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微睡の太刀と甘い毒

「狂信は、静寂の中でこそ深く、鋭く研ぎ澄まされる。」

九条組という巨大な闇の機構において、柏染李という女は「絶対」を象徴する存在です。

その足元に跪く宮間瑛斗にとって、彼女の言葉は法であり、彼女の刃は福音。

死の予感が漂う48階の私室で繰り広げられるのは、単なる処罰ではなく、主従という名の「純粋な侵食」でした。

しかし、その完成された密室の静寂を、一振りの日本刀を担いだ男が無遠慮に踏みにじります。

張り詰めた糸が切れる瞬間の戦慄と、日常を強引に引き戻す不敵な笑い。

三人の歪な関係性が交錯する、ある月夜の断片をお届けします。

九条組本部、48階。

そこは地上から最も遠く、下界の喧騒が届かぬ代わりに、濃密な死の予感だけがよどのように溜まる場所だ。

柏染李かしわ せんりの私室は、主人の性質を写し取ったかのように、一切の無駄を排した静寂に支配されていた。北向きに設えられた縦長の窓からは、夜の帳が降りた街の灯が、遠く、淡い粒子となって差し込んでいる。遮光カーテンは半分だけ開かれ、差し込む月光がフローリングの上に冷たい銀色の帯を描き、光と影の境界を鋭利に際立たせていた。

宮間瑛斗みやま えいとは、その光の帯が途切れる、漆黒の影の中に膝をついていた。

180センチを超える、鍛え上げられた自らの肉体が、今はただの巨大な、そして無価値な荷物のように感じられる。柏の視界を一分一厘たりとも遮らぬよう、そして彼女が吐き出す言霊を一つとして聞き漏らさぬよう、背筋を鋼のように硬直させて頭を垂れる。床の冷気がスラックス越しに伝わり、瑛斗の神経をいっそう鋭敏に、狂おしいほど研ぎ澄ませていた。

デスクの向こう側に座る柏は、微動だにしない。

ただ、彼女の白皙はくせきの指先で弄ばれる小型ナイフだけが、月光を拾い、時折、瑛斗の視界の端をカミソリのような鋭さで切り裂く。

「……宮間」

静寂を割ったのは、鈴の音のように澄んだ、けれど感情の温度を一片も含まない冷徹な声だった。

瑛斗は弾かれたように顔を上げた。

「顔を上げなさい。いつまで私の足元を見つめているつもり?」

「……はい」

柏は椅子に深く背を預け、冷淡な瞳で瑛斗を見下ろしている。

細い脚を組み、頬杖をつくその仕草は、それだけで玉座に座る女王のような圧倒的な気品と、逆らう者を許さぬ威圧感を放っていた。月光を背負った彼女の輪郭は神々しいほどに鋭利で、瑛斗にとって、彼女はただ畏敬し、跪くべき絶対的な「完成者」そのものだった。

「自分が今日、どのような不始末を演じたか。私の口から説明させるつもりかしら?」

淡々とした、しかし有無を言わさぬ問いかけが、重い圧力となって瑛斗の肩にのしかかる。

彼女は決して怒鳴らない。だが、その静かな言葉は、荒々しい罵声よりもずっと深く、瑛斗の脊髄にまで届く毒のように浸透していく。

「私の越権行為です。あの場で、私の独断で発言し、柏さんの顔に泥を塗りました」

「それだけ?」

柏の視線が、獲物の急所を定めるように細くなる。

瑛斗は喉の奥を鳴らし、さらに深く頭を下げた。

「柏さんの視界を、この卑小な図体で汚しました。私が存在するだけで、貴女の空間を侵していること、深くお詫び申し上げます」

「そう。わかっているならいいわ」

短い返答。それだけで、部屋の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥る。

柏はナイフを指先で器用に回転させながら、品定めをするように瑛斗を眺めた。

「私は、大きいだけの人間が嫌いなの。場所を取り、視界を塞ぎ、自らの存在がいかに周囲の調和を乱しているかも自覚しない。そんな愚鈍な生き物は、見ていて不愉快だわ」

コン、とナイフの柄がデスクを叩く。その硬い音が、瑛斗の早鐘を打つ鼓動と共鳴した。

「本当に、申し訳ございません。この身を削ってでも、柏さんの望む形になりたいと思っております」

「言葉だけなら、なんとでも言えるわ」

柏がゆっくりと立ち上がった。音もなく近づいてくる死の気配に、瑛斗の全身の毛穴が収縮する。

ふわりと、沈香の香りが鼻腔を掠めた。理性を麻痺させ、意識を朦朧とさせるその香りが漂った次の瞬間、瑛斗の目の前に彼女の靴先が止まった。

「宮間。顔」

言われるがままに視線を上げた瞬間、瑛斗の顎は柏の細い指先に掬い上げられた。

力は入っていない。だというのに、逃げ場のない鉄のかせを嵌められたかのような錯覚。そして、首筋に冷たい鉄の感触が走る。

小型ナイフの切っ先が、脈打つ頸動脈のすぐ上に、吸い付くように押し当てられた。

刃が皮膚を僅かに沈ませる。その感触を通して、自分の命の鼓動が彼女の指先へ、そしてナイフを通して柏へと流れ込んでいく。瑛斗の背中を、熱い、叫びたくなるような戦慄が駆け抜けた。

「大きい人間には、相応の躾けが必要よ。痛みを刻み込まなければ、自分の立場というものをいつまでも理解できないようだから」

柏の瞳に、暗く澄んだ、悦楽にも似た情熱が宿る。

「いいわね。声を出してはいけない。一ミリでも動くことも、瞬きをすることも許さない。……私が許可するまで、貴方のその無駄な肉を、壊れるまで刻んであげる」

瑛斗は呼吸を止めた。

もはや恐怖などなかった。あるのは、彼女の「教育」を全身で受け入れ、彼女の記憶の一部に刻まれることへの、狂おしいほどの恍惚感だけだった。

柏の手首が、僅かに捻られようとした、その刹那――。

――ドォォン!!

重厚な扉が、あまりにも無作法な、そして暴力的な音を立てて開け放たれた。

「はーい、ストップストップ〜! はい、そこまで! やり過ぎよ〜、染李ちゃん!」

緊張感という名の薄氷を、無神経な土足で粉々に踏み砕くような声。

瑛斗の肩が激しく跳ね、柏のナイフが僅かに逸れた。彼女の表情が、一瞬にして猛烈な嫌悪と、殺意を孕んだ不快感へと歪む。

そこに立っていたのは、肩に漆黒の鞘に収まった日本刀を無造作に担いだ男、二つ名、微睡まどろみ太刀たち落合蓮おちあい れんだった。

「……落合。貴方……!」

瑛斗の喉から、ひきつけを起こしたような、呪詛に近い声が漏れる。

今まさに受けようとしていた「聖なる断罪」を無残に引き裂かれた怒りに、視界が真っ赤に染まる。

対照的に、柏は手元のナイフをギリ、と握り締め、乱入者を射抜かんばかりに睨みつけた。

「 29にもなって、最低限の礼儀も、ノック一つもできないわけ。この、老いぼれ」

「ちょっとお! 老いぼれって言わないで、まだ20代! ギリギリ、お兄さんで通る年齢! ちゃんとやったよ、心のノック! 染李ちゃんの心が『入っていいよ〜』って言った気がしたんだもん!」

「今すぐ消えて」

氷のような即答だった。

落合は「あはは、今日もキレキレだねぇ」と笑いながら、フラフラとした、緊張感の欠片もない足取りで窓際まで歩いてくる。

彼は瑛斗のすぐ横を通り過ぎる際、あろうことか瑛斗の肩をポン、と気安く叩いた。瑛斗がそれを、親の仇でも見るような目で見上げると、落合はわざとらしく大げさに肩をすくめてみせる。

「いや〜、でも今日の月は綺麗だねぇ。この子が宮間ちゃん?こんな良い月夜に、そんな物騒な玩具で遊んでちゃダメだよ。染李ちゃんもさ、新人をいじめてると、すぐ眉間にシワが増えちゃうよ?」

「……遊びではないと言ったはずよ。それで、何の用? 理由次第では、今すぐその喉を掻き切るけれど」

柏は露骨に、そして深く吐き捨てるように溜息を吐き、ナイフをデスクの上へ投げ出した。

カラン、という軽い金属音が、瑛斗にとっては処刑の無期限延期を告げる、最悪の鐘の音のように空虚に響く。

「おっと、そうだったそうだった。組長がお呼びだよ。十傑全員招集だってさ。緊急会議、会議! めんどくさいけどさ、行かないとまたあの狸爺に一時間くらい小言言われちゃうでしょ?」

「……チッ。あの狸、こんな時に……」

年齢は違うが立場的には、同期であるからか柏は苛立ちを隠そうともせず、長いブロンド髪を乱暴にかき上げた。

そして、一度も瑛斗に視線を送ることなく、苛烈な風を巻いて部屋を飛び出していった。

「宮間。その馬鹿を連れて、一分以内に会議室へ来なさい。遅れたら、次は本気でぐわよ」

その冷たい言葉だけを残して。

静寂が戻ったはずの部屋には、もはや先ほどまでの神聖な空気は微塵も残っていない。

残されたのは、期待を無惨に裏切られた瑛斗の空虚な憤怒と、窓の外の月を眺めながら鼻歌を歌う落合だけだった。

「落合さん」

「あ、初めましてか!これからは、俺も色々と同行することになったからよろしくね〜」

柏はもう諦めたようにため息をついた。

瑛斗を子供扱いしてるのか、落合はポケットから、安っぽいイチゴ味の飴を取り出すと、それを跪いたままの瑛斗の鼻先に突き出した。

「おじさん、君を助けてあげたんだよ? 染李ちゃん、マジでスイッチ入ると、君みたいな若くていい身体した新人を、本当に使い物にならなくしちゃうんだから。……宮間ちゃんってさ、怖くないの? 彼女のあの、冷たい目」

瑛斗は、差し出された飴を睨みつけ、それから沈黙した。

首筋に残るナイフの冷たい余韻と、そこから全身に広がった熱を思い返す。

「……怖いです。ですが、柏さんは正しい。彼女が下す判断は、この世の何よりも絶対です。私は、彼女の一部になりたい。それだけです」

「真面目だねぇ、ほんとに。若いうちからそんなに完成されちゃうと、後で疲れちゃうよ?」

落合は飴を自分の口に放り込み、ガリガリと音を立てて噛み砕くと、日本刀を肩に担ぎ直した。

その背中は細く、どこからでも斬り伏せられるほど隙だらけに見える。だというのに、この男は「十傑」の一角を占め、あの苛烈な柏が、毒を吐きながらもその隣を許している唯一の特異点だ。

それが瑛斗には、狂おしいほどに理解できず、そして激しく疎ましかった。

「ほら、行くよ。シャキシャキ歩かないと、本当に染李ちゃんに削られちゃうよ。おじさん、彼女に怒られるのだけは、寿命が縮まるから勘弁なんだ」

落合がふらふらと、鼻歌を再開しながら廊下へ歩き出す。

瑛斗は無言で立ち上がり、膝についた、見えない不浄を払うようにスラックスを叩いた。

そして、窓から差し込む冷たい月光の中を、まるで散歩でもするかのように歩く落合の背中を、射抜かんばかりの視線で見つめる。

「いつか、この男がいなくなった隣に。私が、柏さんの影となって立つ」

その、氷のように冷たく、炎のように青い野心だけを胸に、瑛斗は一度も落合の背中から目を逸らすことなく、その後ろを歩き続けた。

「あー、腹減ったなぁ。会議終わったらラーメン行かない? おじさんの奢りでさ、とびきり濃いやつ!」

「……死んでも断ります」

「えー! 冷たいねぇ、最近の若者は! おじさん泣いちゃうよ?」

二人の不揃いな足音は、長い廊下の先に広がる、九条組の深い闇の中へと消えていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、九条組の中でも際立って「鋭利」な柏と、彼女に心酔しきっている宮間、そしてその空気を一瞬でぶち壊す落合の三人を描きました。

宮間にとって、柏に刻まれる痛みは一種の「救済」であり、それを邪魔した落合への殺意は、正義感というよりも「聖域を汚された怒り」に近いものです。対する落合は、そんな宮間の重すぎる感情をすべて分かった上で、あえて安っぽい飴玉を差し出すような……そんな、食えない男としての魅力を詰め込んでみました。

十傑じゅっけつ」という不穏な単語も飛び出しましたが、九条組の頂点に近い彼らが一堂に会したとき、一体どのような地獄(あるいは喜劇)が幕を開けるのか。

柏の冷徹な美しさと、宮間の狂おしい野心、そして落合の底知れない軽薄さ。

この三人の歩む先を、これからも見守っていただければ幸いです。

また次のお話でお会いしましょう。

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