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1 すべてを失った日

「できたっ……!」


 窓から差し込む朝日の中、ミュゼは手元のガラス瓶を掲げた。

 光を浴びて薄紅色の液体がゆらめく。

 瓶の中の小さな楽園。種々の花が咲き乱れる天の花園のような香り。

 ミュゼが数か月かけて作り上げた香水が、そこにあった。


(私の持てる力をすべて注いだ最高傑作。きっとこれで宮廷調香師に近づけるはず……!)


 そんな予感を覚えながら、ミュゼは大きく伸びをする。

 ずっと机にかじりついていたせいで体がガタガタだ。


「とりあえず睡眠……いや、ぐちゃぐちゃの机を片付けなきゃ」


 取り寄せていた香水の材料も届いている。

 早く適切な保管をしなければ、品質が落ちてしまうのだ。

 ミュゼは重い体を引きずりながら、届いたばかりの包みを開いた。

 新聞紙にくるまれていたハーブの香りが広がり、思わず頬を緩ませる。


「えっと、この種類は地下で保存を……ん?」


 ハーブに手を伸ばした途端、新聞に羅列された文字が目に入り、ミュゼはぱちぱちと瞬きをした。


 ――『若き天才調香師マルセル・クレルブラン氏、結婚間近か』


 そこに記されていたのは、ミュゼの婚約者の名前だった。


(マルセル……宮廷調香師になるまで婚約のことは明かさないって言ってたのに。何かあったのかしら)


 内容が気にかかり、ミュゼはハーブをよけて記事の内容に目を走らせる。

 その数秒後、ミュゼの口から出たのは驚きと困惑に満ちた声だった。


「…………は?」


 記事の内容は、マルセルが婚約者とデート中に新聞記者と遭遇し、宮廷調香師になれた暁には婚約者と結婚すると決意を語ったというものだった。

 ただし、婚約者として名が挙がっていたのはミュゼではなく別の令嬢だったのだが。



 ◇◇◇



 ミュゼ・オレオールは片田舎の小さな子爵家の次女として生まれた。

 貴族の端くれといっても礼儀作法は緩かったので、ミュゼは幼いころから森や草原を駆けまわって育ったものだ。

 あるきっかけで調香師を志し、場違いにも王都の貴族学園へと入学したミュゼは、そこでとある青年に出会った。


 ――「君も調香師を志望しているのかい? 僕もそうなんだ」


 そう声をかけてきた青年――マルセルは、ミュゼでも名を知っているほど高名な調香師の孫だった。

 マルセルはミュゼの知らないことをたくさん知っていた。

 そして話すうちに、同じ夢を抱いていることがわかったのだ。


 ――「君も宮廷調香師を目指しているのか!」


 宮廷調香師とは、この国でたった四人の精鋭調香師にしか与えられない役職だ。

 王族を含む宮廷での調香を担っており、調香師としては最高の地位ともいえる。

 ミュゼもマルセルも、その場所を目指していた。

 同志でありライバルでもある二人は、とりあえず今は調香師として腕を磨く時だと意見が一致し、共に研究をするようになった。

 その中で、ミュゼは調香師として大きく腕を伸ばすことができた。

 学園を卒業し、これからはライバルとして別々の道を歩もうとするさなか、マルセルはミュゼを引き留め告げたのだ。


 ――「僕と結婚して、二人で宮廷調香師を目指さないか?」


 その提案に、ミュゼは揺れた。

 学園で学ぶ中、ミュゼは痛いほど思い知った。


 ……貴族社会の中で調香師としてやっていくには、人脈が何よりも重要だと。


 ミュゼは片田舎の小貴族であり、大貴族との人脈などないに等しい。

 どれだけ高品質な香水を作ったって、売り込みができなければ誰も使ってなどくれないのだ。

 その点、マルセルは伯爵家の嫡男であり、社交界にも精通しているようだった。

 彼の提案をのめば、確実に宮廷調香師への道が開ける。

 彼の提案を断れば、王都で調香師としてやっていけるかどうかもわからない。

 ……迷った末に、ミュゼは彼の提案を受け入れた。

 彼に対して恋愛感情はない。二人の間に恋人らしいやりとりがあったわけでもない。

 あくまで合理的に考え「結婚」という形で手を組む――その時は、それが正しい選択だと思ったのだ。

 マルセルは祖父から受け継いだ工房を所有しており、ミュゼは卒業後そこで働くこととなった。


 ――「最短で宮廷調香師を目指そう。休んでいる暇はない」


 マルセルにそう言われ、ミュゼは日がな一日調香に励んだ。

 数年間、ほとんど工房から出ることもなかった。

 ミュゼが調香を担当し、マルセルは売り込みや人脈作りに勤しんでいるようだった。

 努力の甲斐あってか、現在二人の工房――「アトリエ・クレルブラン」は王都でも屈指の人気香水店に数えられている。

 そして来年、現在の首席宮廷調香師が引退するのに伴い、新たな宮廷調香師を選ぶコンテストが開かれることになった。

 まさかこんなにも早く、チャンスがやって来るとは思わなかった。

 もちろんこの機会を逃すつもりはない。

 より一層気合を入れて、ミュゼは日々調香に励んでいたのだが――。



「これはどういうことかしら」


 工房へ戻ってきたマルセルに、ミュゼは例の新聞記事を突きつける。


「見間違いじゃなければ、私と婚約しているあなたがどこぞのご令嬢と結婚間近のようだけど」

「これは……どういうことだ? 聞いてくれミュゼ、何かの間違いだよ」


 マルセルはまるで「その話は初めて聞いた」とでも言うように目を見開き、弁解を始めた。

 あくまで「自分は何も知らない」ということで押し通すつもりのようだ。


「そう、あなたは何も知らないというのね」

「もちろんだ、ミュゼ。僕の婚約者は君だろう。僕が君を裏切るはずがないじゃないか」

「なら、新聞社とお相手の実家に問い合わせをしても問題ないわね」

「あぁ、僕が問い合わせて――」

「いいえ、私が直接聞くわ」


 いつになく強気にそう言うと、マルセルの表情が変わった。

「厄介なことをするな」とでもいように。

 その顔を見て、ミュゼは悟った。

 ……やはり、自分はこの男に騙されていたのだと。

 新聞記事を見てからマルセルが帰ってくるまで、ミュゼはこの件について様々なパターンを考えていた。

 一番最悪なのがミュゼはずっとマルセルに騙されており、記事に書かれている令嬢こそが本当の婚約者だというパターンだ。


(どうやら、その通りだったようね)


 思えばおかしなことばかりだった。

 伯爵家の嫡男と婚約したというのに、彼の家族と一度も会ったことがない。

 卒業してからはずっと工房に閉じ込められ、ほとんど外に出ることはなかった。

 ……今思えばミュゼを外の情報から遮断し、「本当の婚約者は別にいる」ということを隠すためだったのだろう。


「元々、私と結婚するつもりなんてなかったということね」


 そう口にすると、マルセルは笑った。

 こちらを嘲笑するような、ひどく意地の悪い笑みだった。


「当たり前だろう。僕は伯爵家の跡取りであり、有名調香師の孫なんだ。無名貴族の君とは生まれた時から立場が違うんだよ。君だって僕とつり合いが取れないことにはうすうす気づいていたはずだ」

「えぇ、最初からそう思ってはいたわ。でも……結婚を申し出たのはあなたの方からだった」

「妻としては使えないが、君は僕の手足として働かせるにはちょうどいい人間だったからな。まさか、ここまで隠し通せるとは思ってなかったよ。君は相当な馬鹿だ」

「……どうして、こんなことをしたの」

「どうして? 考えればすぐにわかるだろう。宮廷調香師になるためだ」


 マルセルはうっそりとした笑みを浮かべ、自分に酔ったように話し続ける。


「君が来る日も来る日も研究を続けてくれたおかげで、『アトリエ・クレルブラン』は王都でも随一の勢いある香水ブランドにのし上がった。今の僕は誰もに天才調香師と言われ、次の宮廷調香師の座は間違いないところまで来たんだ。だから……」


 まっすぐにミュゼを見つめたまま、マルセルは罪状を言い渡す判事のように告げた。


「君はもう必要ないんだよ、ミュゼ」


 彼は懐から小袋を取り出すと、ミュゼの足元へ投げつけた。


「手切れ金だ。どこへでも行くといい」


 ミュゼは昏い目で足元の小袋を眺めた。

 あまりに色々なことが一気に起こったからか、感情がついていかない。

 とにかく、マルセルはミュゼを追い出したいということだけはわかった。


「……結婚詐欺は立派な罪よ」

「それを証明できれば、な。ド田舎の小貴族の娘が名門伯爵家の天才調香師と婚約していたなんて騒いでも、誰も信じやしない。せいぜい君が騒乱罪で牢獄に放り込まれて終わりだろう」


 ミュゼは唇を噛んで黙り込んだ。

 ……残念なことに、ミュゼがマルセルと婚約していたという証拠は何もない。

 口約束だけでここまで来てしまったミュゼの落ち度に他ならなかった。


「ほら、さっさと出ていけ。変な女が侵入してきたと治安隊を呼ぶぞ」

「……せめて私が今まで調合した香水のレシピを返して」


 これまでの実績を失くしたくないとの思いでそう口にしたが、マルセルは途端に怒りの表情を見せた。


「あれは『アトリエ・クレルブラン』のものだ! 模倣なんてしてみろ。評判を落とすのは君の方だぞ」


 それは、今までのミュゼの努力を無に帰す言葉だった。

 ……何も残らなかった。

 ここ数年頑張って作成した香水のレシピも、『アトリエ・クレルブラン』の調香師としての実績も、すべてマルセルに奪われてしまった。

 ……彼を信じた、ミュゼのミスだ。


「っ……!」


 ミュゼは後ろを振り返りもせず工房を飛び出した。

『アトリエ・クレルブラン』は都の大通りに位置する香水工房だ。

 一歩扉を出れば多くの人や馬車が行き交い、賑やかな人の営みを肌で感じることができる。

 ずっと工房に引きこもっていたミュゼにとっては情報の洪水のようだった。

 まるで地上に出たばかりのモグラのように、目が眩んでふらふらしてしまう。

 婚約破棄(ですらない何か)に遭い、居場所を追い出されてしまった。

 この先調香師としてやっていくのは、どうすればいいのだろうか。

 とりあえずは――。


「腹ごしらえしよ……」


 こんな状況でも、空腹だけは感じるものらしい。

 ミュゼは懐に入っているわずかばかりの小銭を握り締め、ふらふらとおいしそうな匂いのする屋台へと吸い寄せられていった。

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