伏兵 上
曹操軍五千が出撃準備を終え、兵士たちは曹操からの号令を待っていた。
辺りはすでに薄暗く、人の姿を目で捉えることがようやくできるほどだ。
曹操は全軍をゆっくりと見渡すと、声を出すことなく用意されていた馬に跨り、馬を駆けさせる。
その背後を追うようにして、曹操軍五千が進軍を開始する。
曹操自らが先頭に立ち、軍は虎牢関を迂回するようにして、夜道のなか険しい山道に足を踏み入れる。
山道は暗闇に包まれ、月明かりも木々に遮られている。
先を進む兵士の姿さえ、僅かに確認できる程度だった。
足元に注意しながら、五千の兵士たちは黙々と山道を進んでいく。
「すでに長安に移動を開始しているのであれば、董卓軍は虎牢関の兵を少なくしているだろう。だが、この状況では董卓軍の動きはわからない。追いつくことができれば、好機はあるぞ」
普段の曹操であれば斥候を放ち、情報を整理してから軍略を立てる。
だが、今回はその時間すら惜しい。
とにかく前へ前へ、董卓軍に追いつくことが先決だ。
「兄者、このまま董卓軍に気づかれなければ、背後を襲えそうだ」
「子元、油断するな。この暗さでは敵も条件は同じだ。こちらも背後を絶たれれば混乱し、一気に崩れるぞ」
「崩れたらすぐに兄者は撤退してくれ。その時の殿は俺が務める」
「何を言う――」
前方の山を抜け出した時だった。
二人の視界に、突然董卓軍が姿を現した。
まるで曹操たちがここを通ることを知っていたかのように、前方を塞いでいる。
「読まれていたか……!」
曹操は思わず声を漏らす。
伏兵――。
その二文字が曹操の頭をよぎる。
この暗闇の中で待ち伏せていた。
こちらの動きはすでに読まれていたのだ。
追いつくことを急いでいた。
それでも、この状況は最悪だった。
曹操は周囲を確認する。
しかし、敵の動きを把握するよりも前に、董卓軍が一斉に動き始める。
「まずい……!」
考えている時間はない。
「兄者は中央へ。周囲には決して一人で飛び出さず、固まって敵兵に対応するよう伝令を」
「私のことはいい!ここはすでに敵の狩場だ。包囲が完成する前に抜け出すぞ」
「兄者、焦る必要はない。敵が待ち伏せていた以上、そう簡単には包囲を抜け出せない。それならば、ここで敵を受け止め、後方の軍と合流して撤退したほうが抜け出せる可能性は高い」
曹和は周囲の敵兵に目を向けながら、冷静に言葉を続ける。
すでに董卓軍は曹操たちの周囲へと迫り、逃げ道を塞ごうとしていた。
周囲から次々と敵兵が押し寄せ、曹操たちとの距離を詰めていく。
その中の一人が、曹操に向かって斬りかかった。
曹操は迫りくる敵に意識を向け、剣を構える。
振り下ろされた剣を横から受け止めると、相手の勢いを利用して剣を滑らせるように受け流した。
兵士が体勢を崩す。
その隙を逃さず、曹操は懐へ踏み込み、剣を振り抜いた。
兵士が地面へ倒れ込む。
だが、戦いは一瞬たりとも止まらない。
曹操が剣を引いた直後、右側から別の兵士が迫っていた。
「兄者!」
曹和の声が響く。
曹操が右を振り向くと、すでに兵士が目前まで迫っている。
曹和はすぐさま曹操の前に割って入り、馬を駆けさせながら剣を振るう。
迫ってきた兵士を一刀で斬り倒すと、そのまま曹操の横へ戻った。
「中心へ!」
曹和は叫びながら、曹操の横で次々と迫ってくる董卓軍の兵士を蹴散らしていく。
右から迫る敵兵の剣を受け流し、すれ違いざまに斬り伏せる。
続いて正面から突き出された槍を身を翻してかわし、そのまま敵兵の懐へ入り込んで剣を振り抜いた。
背後から迫る敵兵にも素早く反応し、振り返りざまに剣を薙ぎ払う。
曹和の周囲には次々と敵兵が倒れていく。
しかし、それでも董卓軍の勢いは衰えなかった。
その間に黒騎が曹操を守るため、その周囲を固める。
「敵を近づけるな!」
曹操軍の兵士たちは押し寄せる董卓軍を必死に食い止めていた。
兵士一人に対して複数人で対応し、確実に敵の数を減らしていく。
それでも、倒しても倒しても新たな兵士が押し寄せてくる。
戦闘が長引くにつれ、徐々に兵力の差が明らかになっていった。
曹和も休む間もなく剣を振るい続ける。
敵の攻撃を受け流し、隙を見つけては斬り伏せる。
だが、目の前の敵を倒した直後には、また別の敵兵が姿を現す。
曹操軍は少しずつ押し込まれ、次第に劣勢へと追い込まれていく。
「多すぎる……」
曹和は剣を構えたまま、周囲を見渡す。
このままでは守り切れない。
曹和の思考が切り替わる。
全軍を守ることが難しいのであれば、曹操だけでもこの包囲から逃がさなければならない。
「せめて兄者だけでも……」
小さく呟き、曹操へ視線を向ける。
しかし、その時だった。
後方から大きな怒号が響き渡った。
振り返ると、後方では董卓軍が曹操軍の退路を塞いでいる。
後軍も足止めされ、こちらへ合流することができない。
完全に分断された。
曹和は再び前方へ視線を戻す。
その時、暗闇の向こうからこちらへ向かってくる一団が見えた。
いくつもの旗が揺れている。
その一団は戦場の中を真っ直ぐにこちらへ向かっていた。
曹和は剣を構えたまま、その姿を目で追う。
次第に旗の文字が見えてくる。
その中でも、ひときわ目立つ旗があった。
そこに大きく描かれていたのは――
「呂……?」
曹和が小さく呟いた。
その瞬間、曹操軍に動揺が走った。




