第5章:凍てつく原盤 第38話:断罪と解放
跳躍の瞬間、サクの視界から「温度」と「音」が完全に失われた。
視界を埋め尽くすのは、宙に漂う巨大な真珠色と蒼黒の原盤。その中央で青い結晶となって佇むイサナの影が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から零れ落ちた涙の一滴が、空間そのものを凍てつかせる波動となって波紋を描く。
『……拒んで……そして消えなさい……。すべての痛みを止めるために……』
原盤の表面から放たれたのは、幾重もの氷の刃と、肉体そのものを純白の結晶へと変える絶望の極光だった。
「……拒むもんかッ!!」
サクの咆哮が、無音の空間を裂いて轟いた。
右腕の変貌は極限に達していた。手甲から伸びる真珠と鈍銀の結晶刃が狂おしく明滅し、サク自身の血肉を喰らいながら暴力的になだれ込むエネルギーを「刃」の形に繋ぎ止めている。激痛の向こう側、胸の深部で燃えるのは――カヤを奪われた夜の慟哭でも、怪物へと落ちていく恐怖でもない。
背後で血を吐きながら大剣を支えるサムの叫び。
短剣を振りかざし、氷の直撃をその身で受けるアキとマキの荒い息遣い。
視力を焼き切られそうになりながらも矢を放ち続けるツカの鋭い眼光。
仲間たちが繋ぎ止めてくれた「人間」としての灯火が、サクの右拳の中で絶対的な熱量へと変換された。
「お前の哀しみも……僕たちの傷も……全部抱えて、僕たちは未来へ進むんだッ!!」
極光の渦を力任せに突き破り、サクは原盤の中央――イサナの結晶体へと右腕の結晶刃を深々と突き立てた!
ドズゥゥゥゥゥンッ……!!
空間が激震した。
刃が到達した瞬間、サクの右腕から溢れ出したのは、冷たい拒絶の光ではない。仲間たちの温もりが宿った、熾烈で鮮烈な「生への情念」――真珠色と漆黒の不協和音だった。
原盤に刻まれていた200年分の絶望と、凍てついた無数の記憶の糸が、サクの解き放った不協和音と真っ向から衝突し、内部から狂い跳ねる。
「あ……あぁぁぁぁぁぁっ……!?」
イサナの結晶の口から、悲鳴とも安堵の吐息ともつかぬ声が漏れた。
結晶の表面にクモの巣状の大きな亀裂が走り、そこから溢れ出したのは、眩いばかりの純白の光――200年もの間閉じ込められていたイサナの無垢な魂の温もりだった。
『……ありがとう……歌い手たちよ……』
透き通る声が脳裏に溶けていく。
直後、巨大な原盤全体が、音を立てて爆砕した。
ガガガガァァァンッ!!
爆散した原盤から放たれたのは、破壊の衝撃波ではなかった。空洞全体を包み込むような、温かな光の降雪。氷漬けになっていた無数の記憶の影たちが、光の粒子となって解け去り、天へと昇っていく。
「サクッ!!」
原盤の崩壊と同時に、サクの身体が宙から力なく落ちていく。
サムが飛び込み、崩れ落ちる雪の上に滑り込みながらサクの身体を抱き止めた。
「……ハァ……っ、ハァ……っ……」
サクはサムの腕の中で、激しく肩を上下させていた。
ゆっくりと右腕を見つめる。
手甲を覆っていた真珠色の鱗と鈍銀の結晶は、原盤の砕波と同調するように光を失い、ボロボロと剥がれ落ちていた。侵食が完全に消え去ったわけではない。皮膚の裏側には、消えぬ傷痕として薄い真珠色の紋様が残されていた。
だが、あの脳を苛んでいた「渇き」も、全身を冷やす「死の麻痺」も、綺麗に引き潰されていた。
真珠色に澱んでいた右目も、ゆっくりと本来の漆黒の輝きを取り戻していく。
「終わったんだな……本当に」
ツカが弓を降ろし、ぽつりと呟いた。
アキとマキも倒れ込むようにしてサクの左右に膝をつき、安堵の笑みを浮かべている。
神殿の天井が大きく割れ、極北の冷たい、だがどこか優しい陽の光が五人の上に降り注いだ。
『レコード』世界を歪め続けていた不協和音の原盤は、ここに完全に消滅した。
カヤは戻らない。失われた街や日常も、すぐには戻らないだろう。
それでも。
サクは血濡れた左手でサムの手を強く握り返し、仲間たちとともに静かに立ち上がった。
背負った傷を刻んだまま、少年たちは朝日が照らし出す新しい世界へ向かって、一歩を踏み出した。




