確かなことは、彼が私を見ていないという現実
振られたのは、ずいぶん前だ。
告白したけれど、彼は少し困ったように眉尻を下げ、ハの字にしてから「ごめん」と優しく告げた。
告白のお断りまで優しいなんて。
そんなことを思いながら必死に涙がこぼれ落ちないように意識を霧散させていた。
あれからもう4年が過ぎ、社会人2年目に突入し、そろそろこの環境にも慣れつつあるという私に神はあざ笑うかのような偶然を叩きつけてきた。
「藤本? まさか」
たまたま、手元の書類に視線を落としていたところに声をかけられた。
聞き覚えのある声に、まさか、と思いながら顔を上げるとそこには思い描いていた通りの人がそこに立っていた。
まさか、は私のセリフではないか。
だが、少しの理性で無理矢理口角を持ち上げ、仕事の顔を作る。
落ち着け、わたし。
ここは職場で、たまたま会っただけ。
何も昔話をしにきたわけじゃない。
そう自分を落ち着かせてから「萩原くん」と彼の名を告げた。
その声音が自分でも驚く程甘さを含んでいたので隣で同じように受付嬢をしている先輩から面白そうだ、という好奇心いっぱいの視線を投げてきたのも仕方ないことだ。でも、気づかないふりをした。
この失態はいただけない。
「藤本、ここで受付してんだったな」
そう言うと萩原くんは当時と同じように優しい笑みを浮かべた。
彼は私の失態に気づいていない。いや、そもそも彼は鈍いんだ。そんな機敏に気づくはずがない。
落ち着け。
「そ、そうなの。萩原くんは?」
「ああ、そうだ。開発企画課の三神さんを呼んでもらえる? アポは取ってるんだけど、受付で呼び出してって言われてるんだ」
三神さん。
彼の仕業だろうか。
確かに、彼にはいろいろ根掘り葉掘り聞かれたような気がする。
まさかこんな形で彼の悪戯心を発揮されるとは。
ここに居ない三神さんに心中で悪態をつく。
「少々お待ちください」
震える指先にお願いだから気付かないで。
嘘、気づいて。
「開発企画課、柴です」
「受付の藤本です。お疲れ様です。三神さんにお客様です。ご案内してよろしいでしょうか」
「三神をそちらにおろします。あ、藤本さん、待って。三神と代わるわ」
「藤本さん? 三神です。萩原さん、来られたの?」
そこには少しの期待と好奇心が混じっていた。
「…三神さんですね」
恨めしく、そう一言こぼすと彼はとても気持ちのいい笑い声をあげた。
「ああ、そうだよ。もちろん俺だよ。自分がこんなにもお節介だとは驚きだ」
彼は、他人の不幸が蜜の味らしい。
「よく言います。とにかく、降りてきてください」
そう言ってから三神さんの返事を待たずに受話器を置いた。
「お待たせしました。すぐに降りて参りますので、そちらの椅子にかけてお待ちください」
「へぇ、藤本もしっかり社会人なんだな」
また、そんな優しい笑顔で。
あなたはいとも簡単に私の心臓を攫っていく。
せっかく、癒えたこの傷を、鋭利な刃物で残酷に。
「…萩原くんこそ」
絞り出したセリフは気の利いたものからはかけ離れていた。
それでも無言をつき通せるほど、私の心臓は強くなかった。
彼は、私の気のきかない返答にも愛想よく微笑んでから勧めた椅子に腰掛けた。そこで、待ってましたと言わんばかりに隣の先輩が興奮した声音を隠そうともせずに「で?! 誰なの? 元カレ?」と聞いてきた。
「単なる同級生ですよ。大学時代の」
「ふーん、振られた相手か。面白くない」
なぜわかったんだ、と思わず声に出しそうになったが、寸前のところで飲み込んだ。
「面白くないって、先輩、酷過ぎません?」
「だって、受付の姫が、誰であろうと片っ端から誘いを断ってるのに、ここへきてあの動揺っぷりでしょ? 元カレくらいの存在じゃないと割に合わないわ」
言ってる意味がさっぱり理解できない。
「あの、どういう意味ですか?」
「ああ、いいのいいの。こっちの話」
そういうとすぐに受話器を持ち上げ、どこかに内線をかけた。
「あ、お疲れ様です。受付の齋藤です。広瀬さんはお手隙でしょうか?」
また厄介な相手に!
この面白い状況をいやでも誰かに伝えたい様子の先輩が選んだ相手は、かつて秘書課にいたという厄介な方だ。
その内線を切ってやろうか、と考えているとタイミング悪く三神さんがおりてきてしまった。
「萩原さん、お待たせしてすみません」
「いえ。待ってませんよ」
隣で面白おかしく広瀬さんに内線している先輩も気になったが、萩原くんの声を聞きたくてつい、彼らをみつめていると、三神さんがふとこちらに視線を向けた。
そのときの表情がいかにも悪役顏だったので、思わず逃げ出しそうになったがその前に「藤本、お前休憩の時間じゃないのか?」と聞いてきた。
嫌な予感しか過ぎらない。
違う、と言ってしまおうとしたが、隣から「あ、そうです」と先輩が会話に割り込んでわざわざ言い切った。受話器越しに広瀬さんの笑い声が聞こえてきたので、睨みつけたが、すぐに受話器を耳に当て、シャットアウトされた。
「じゃあ、藤本。昼でも行こうぜ」
「え、どうして!」
「募る話もあるだろ? 萩原さんもいいですよね?」
「ええ、もちろんです」
この野郎!
「は、萩原くん」
己の甘ったるい声音に反吐が出る。
そんなことしても惨めになるのは分かり切っていることなのに。
だって彼は、何時でも、どんなときでと私の気持ちをあっという間に掻っ攫って、深く爪痕を残すというのに、あっさりと離れて行ってしまう。
この想いが報われることなどあるはずがないのに。
あるはずがないのよ。
だって――
「会うのは結婚式以来だもんね、藤本」
貴方はもうあの子のものなのに。
どうして、忘れさせてくれないのだろう。
どうして、貴方のその微笑みは私の心をいとも簡単に掻っ攫っていくの?
私は4年前からその場で足踏みするだけで、進めずにいた。
このだだっ広いロビーに、三神さんと齋藤先輩の小気味良い笑い声だけが響いていた。
◆ ◆ ◆
「いやー、笑った! 受付一の美人が、不毛な片想いだなんて! しかも! 相手には何年も前に振られてる上に、既婚者! ぎゃー! もう、最高に面白い! 何この王道失恋話!!!」
普段はおしとやかなキャラで仕事をしている齋藤先輩も、本日の昼間の事件が殊更お気に入りなようで、定時時刻になる今になってなお笑っていた。
「他人が失恋してるっていうのに、そこに塩塗り込みますか? 普通。三神さんもですよ」
特に用事もないくせに、ふらっと仕事を抜け出してきて、ロビーでゲラゲラと笑うこの男前をぶん殴りたい。
「いや、普通笑うだろ」
こんな状況を自ら作っておいて、なにをヌケヌケと。
「しかも、結局誘惑に負けてお昼食べにいっちゃうあたり、ダメな女ねぇ」
ほっとけ。
「別に不倫がダメってこと、ないけどさ。藤本がそこに一線引いてるところがなんだか不器用というか。いや、常識的なんだろうけどさぁ。でも、なんか、俺よりもっと不器用に恋に溺れてるやつみるとつい、ね」
この社内で1、2を争うほどの男前も驚くことに何年も不毛な恋に縋っている。その話を聞いた際、確かに私も同志のような、何か似た存在をみつけた気がしたものだ。彼も私を自分と重ねてるのだろう。それはとても理解できる。
それでも、彼のこの感想は捻くれてはいないか?
「三神さん、最低ですねー」
未だに笑いが止まらないのか、言葉の端々に息が不自然に止まりながらも、齋藤先輩が言った。
「最低って、それは酷いなぁ」
自分だって、その一線が越えられなくてもがいているくせに。
そんな一言をわざわざいうほど野暮ではない。
「でも」
齋藤先輩は、漸く呼吸が整ったらしく、ゴホン、と一つ咳を挟んでから話し始めた。
「実らないからといって、その恋の価値が無いとは思わないでほしい」
いきなり真面目なことを言い出したので、つい齋藤先輩の顔をまじまじとみつめてしまった。
「貴方達はいい女にいい男です」
真剣な顔で笑いもせず、恥ずかしがりもせず、そう言ってくれた先輩が逞しくて、優しくて、お世辞だったとしても、それがどうした!くらいには跳ね除けられるくらい、とても気持ちの良い褒め言葉だった。
示し合わせたわけではないのに、三神さんと目が合い、思わず笑ってしまった。
「ありがとう」
この言葉以外に言えることなんてなかった。
心の底からの感謝。
私たちの恋が報われることなどない。
それでも、出会わなければよかった、であったり、惹かれる心を否定しなくて良いというのは、思いの外、救われた。
「ありがとう」
例え、振り向いてくれなくても。




