第1章 巨躯の影、指先の檻
初めまして、川間りらと申します。
数ある作品の中から、この物語を見つけていただきありがとうございます。
この世の中には、警察や消防士といった表立って世界を守る者とは別に、裏側で闇を削ぎ落とす組織がある。
「悪に勝てるのは悪だけ」とは、まさにこのことだろう。
その一角、裏社会で『第五勢力』に数えられる「九条組」。
彼らは実力至上主義で、才能に恵まれた精鋭を集め、裏社会の毒を削ぎ落とすことで国民を守っていた。
新人として九条組へ入った俺、宮間瑛斗は、重厚な扉の前で一度だけ深く息を吐いた。
磨き上げられた廊下は静まり返っていて、自分の足音が床に響くたび、心臓が締め付けられるような気がする。
今日から俺の教育係となるのは、九条組の実力トップと名高い女、柏染李。
150cmという小柄な体格でありながら、数々の修羅場を潜り抜けてきたことで付いた二つ名は「黒後家蜘蛛」。
組の人間は皆、彼女を恐れていた。
そして同時に、彼女が“デカい男を嫌う”ことも有名だった。
その理由は本人しか知らない。
180cmの長身である俺とは、最悪の組み合わせだ。
この配置は、組長の九条雅也が決めたものだ。もちろん、柏さんが大男を嫌っていることを承知の上で組んだのだろう。
「入れ」
扉越しに響いた声は、鈴の音みたいに澄んでいた。
だが、その奥にある温度の無さに、俺は反射的に背筋を伸ばす。
「失礼します」
短く告げ、室内へ入る。
広い執務室の奥、窓際のデスクに柏さんは座っていた。
陽光を背負うその姿は小柄で華奢に見えるが、この人が誰よりも強いことは、凡才な俺でもすぐに分かった。
俺が一歩踏み出した瞬間、窓から差し込んでいた光が俺の身体に遮られ、柏さんのデスクへ大きな影を落とした。
「本日より配属されました、宮間瑛斗です。柏さんのご指導を仰げること、光栄に存じます」
深く頭を下げる。
しかし返ってきたのは、鼓膜が痛くなるほどの沈黙だった。
柏さんは俺の資料へ視線を落としたまま、まるで俺など存在しないかのように微動だにしない。
十秒ほどだったのかもしれない。だが俺には、数分にも感じられた。
やがてパサリ、と紙を置く音が響く。
「邪魔だ。どけ」
感情の起伏を一切感じさせない声だった。
俺は弾かれたように横へ退く。
なかなか目が合わない。この数回の会話で、もう俺は嫌われたのだろうか。
「私はデカい奴が嫌いだ。視界を汚すな。それから、私の首を疲れさせるな」
淡々とした声。だが、その一言だけで胃の奥がじわりと重くなる。
この人にとって俺は、新人ですらない。ただの「邪魔な障害物」なのだ。
柏さんが、ゆっくり顔を上げた。
その視線が真正面から俺を捉えた瞬間、喉の奥へ冷たい指を差し込まれたみたいに息が詰まった。
暗い。
冷たい。
底が見えない。
ただ目を合わせただけだというのに、首筋へ刃物を当てられているような錯覚が消えない。あまりの圧に、俺は反射的に自分の首元へ触れていた。
今、本当に喉を裂かれたのではないか。
そんな馬鹿げた錯覚を本気で信じかけるほど、柏さんの視線には生々しい威圧感という名の殺気を感じた。
――逃げろ、と本能が警鐘を鳴らす。
だが、ここから逃げたら俺には居場所がない。逃げるという選択肢はなかった。
ハッとして、俺は急いでその場に膝をつき、大きな身体を折り畳むようにして視線の高さを落とす。
「……これなら、お疲れになりませんか」
言葉を選んだつもりだった。しかし口にした瞬間、自分でもおかしくなる。
これは新人の挨拶ではない。まるで、大型犬が飼い主へ腹を見せているみたいだ。
まあ、柏さんは美人だし、悪い気はしないのだが。
柏さんは、足元へ膝をついた俺を無機質な瞳で見下ろしていた。
その視線が、俺の肩幅で一瞬止まる。
わずかに、本当にわずかだが、彼女の指先が硬くなった気がした。
数秒の沈黙が落ちる。
静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きかった。
やがて柏さんは、小さく息を吐く。
「いいだろう。その位置を忘れるな、デカブツ」
空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
助かった。そう思った瞬間、止まっていた呼吸がようやく戻ってくる。
部屋を出ると、廊下の先で九条組長の一団と鉢合わせた。
俺は即座に頭を下げる。
組長は、俺を品定めするように見下ろした。
数秒ほど観察するように視線を向けたあと、九条組長はわずかに口角を上げた。
「柏。その男をどう使う」
「見ての通りのデカブツです」
柏さんは冷ややかに答え、続けた。
「視界を遮る盾としては、今のところ及第点かと」
周囲の組員たちが低く笑った。
「柏さんの新しいペットか」
「大型犬っすね」
嘲笑されても、俺は顔を上げなかった。
先輩の組員が怖かったわけではない。笑われること自体はどうでもよかった。
それよりも、柏さんの機嫌を損ねる方が、遥かに恐ろしかった。
九条組長はそんな俺を見下ろしながら、ゆっくり口を開く。
「柏。壊すなよ」
「善処します」
「“善処”で済む男か?」
その言葉に、柏さんは答えなかった。
周りの組員たちは、柏さんが俺をおもちゃだと言っているのだと解釈し、ニヤついた視線を向けてくる。
だが、九条組長は俺ではなく柏さんの方を見ていた。まるで、暴れそうな獣を落ち着かせるみたいに。
やがて組長は小さく笑う。
「宮間。柏に叩き直されろ。お前が何になるかは、お前次第だ」
その目だけが妙に鋭く、俺の奥底を探っているようだった。
入組初日から、全く生きた心地がしない。
地下射撃場には、硝煙と油の匂いが染み付いていた。
壁際では組員たちがこちらを見ながら、好き勝手なことを囁いている。
「柏さんの新しいペットか?」
「でけぇ図体の割に縮こまってんな」
笑い声が混じる。
「……撃て」
柏さんの声が、乾いた空気を切り裂いた。
「的に当たれば、今日の飯は食わせてやる」
周囲からまた笑いが起きた。
「犬の餌付けじゃねえか」
「手ぇ震えてるぞ、新人」
実際、少し震えていた。
俺は拳銃を受け取り、静かに構える。冷たい金属が掌へ吸い付く感覚。
その瞬間だった。
周囲の音が、遠のく。
笑い声。
足音。
換気扇の低い駆動音。
全部が薄れていく。
呼吸。
静止。
照準。
一点。
銃だけが異的なほど鮮明だった。
柏さんが、俺の手を見ている。その気配だけが、はっきり分かった。
構えられた銃身は、糸で吊られたマリオネットみたいに微動だにしない。
腕と銃の境界が曖昧になる。
引き金へ添えた指先だけが、静かに呼吸していた。
――撃つ。
乾いた銃声が響く。
次の瞬間、標的の中心へ綺麗な穴が空いていた。
射撃場が静まり返る。
さっきまで笑っていた組員たちが、言葉を失っていた。
俺はそこでようやく我に返り、慌てて姿勢を崩す。
「当たった、でしょうか」
自分でも情けない声だった。
柏さんは答えない。ただ静かに、俺の手元を見ている。
探るような、測るような、そんな目だった。
やがて彼女はコートを翻し、短く告げる。
「帰るぞ。約束だ、飯は食わせてやる」
その声音はいつも通り冷たい。
なのに、ほんの少しだけ、何かを考え込んでいるようにも聞こえた。
俺は慌てて後を追う。地下通路へ出たところで、柏さんが前を向いたまま口を開いた。
「宮間、歩幅が広い」
「申し訳ありません」
「私の半歩後ろを歩け。視界へ入るな」
「御意」
俺は即座に歩幅を縮める。
通路の向こうで、別の組員たちがこちらを見て小さくざわついていた。
180cmの男が、150cmの女の半歩後ろを、小さくなって歩いている。
傍から見れば滑稽なのだろう。
だが俺には、前を歩くその小さな背中が、この組の誰よりも巨大に見えていた。
後書きまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
これは私の人生初の作品となります。
180cmと150cm、この身長差を書くのが意外と楽しくて癖になりそうです。
柏さんの視界、宮間くんの胸板あたりらしいですよ。首が痛そうですね。
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自由気ままに更新していく予定です。
『次回!作者の癖がでまくる!かも?デュエルスタンバイ!!』




