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2.最初のお仕事 【終】

 おれは、井出さんの傍に立っていた。正確に言うと、おれの足元で、既にもの言わぬ屍と化した井出さんと、それを呆けた顔で見下ろしている井出さんの隣に立っている。

 井出さんに視線につられて横たわっているその顔を見ると、どこか満足げに見えるというのだから不思議だ。おれの隣にいる井出さんは、こんなにも生気のない顔をしているというのに。

「……井出さん」

「…………」

「おれのこと、覚えていますか?」

「……へ?」

 ゆっくりとした動作で振り返る井出さんは、おれを見た瞬間みるみるうちに顔色を変えていった。死んでいる、というのにこの表現は適切ではないとも思うが、表現するならまさにそんな感じだ。

「……きみは」

「信楽浩です。一応、死神をさせてもらってます」

「しに……?」

「あなたを、迎えに来ました」

 まだ信じられないように大きく目を瞠っている井出さんは、何だか魚のようで面白かった。魚のように口を何度も開閉をして、そうしてから、やっと声を絞り出す。

「そっか……」

 そこで井出さんは笑って、立ち上がった。そして、おれの頭を軽く撫でる素振りをする。おれは幽体だから実際には井出さんの撫でる手は宙を掴むことになったが、井出さんはその素振りをやめようとはしない。

「お迎え、ご苦労様だね」

「いえ。仕事ですから」

「タメ口で構わないよ。どうせ僕はもう死んでいるんだから」

「……随分と早く、自らの死を認めるんだな」

「僕自身、びっくりしちゃうぐらい冷静だよ。それに、こんな穏やかな気持ちは久しぶりだ」

 井出さんはそう言って、おれには生前見せてくれなかった、満足そうな笑顔を向けてくれた。

「僕は、一体どうなるの?」

 井出さんの声が、穏やかにおれの耳を打つ。

「このまま本格的な迎えが来るまで待つ。その後はよく知らない」

「そっか」

 いとも簡単に、井出さんは納得してしまった。この人は自分の行く末などが気にならないのだろうか。

「これ以上は聞かないのか?」

「分かるのかい?」

「いや」

「それなら、愚問だろう?」

 井出さんは、救急車に運ばれていく自身の身体を見送りながら、笑った。

「いいんだ。もう先のことを不安に思うのは、やめた」

「井出さん?」

「もう僕は、進めないんだから。後は元来た道を眺めることにする」

「……引き返さないのか?」

「だって……」

 井出さんは歩く素振りを見せて、実は全く一歩も進んでいないことを、おれに証明してくれた。井出さんがどれだけ足を動かしても、距離的にはまったく進んでいないことが分かる。

「動けないんだから」

「……おれは動けた」

「多分、だけど、僕は、もう歩くことを諦めたからだと思うんだ」

 そう言った井出さんは、恥ずかしそうに首をすくめた。

「もう、僕は歩き疲れちゃったんだよ」

「運動不足か」

「そうだね」

 おれの言葉に、井出さんは悔しがったり、悲しんだりもせずに明るく笑う。どうしてこの人は、生前こんな明るい笑顔を出さなかったのだろう。そうは言っても、おれが知っている井出さんは、数時間だけの井出さんだったから、もしかするとその学生時代、とやらには笑っていた時期があったのかもしれない。

 考えても意味がないから、ここまでにしておこう。後は上からの迎えを待つばかりだ。そう考えた矢先に、井出さんが小さく声を洩らした。本当に思いがけないことが起こると、人って変な声が出るようだ。

「ぅお?」

「……どうしたんだ、井出さん?」

「……あいつだ」

「え」

 井出さんの視線の先を見ると、中年男性が後ろに流した髪を乱しながら、たった今着いたばかりだと言わんばかりの形相でそこにいた。一見すると、無愛想でツンとした雰囲気の男性だが、今はそんな雰囲気は微塵も感じさせない表情で、ここにいる井出さんをじっと見つめている。

 男の背後では、野次馬たちと警察が何かを怒鳴りあっていて、多少の小さな声では絶対に聞こえないだろうその中で、はっきりと男の小さな声だけが聞こえた。

「……井出なのか?」

 どういうことか、この男は井出さんの姿が見えているようだ。しかし、姿は見えるものの、井出さんの声は聞こえないらしい。井出さんは何度も弾かれたような表情で男に話しかけているが、男は一切答えずに、お互いが擦れ違った会話をしていた。

「久しぶりだなぁ!!」

「井出……お前……」

「お前、すっごく偉くなったよな。……やっぱ凄いよ、お前」

「井出、これはどういうことだ。……何で、そっちにいるんだよ」

「お前の昔からの夢、おふくろさんの病気の特効薬は見つかったか?」

「なぁ、おい……何で……死んじまってんだよ……っ!!」

 埒が明かない。井出さんもそう思ったのか、途端に暗い表情をする。そうしておれの方に向き直ると、一つの提案を申し出てきた。

「……なぁ、会話、出来ないか?」

「…………」

「どうしても、最期に話したいことがあるんだ。後はどうなってもいいから」

「……」

「頼む!!」

 井出さんが、頭を下げた。この一週間、井出さんの動きを見ていたから井出さんの思いは分かっているつもりだ。なんとかしてやりたいという思いも少しはある。しかし、その思いを叶えるために、おれにも負担はあった。それは。

「……おれの身体を貸す。それで話は出来るはずだ」

 勢いよく井出さんが顔を上げる。身体を貸すということは、おれの仕事用の身体を、井出さんに憑依させる、ということだ。まだ仕事用の身体が片付けられるまでの時間は残っているだろう。それを使えば、きっと井出さんは生身の身体で、生者と対等でいられる筈だ。

 その一方で、おれの身体には憑依される負担がかかり、おれ自身にどう影響が及ぼされるかは分からない。それがリスクだ。それでも、短時間であるのならば多少のことは耐えよう。

「い、いいのか?」

「おれが少しの間この男に説明する。終わったら合図を送るから、おれに近付いてくれ」

「……分かった」

 おれの予想が外れていなければ、おれに近付いた井出さんは、おれに引き寄せられておれの中に入ることが出来るはずだ。おれが生身の身体から抜け出そうとした途端に、凄まじい力でこの体に引きとめられていたことを思い出す。だから、その逆のこの生身に入ろうとすれば、引き寄せられる力も強いものだろう。それでも無理だったなら、諦めてもらうしかない。今はその可能性に賭けよう。

「じゃあ、行くぞ」

 おれは目を瞑って、出たときとは反対に体におれが入るイメージを膨らませ、目を開けた。何度か瞬きをすると、井出さんがいなくなって、代わりに宙に浮いている男が目に入ってくる。

 男は短く息を呑んで、おれを凝視していた。なるほど、たしかにこの男の若いころとおれは、顔立ちは似ているのかもしれない。

 おれは久しぶりの新鮮な空気を吸って、男を見据えた。

「おい。一度しか言わないからよく聞け」

「お前は……?」

「これから井出さんがこの身体に入る。井出さんの最期の言葉を、聞いて欲しい」

「井出が……。やっぱりそこにいるのは井出なのか!?」

 戸惑う男を余所に、おれは井出さんのいた方に目を遣り、小さく頷く。その途端に、何かが頭の頂から入ってくるのを感じた。

「……っ!?」

 手先や爪先まで痺れたような感覚に陥り、おれの意識は一気に遠ざかっていく。そうして、ちょうどテレビを見ているかのような感覚になった。


「……やぁ」


 おれじゃない声が、おれの中から聞こえる。これは、紛れもなく井出さんの声だ。どうやら、これで憑依は出来たらしい。頭が鈍い痛みに襲われるが、ここが正念場だ。

「井出、なのか」

「会えて嬉しいよ。お前は凄いもんな」

「お前……何で死んでんだよ。意味分かんねーんだけど」

「猫助けたらさ、この様だ。笑っちゃうよな」

「笑えねーよ、ばか!!」

 諦めたように笑う声を拒絶するかのように、目の前の男から罵声が飛んでくる。井出さんは、その反応でも笑ってしまっていた。

「僕の人生はさ、お前と違ってしょうもないもんだったんだよ」

「井出……?」

「お前はそのまま大学に残って出世街道まっしぐら。僕は普通のしがないサラリーマンだ」

「……」

「僕、本当はお前のことが羨ましかったし、悔しかったんだ。僕も、その隣に立ちたかったんだよ」

「……来ればよかっただろうが」

「僕の頭じゃ、無理だ。何度もそこに行こうとしたんだけど、お前はどんどん霞んで見えなくなって、結局は諦めたよ」

「なんで」

「僕とお前は違うんだ。お前みたいに強くもないし、出来も良くない。最初からお前と並ぶのなんて無理なことだったんだ。だけどな」

「……なんだよ」

 井出さんは言葉を区切ると、肩の荷が下りたように安堵した表情を浮かべて、男に微笑む。



「お前のお蔭で、僕は楽しい記憶が出来た。それは間違いなく僕の一生の宝物だ」



 その言葉を聞いた男が、一瞬だけ息を呑むのが見える。そして、泣きそうな顔になった。井出さんは、男を泣かせたくはなかったのだろうな。その証拠に、おれの顔が眉根が下がったのが分かる。



「ありがとな、進藤」




 井出さんはそう言うと、満足げな笑みを浮かべたような気がした。あくまでおれの身体だからその表情こそは見えないが、進藤の泣き崩れた姿ははっきりと見える。



「僕はやっとお前の名前を思い出せた。最期に来てくれて、ありがとな」




 すると進藤が、震える声を絞り出した。




「俺の方こそ、お前が羨ましかったんだよ、井出」




 今度は、井出さんが目を大きく見開いた。おれの視界が滲んで潤む。




「お前は誰とでも仲良く話せて、俺よりも仲間がいて、誰よりも優しかった」

「進藤……?」

「猫を助けたのだって、優しいお前だからだろ、このばか」

「……ばかってひどい言われようだな。それに優しくもないよ。お前の名前を忘れていたんだ」

「それは許せねぇ。けど、お前の忘れっぽさは昔からだろうが」

「そうだったな」

「それがお前なんだから、お前らしくていいさ」

「……ありがとう」

「いつでも俺は待ってる。早くこっちに来てくれよ、井出」

「……あぁ」

「お前だけが、俺の親友なんだ。また名前忘れんじゃねぇぞ、この野郎」

「あぁ……!」




 井出さんと進藤は、お互いに泣き笑いで、それはもう下手くそに笑った。




「また後で会おうな」

「分かったよ。また後で」










 気が付くと、おれは地面から少し離れたところに立っていた。下を見ると、先ほどまで使っていたおれの身体は、真っ黒な影の中に引きずり込まれていっているところだった。制限時間まであまり時間がなかったのだろう。危ないところだった。

 隣を見ると、もう泣けない体で立っている井出さんと、見知らぬ影がその横に控えていた。とうとう別れる時が来たようだ。


「じゃあね、浩君」

「……また今度、井出さん」


 おれがそう言うと、井出さんはおれが見慣れた困った笑顔ではなく、満面の笑みで影と一緒に消えてしまった。井出さんが消えた瞬間に、おれの足元に咲いているたんぽぽの綿毛が飛ぶ。

 そして、おれの身体に憑依した井出さんの足跡が河原の地面にくっきりと残っているのが見えて、おれは目を瞑った。








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