第1章:少年の季節 第1話:ふもとの朝と、ぬくもりの痕
かつて、この世界にどんな者たちが生きていたのかを、覚えている者は誰もいない。
深い山々のふもと、草の匂いと川のせせらぎに包まれた小さな村で、人々は静かに暮らしていた。
土を捏ねて美しく焼きあげた器を使い、山の木の実や海の塩を分け合い、夜になれば焚き火を囲んで歌を歌い、互いのぬくもりを抱きしめて眠る。
過酷な自然のなかで命を繋ぎ、誰かを想い、愛おしむ——ただそれだけの、ありふれた、けれど何よりも美しい営み。
人々は自らを「ニンゲン」と呼んだ。
擦りむけば痛み、傷からはぬくもりのある血が滲み、やがて優しく塞がっていく。彼らは自分たちがこの世界のありとあらゆる生命と同じように、大地から生まれ、大地へと還っていく存在だと信じて疑わなかった。
山頂に佇む神殿からは、今日も一日の終わりを告げる澄んだ鐘の音が響き渡る。
これは、その美しい村で身を寄せ合って生きていた、五人の若者たちの物語。
彼らが愛した風の匂いと、紡がれた声と、二度と戻らない少年の季節の記録。
夜の冷気が残る山裾に、澄んだ鐘の音がひとつ、遠く響いて消えた。
東の空がゆっくりと薄桃色に染まり、朝靄のかかる川面を柔らかく照らし出していく。
「おーい、サク! 起きろって! 今日も日暮れまでに藁を運ばねえと、お袋にまたドツかれるぞ!」
茅葺きの小さな家の外から、ガサツで大きな声が響いた。
扉の隙間から顔を出したのは、大きな木組みの背負子を担いだサムだった。がっしりとした体躯に日焼けした肌、鋭い目つきはいかにも村の悪ガキの首領といった風情だが、その表情にはどこか不器用な優しさが滲み出ている。
「……うるさいよ、サム。鐘が鳴ってからまだ半刻も経ってないじゃないか」
藁床から体を起こしたのは、サクだった。
細身で背が低く、どこか儚げな印象を与える少年だ。サクは小さく欠伸をしながら、使い込まれた麻の服に袖を通す。生まれつき体が強くないサクにとって、この朝の冷気は少しだけ肌に刺さる。
「文句言うなよ。アキのやつはもう川下で仕掛け網の点検をしてるし、マキだって外の畑で朝露を集めてるんだからな」
「ツカは?」
「あいつなら、また長老の家の裏で干し肉を盗み食いしようとして見つかって、追い回されてたよ」
サムが呆れたように笑う。サクも思わず吹き出してしまった。いつもの、なんてことのない朝の始まりだった。
家を出ると、村はすでにかすかな活気に包まれていた。
土器を焼く煙が遠くで一筋の煙突のように立ち上り、木の実を石で磨り潰すカツン、カツンという心地よい音が村のあちこちから聞こえてくる。川沿いには、漆を塗った美しい器に清水を汲む女たちの姿があった。
「おはよう、サク。今日も体の調子はいいかい?」
声をかけてきたのは、隣の家に住むカヤだった。
サクたちと同い年の十五歳。手先が器用で、野に咲く花を編んだ髪飾りをつけた、柔らかな笑顔の少女だ。
「うん、大丈夫だよカヤ。今日は山の木の実を拾いに行くんだ」
「気をつけてね。山の奥はまだ冷えるから」
カヤはそう言って、抱えていた籠から小さく熟した赤い果実をふたつ、サクの手に握らせてくれた。ほんのりと甘い匂いが鼻をくすぐる。サクの胸の奥が、小さくキュッとしめつけられるような感覚を覚えた。
「おいサク、顔が赤いぞ。さてはカヤに色目使われたな?」
「ち、ちがうよ! サム、変なこと言うなよ!」
冷やかしてくるサムを小突きながら、ふたりは村の広場へと向かった。
広場にはすでにアキ、マキ、そして呼吸を乱したツカが集まっていた。
「間一髪だったぜ……長老のばあさん、足腰弱いくせに棒切れ振るう時だけなんであんな速いんだよ」
ツカが肩で息をしながら文句を言う。典型的な一匹狼気質でお調子者のツカだが、どれだけ怒られてもへこたれない頑丈さが売りだった。
「当たり前だ、ツカ。あの干し肉は明日の『灯火の祭り』で神殿に捧げるものなんだからね。自業自得だよ」
整った顔立ちにどこか知性的な冷たさを漂わせたアキが、淡々と手元の仕掛け網を修繕しながら言う。アキは村の誰よりも道具の仕組みに詳しく、長老たちからも一目置かれている万能な男だった。
「まあまあ、盗み食いに失敗したツカの顔を見てみなよ。まるで鼻を折られた小豚みたいで可愛いじゃないか」
少し離れた木陰でクスリと笑ったのは、マキだった。
数年前に遠くの村から流れてきた外部の人間だが、今では完全にこの5人組に溶け込んでいる。理知的で物おじせず、どこか毒のある喋り方をするが、根は誰よりも優しい。
「なんだとマキ! お前、あとで絶対川に叩き落としてやるからな!」
「はいはい、できるものならね」
いつもの軽口の叩き合い。
5人は道具を担ぎ、山裾の作業場へと歩き出した。
青々とした草の匂い、ぬかるんだ土の手触り、木々の間から差し込む黄金色の木漏れ日。
このふもとの村で暮らすニンゲンたちは、山の恵みをいただき、海から塩を運び、土を捏ねて器を作り、歌を歌い、誰かを愛しながら生きていた。過酷な自然の中でも、そこには間違いなく美しく、温かい営みがあった。
「あたたたた……!」
藁を運ぶ途中、サクが足元の濡れた岩に滑り、派手に転んだ。
「サク! 大丈夫か!?」
サムが飛んでくる。サクが膝を押さえると、すり傷からじんわりと血が滲み出ていた。
「いてて……ちょっと擦りむいただけだよ」
「見せてみろ。まったく、おっちょこちょいだなぁ」
サムは道端の薬草をおもむろに口に含み
咀嚼したものをサクの傷口に塗り込んだ。
「ちょっとやめって、痛ーーー!」
サクはサムを払いのけ、肩にかけていた手拭いで傷口を覆った。
「可愛いなぁサクは...!」
サムは豪快に笑い、サクの背中をポンと叩いた。
サクはその温かい手と、自分の膝に残るかすかな温もりに胸を撫で下ろす。
頭上からは、変わらぬ澄んだ朝の鐘が、静かに村中に響き渡っていた。




