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第2章 初任務

九条組の「飼い犬」としての日々が始まって一ヶ月。

柏染という美しくも冷酷な主人の下で、俺の日常は「生」と「死」の境界線が曖味な訓練で理め尽くされていた。

ですが、今回与えられた任務は、いつもの地下射撃場とは正反対の場所。

眩しい太陽と、子供たちの歓声が響く「遊園地」での護衛任務だ。

柏さんの意外な一面と、俺に課せられた「絶対零度の宣告」。

硝煙の匂いがしないはずの場所で、俺はこれまでで最大の窮地に立たされることになる。

九条組の門を叩き、柏さんの「飼い犬」として教育を受け始めてから一ヶ月。

 俺の日常は、暴力的なまでの訓練と終わりのない雑務、そして彼女からの氷のような叱責で塗り潰されていた。だが、この濃密な時間は俺にいくつかの「生存戦略」を授けてくれた。

 例えば、彼女の放つ「悪くない」は至高の褒め言葉であること。具体的な改善策を突きつけられる時は、まだ「見捨てられていない」ということ。

 ……そう自分に言い聞かせなければ、精神が保たないのだ。だが同時に、疲弊しきった視界に映る彼女の横顔は、残酷なほどに美しい。同期の連中が俺を「ドMの大型犬」だの「変態小僧」だのとなじるのも、もはや勲章のように思えていた。

「デカブツ。何を呆けている。そのたるんだツラを晒していると、いつか首が飛ぶぞ」

 思考の深淵を見透かされたような冷徹な声に、背筋を嫌な汗が伝う。

「組長がお呼びだ。ついてこい」

「っ、御意」

 最上階。重厚なノックの音に続き、俺たちは九条組長の執務室へと足を踏み入れた。窓際の椅子に深く沈み込んだ組長の視線は、ただそこにあるだけで空気を重くさせる。柏さんは部屋の中央でぴたりと足を止め、俺はその半歩後ろ、今や俺の「聖域」となった場所へ控えた。

「柏。その男はどうだ。少しは牙を研いだか」

「図体ばかりで、特筆すべき点はありません。ですが、命じられた通りに動く程度の忠誠心は持ち合わせているようです。射撃の精度だけは、見るべきものがありますが」

 淡々とした、平熱の評価。だが、彼女の口から出た「見るべきものがある」という言葉は、今の俺にはどんな勲章よりも熱く胸に響いた。

「ならば、初任務を与える。護衛だ」

 護衛。その単語を聞いた瞬間、反射的に拳に力がこもる。硝煙、怒号、柏さんの背中を守りながら駆け抜ける死線。そんな光景を脳裏に描いたが、組長の次の一言でそれは霧散した。

「対象は、私の孫娘。莉愛奈だ」

 莉愛奈お嬢様。拍子抜けした、などと口にすれば即座に消されるだろう。だが、張り詰めた緊張がどこか行き場を失ったのは事実だった。

 翌日。柏さんと俺は別邸へと向かった。

「莉愛奈お嬢様、お迎えに上がりました」

 誰だ、今のは。聞き慣れたはずの声に混じった、耳を疑うような慈愛。振り返った柏さんの表情は、地下射撃場で俺に銃口を向けていた時とは別人のように柔らかかった。

「染李お姉ちゃん!」

 駆け寄る少女、九条莉愛奈。彼女は迷いなく柏さんの胸に飛び込み、柏さんは当然のようにその小さな頭を撫でた。柏さんより数センチ低いだけに見えるが、その光景は微笑ましい姉妹のようだった。

「そっちの大きい人、誰? 染李お姉ちゃんの彼氏さん?」

 心臓が止まるかと思った。俺は反射的に視線を床に縫い付ける。柏さんは微笑んでいた。完璧な、慈愛の微笑み。だが、俺に向けられる視線には、かつてない濃度の殺気が静かに沈殿していた。

「違います。組から預かっている、宮間瑛斗です」

 お茶の時間。テラスに置かれたティーカップは、俺の指にはあまりに小さすぎた。

 向かい合う「姉妹」のような二人の優雅な会話。俺だけが、この平穏という名の異界に迷い込んだ異物のようだ。

「ねえ、染李お姉ちゃん。私、明日遊園地へ行きたい!」

 莉愛奈お嬢様の無邪気な提案に、柏さんの手が、ほんの一瞬だけ凍りついた。

「遊園地、ですか」

「観覧車に乗りたいの! あと射撃ゲームも! ね、行ってくれるでしょ?」

 期待に満ちた瞳がこちらを向く。

「あ、はい」

 言ってしまった。答えた瞬間、背後の空気が絶対零度まで引き締まるのを感じた。柏さんが静かに、けれど逃げ場を塞ぐような仕草で紅茶のカップを置く。

「そうですね。お嬢様がそう仰るなら、私も『全力』で警護いたします」

 優雅な声音。だが、その裏側にある「後で覚えておけ」という無言の宣告に、俺は思わず自分の首元をなでた。間違いなく俺は今、死線より恐ろしい場所へ足を踏み入れようとしていた。

 翌日。

 俺は別邸の洗面台に備え付けられた鏡を見下ろし、小さく息を吐いた。

 黒のジャケットに細身のパンツ。支給された私服としては十分まともなのだろうが、180センチの体躯が袖を通した時点で、どうしても「カタギではない何か」が滲み出る。

 鏡の中には、“遊園地”という単語から最も遠い男が立っていた。しかも今日は、柏さんと一日同行なのだ。胃が痛い。

 車寄せへ向かうと、すでに数人の使用人たちが待機していた。そのうちの一人が俺を見た瞬間、肩を揺らす。

「あ……お、おはようございます」

「……はい」

 反射的に少し背を丸める。昔からそうだった。俺は何もしていなくても、人を怖がらせる。だから、こういう場所ではできるだけ目立たないように生きてきた。もっとも、この体格で目立つなという方が無理な話なのだが。

 その時、扉が開いた。

「瑛斗さん、お待たせ!」

 莉愛奈お嬢様が明るい声で駆け寄ってくる。その後ろから、柏さんが静かに姿を現した。

 俺は一瞬、言葉を失った。

 黒いスーツではない。柔らかなブラウスに淡い色のスカート。全体の雰囲気が驚くほど柔らかい。遊園地へ向かう若い女性、そのものだった。

「瑛斗、お嬢様をお待たせするなんて感心しませんね」

 鈴を転がすような声。穏やかな微笑み。昨日まで地下射撃場で俺を見下ろしていた人物と同一人物とは、到底思えない。

 ……怖い。その笑顔の奥に何があるかを知っているせいで、余計に怖かった。俺は即座に視線を下げる。

「申し訳ありません。車の準備は完了しております」

「ふふ、瑛斗さんって本当に真面目ね」

 莉愛奈お嬢様が楽しそうに笑う。

「染李お姉ちゃん、早く行こ!」

「ええ、参りましょうか」

 二人が車へ乗り込む。ドアが閉まる寸前、柏さんがちらりとこちらを見た。それだけだったが、その視線だけで喉が詰まる。多分、いや間違いなく、まだ怒っている。

 遊園地へ到着した瞬間から、莉愛奈お嬢様の機嫌は最高潮だった。

「見て! メリーゴーランド!」

「次あれ乗りたい! あとアイスも!」

 俺と柏さんの手を引き、人混みの中を進んでいく。周囲では家族連れやカップルが笑い合っていた。

 その中で、自分だけが妙に浮いている。実際、俺が歩くたびに人が少し避け、小さな子供が母親の後ろへ隠れた。180センチ超えとはいえ、そこまで威圧感を出しているつもりはないのだが。最近の寝不足でクマでも酷いのだろうか。カップルがこちらを見て、ひそひそ何かを話している。俺はできるだけ歩幅を狭め、背を丸めた。

 対照的に、彼女自身は自然と人の輪へ溶け込んでいた。店員に笑いかけられ、道を尋ねられ、子供に手を振られる。

「お姉さん、髪きれいー!」

「ありがとうございます」

 柔らかな笑み。完璧だった。組の人間が見れば卒倒するレベルで、“優しいお姉さん”を演じ切っている。いや、本当に演技なのか? 莉愛奈お様といる時だけは柏さんの空気が少し違う。

「柏さん。荷物、お持ちします」

 俺は彼女の持つ小さなバッグへ手を伸ばした。その瞬間、柏さんの指が俺の手首を掴む。

 万力のような力だった。

「瑛斗くん」

 囁くような声。なのに、鼓膜へ直接針を刺されるように冷たい。だが、くん呼びしてくれたのは嬉しい。

「はい」

「お嬢様の“指示は絶対”。そうでしたね」

 微笑みは崩れていない。周囲から見れば、仲良く会話しているようにしか見えないだろう。だが、掴まれた手首から薄い刃物のような圧がじわじわと伝わってくる。

「私の許可なく返事をした報いは、後で受けてもらいます。わかりましたか?」

「御意」

 喉が乾く。気づけばまた、無意識に自分の首元へ触れていた。柏さんは、主従の距離を崩されることを何より嫌う。その線を、昨日の俺は踏み越えてしまったのだ。

「染李お姉ちゃん! 瑛斗さん! あっち、射撃ゲームだって!」

 莉愛奈様の声と同時に、柏さんの手が離れる。ようやく肺に空気が戻った。

 射撃コーナーは、どこか古びたレトロな雰囲気だった。棚には景品のぬいぐるみが並び、子供たちが歓声を上げている。

「瑛斗さん! あの大きいの欲しい!」

 莉愛奈お嬢様が最上段のぬいぐるみを指差す。無邪気な声だが、俺にとっては絶対の命令だ。

「あら、瑛斗さんなら簡単に取ってくださいますよ」

 柏さんが優雅に微笑む。逃げ道はない。

 店員からコルク銃を受け取る。軽い。粗い。重心も癖も、本物とはまるで違う。

 だが。

 引き金へ指をかけた瞬間、遊園地の喧騒が遠のいた。

 笑い声も、音楽も、アナウンスも、すべてが薄れていく。

 残るのは、銃と標的だけ。

 景品の重心を見極め、支柱の角度と落下位置を計算する。照準は一点。

 パンッ、と軽い音が響いた。

 次の瞬間、最上段のぬいぐるみが、吸い込まれるように棚から落ちた。

「わあっ! 一発!」

 莉愛奈お嬢様が歓声を上げ、周囲からもどよめきが起きる。

「すご……」「今の見た?」

 俺は我に返り、慌てて頭を下げた。

「ぐ、偶然です」

 だが、柏さんだけは静かに俺を見ていた。

 笑っている。莉愛奈お嬢様へ向ける微笑みは完璧なまま、その瞳だけが射抜くように冷たく光っていた。

第2章をお読みいただきありがとうございまし

た!

お嬢様の前で見せる柏さんの「聖母のような微笑み」.....怖すぎましたね。瑛斗にとっては、敵の銃口よりもあの視線の方がよっぽど心臓に悪いようです。

果たして、遊園地の帰りに瑛を待ち受けている「報い」とは何なのか。

そして柏さんが一瞬見せた、演技ではない(かもしれない)空気の正体は?

第3章では、再び組の顔に戻った二人の「夜の反省会」を描ければと思っています。

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