秒針は巻き戻らない
世の中は、どこまでも不公平だ。
2026年、4月。東京の桜はとっくに散り、優しく暖かい春の風が街を吹き抜けていた。
とても気持ちの良い春の日だ。
世間は新しい出会いや、新しい生活の始まりとやらに浮き足立っている。スーツを着慣れない新入社員たちが、希望に満ちた目を輝かせながら品川駅のガード下を歩く姿を、相馬篤史はひどく冷めた、澱んだ目で見つめていた。
相馬篤史、43歳。独身。
中堅の専門商社に勤めて20年になるが、未だに役職なしの平社員。いわゆる「就職氷河期世代」の末尾に引っかかった、うだつの上がらない男だ。
(もう少し、ほんのもう少しだけ生まれるのが遅かったら、俺の人生は違っていたはずなんだ)
満員電車の窓ガラスに映る、ひどく疲弊し、実年齢より老けて見える自分の顔を見つめながら、相馬は心の中でいつもの「たられば」を繰り返す。
たった2、3年生まれるタイミングが違うだけで、売り手市場となり、大卒の就職率98%となり、就職先も、生涯年収も、人生の充実度も何もかもが天と地ほどに変わってしまう。なんて不公平な世の中だ。なぜ俺がこんな惨めな思いをしなければならないのか。
今日も今日とて、会社では惨めな思いの連続だった。
「相馬さん、これ、先週頼んでおいたデータと違うんですけど。やり直してもらえます?」
そう冷ややかに言い放ったのは、30代前半の若さで課長に昇進した年下の上司だ。かつて自分が仕事を押し付けていた後輩たちが、今では自分を追い抜き、上から目線で指示を出してくる。その度に胸の奥がドロドロとした嫉妬と屈辱で煮えくり返るが、相馬にできるのは黙って力なく頭を下げることだけだった。
「なんだよ。どいつもこいつも調子に乗りやがって……こっちは通勤で疲れているんだ。少しぐらい休ませろよ。」
相馬は指摘された部分を適当に修正し、定時間際に提出しそそくさと帰宅した。
夜8時。すっかり冷え切った1Kの賃貸ボロアパートに帰り着いた相馬は、ネクタイを乱暴に引きちぎり、床に投げ捨てた。
20年以上住み続けているこの部屋は、壁が薄く、隣の部屋のテレビの音がかすかに漏れ聞こえてくる。あるのは学生時代から使っている天板のはげかけたローテーブルと、古びた家具、そして万年床のベッドだけだ。
夕食は、帰り道のスーパーで買った半額シールの貼られた弁当。電子レンジで温めると、安っぽいプラスチックと揚げ物の油の匂いが狭い部屋に充満する。
テレビをつければ、同世代のタレントが気の合う仲間と仲睦まじく旅をする番組が流れていた。見るに耐えず、相馬はリモコンを操作して画面を消した。静まり返った部屋に、自分が弁当の白米をそしゃくする音だけが不気味に響く。
(どうなってるんだよ、俺の人生。どこで間違えたんだろうな……)
虚しさを紛らわせるように、相馬はベッドに寝転び、スマートフォンの画面をスクロールした。
液晶画面の右半分には、いつだったか駅の階段で落とした時に入った、蜘蛛の巣のようなひび割れが走っている。親指の腹でそのざらついた感触を確かめながら、SNSのタイムラインを眺める。それが毎晩の、彼の唯一のルーティンだった。
画面の向こうは、眩いほどの「幸せ」で溢れかえっていた。
『息子が第一志望の高校に入学しました!桜の下でパチリ。今日から新しい生活が始まります!』
『ついに念願のマイホームを購入!これから35年ローンが大変だけど、パパ頑張る(笑)』
『新車が欲しいけど、予算オーバーで妻に怒られた〜。でも買い替えたいな!説得してみるか』
自虐的なニュアンスを交えつつも、隠しきれない幸福感と充実感がスマホの画面から滲み出ている。
そのどれ一つとして、今の相馬には該当しない。
車もない、マイホームもない、共に愚痴を言い合える妻も、成長を喜べる子供もいない。あるのは、割れた画面のスマホと、孤独だけ。
「なんだよこれ……。どいつもこいつも、自慢ばっかりしやがって」
相馬は吐き捨てるように呟き、スマホをベッドの脇に放り出した。
「なんだよ!俺の人生はずれだよ。人生ガチャ、大ハズレだよ!」
天井に向かって吐き捨てた言葉は、薄い壁の向こうに吸い込まれ、消えていく。
自分が20代の頃に思い描いていた「40代の現実」とは、あまりにも、あまりにもほど遠かった。
40歳を過ぎたら、誰もが当たり前のように一家団欒を迎え、夕食は家族と共に笑いながら食卓を囲み、会社では課長や部長に出世しているものだと思っていた。居酒屋で同僚と「いやあ、子供の受験料が高くてさ」「マイホームのローンがキツくて」なんて、贅沢な愚痴をこぼし合っているはずだった。
現実は、有名チェーン店の牛丼か、スーパーの弁当。コンビニ弁当は高くて買えない。
若い頃は、自分はもっと要領よく、器用に生きていける人間だと思い込んでいた。
特に大学時代。18歳で東京に出てきてからは、サークル活動やバイトの仲間たちと、その場限りの合コンや飲み会に明け暮れていた。「毎日が楽しければそれでいい」「真面目にやるなんてダサい」、本気でそう思っていた。
テストの点数が悪くても、バイトでミスをしても、バツの悪いことや面倒なことからは、いつも適当な嘘と言い訳をつけて逃げてきた。その場さえしのげれば、未来の自分がなんとかしてくれると信じて疑わなかった。
だが、そのツケは、20年の歳月を経て、強烈な孤独感と容赦ない現実となって、今の彼の背中に跳ね返ってきている。
過去の軽薄で、怠惰だった自分をどれだけ呪っても、時計の針は1秒たりとも戻らない。
相馬は起き上がり、壁のスイッチを押して部屋の電気を消した。
一瞬で、狭い1Kの空間が深い暗闇と無音の世界に包まれる。
胸の奥にヘドロのように溜まった澱みを、すべて吐き出すように、彼は深く、長くため息をついた。
もう、何に対しても抗う気力は残っていなかった。諦めに近い冷え切った感情のまま、そっと目を閉じる。
また、明日も、あの憂鬱で、惨めな1日が始まる。
その翌日、品川のガード下で、自分の人生を根底からひっくり返す「あの男」と再会することになるとは、この時の相馬はまだ、知る由もなかった。




