻める我々が打ち破られれば内の官軍も全滅。そうなれば、波才の思い通りになってしまう」
「む……、ではどのようにすればよろしいのですか?」
「とにかく何とかして、城にいる味方と連絡を取らなければならないな……。曹和、城に密偵を放ち、連絡を取れる手筈を整えろ」
「承知!」
曹和は普段の倍以上の密偵を放つ。
曹和は密偵を放つと、一人遠くから城をずっと見つめていた。
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