3 村の人々の願い
女を腕に抱き、天高く飛び上がる。風が心地良い。思わず不必要なまでに高く飛び上がってしまった。
「ひっ……! た、高いっ……!」
腕の中の女が俺にしがみつく力を強め、がたがたと震えている。女に抱きつかれるのは嬉しいが、悪いことをしてしまったな……。
「おっと、すまんすまん。少し調子に乗りすぎた……。すぐに降りるから、もう少しだけ辛抱していなさい」
上空から川の流れを眺める。夢の中で眺めたのと同じだが、まったくと言っていいほど違っていて、全てが輝いて見える。我ながら、良い川だな……。
遠くに彼女が身を投げた崖が見える。どうやら随分と流されてしまっていたようだ。目を凝らし、耳を澄ませて崖の上の様子を伺う。俺はこの川自身。その気になれば、川のそばでの出来事は手に取るように分かるようだ。
「ああ……ジーナ、ジーナ……可哀想な娘……」
「泣くな……これで、これで良かったんだ……」
啜り泣く壮年の男女が見える。ジーナというのがこの女の名前だろうか。そして恐らく、泣いているのは彼女の両親だろう。
「お前はジーナというのか……?」
「え……!? な、なぜ私の名前を……!」
うむ、やはりジーナと言うらしい。良い名前だ。
しかし、自ら生贄を捧げておいてこのように泣き暮れるとは、一体どうしたことだろう。泣くくらいなら初めからこんなことしなければ良い。
いや、そういえばジーナが身を投げる前、老人や彼女自身が何か言っていたな。確か「村をお救い下さい」とかなんとか……。
それにしたって俺はまだ一度も彼らに手を貸したことなんてないのに、よくやるものだ。そうせざるを得ない理由があった、あるいは他に生贄を求める神が存在しているのだろうか。
「そうじゃ、今日は笑うのじゃ……。あの娘はルオール川様の嫁となった。これは祝言じゃ、せめて我々は、喜ばねば……うぐ、うぅ……!」
「「「うぅ……!ぐす、ぐす……」」」
先程の男女だけでなく、他の者たちも啜り泣いている。これはいよいよだなと思い始める。彼らの涙はこの娘に向けた涙か、あるいは神に縋らねばならない自分たちのこれからを悲観する涙か。
まさにお通夜となっている崖の上に到着する。俺は天高くから身体をうねらせ、人々の前へと降り立つ。まだ濡れている身体から川の水の雫が滴り落ち、背中には中天の陽の光が照りつける。
「なっ……!!!」
「なんじゃこれは……!!!」
「ひ、ひいぃっ……!!!」
啜り泣いていた人々が、俺の登場に腰を抜かして慌てふためく。神様の登場に相応しい神々しさだったはずだが、がっかりな反応だな……。まあ当然か。巨大な白蛇、いや、小さな竜が、突如として目の前に現れたのだから。
「貴様らの捧げもの、しかと受け取った。なかなかに良い娘だ。我は大変に満足しているぞ…」
「皆んなっ……!!」
ジーナが久方ぶりの地面に足を下ろし、人々を呼ぶ。呆気に取られている彼らは何が起きたのか理解できずに固まっている。だがその中で一人が進み出て言う。
「も、もしや、ルオール川様……!? な、なんと、本当に……!? なんたる光栄……! なんと恐れ多い……!」
最初に正体を取り戻したのは、祈りの言葉を捧げていた老人だった。老人は俺の前に恭しく跪いた。彼がこの者達の長老なのだろう。周りで怯えていた村人達も、長老にならって地に伏し頭を垂れる。
「いかにも。貴様らが付けたに過ぎんその名は知らぬが、我はこの川であり、この川が我であることには相違無い」
俺は大仰に、威厳たっぷりにそう口にした。心の中では我ながら何を偉そうにと思わなくもないが、初めて民衆の前に姿を現す神としては相応しいだろう。
あれ、今更だけど俺って神様なのか…?色々と心の整理がつかない。頭は未だ夢の中にあるように思える。だが、何故だがそのように振る舞わねばならぬという衝動に満たされている。
まあ良いか。何故こんなことになっているのか分からないが、この者達がそう望むのなら、そう在ってしかるべきと思えた。
「「「おお……!」」」
村の者達が俺の姿を見て、顔を見合わせながら感嘆の声を漏らす。彼らは皆一様に見窄らしい格好をしている。着古されたボロボロの、目の荒い布地の服。かろうじて切り揃えようとした痕跡の見えるボサボサの髪。日焼けして荒れ放題、いくら洗っても落ちない泥や煤で薄汚れた肌。ゴツゴツとした指先にささくれを持たぬ者はおらず、靴を履くことを知らぬ足の裏の皮は分厚い。
「わ、私、本当に生きて戻って来たの……?」
戸惑いながら腕の中の女が言う。頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れで、村の者達よりは幾らか上等な服がぴったりと張り付いて艶かしい。先程は貧相に見えたこの女が、この者達の中にあってはいかに美しい娘なのかがよく分かる。彼らは本当に「村で最も美しく清らかな娘」を俺に差し出したのだ。
「ジーナ……! ああジーナ、良かった……!」
村人の中から、一人の女が進み出てくる。泣き腫らした目から止まらぬ涙を拭うこともなく、彼女は生贄の娘ジーナに縋り付く。ジーナの母親だろうか。
「よしなさい……おまえ! 一度捧げたものに縋り付くなど……!」
今度は壮年の男が女を追ってその肩を抱き、ジーナから引き剥がす。彼も彼で目と鼻の頭を赤くして、下唇をグッと噛み締み、俺のことを畏れの眼差しで見上げている。こちらは父親か。
「お母さん、お父さん……!」
「ジーナっ……!」
「よさないかっ……!」
ジーナが二人を呼ぶ。再び母親を止める父親。うーん…これではまるで俺が親子を引き裂こうとしているみたいじゃないか…。
「ふむ……。畏怖されるのは悪くないが、狭量な神と思われるのはつまらぬ。我はこの娘を愛でることにした。この娘は我のもの。それを忘れぬのならば、親子が想い合うことに目くじらを立てたりはせぬ」
「ああっ! ありがとうございます! ありがとうございます!」
こちらの顔色を伺うジーナの背を押してやると、彼女は両親の腕の中へと飛び込み、三人は泣きながら生還を喜びあった。しばらく、それを微笑ましく見守っていると、長老が進み出て話しかけてくる。
「ル、ルオール様……。お初にお目に掛かります……。私めはこの村の長をしておる者です。この度はお姿をお見せ下さり、感謝申し上げます……」
「なに、気にすることはない。素晴らしい贈り物を貰ってしまったのでな。先ほども言ったが、我は十分に満足しておる」
「ははー! ありがたき幸せ……!」
恭しく首を垂れ、両手を組んで頭の上に持ち上げるポーズを取る長老。その両手が密かにぷるぷると震えていることを俺は見逃さなかった。だが、勇敢にも彼は言葉を続ける。
「し、しからば……我らの願いも、き、聞き入れて下さるのでしょうか……?」
身体だけでなく声も震わせて聞いてくる長老。立派な男である。
「願いか……。我に叶えられるものならば、叶えてしんぜよう。どれ、一つ話してみるが良い」
「ははー! ありがとうございます……!」
偉そうに答えてみると、ますます深く頭を下げる長老。やはり相当に追い詰められているらしい。俺に叶えられる範囲の願いなら良いんだが……。
なにせ目覚めてから、この竜の身体になってまだ一刻も経っていない。生まれたてほやほやの神様だ。自分が神になったらしいということくらいしか分かっておらず、何ができるのかもよく分かっていない。
人間が神様に頼むことと言ったら何があるだろうか。雨を降らせくれとか頼まれたらどうしよう……。金持ちにしてくれとか言われたら正直何もできる気がしない……。そんなことができるならあんなボロ屋で生涯を終えることも無かっただろう。いや、案外この神様の身体ならいろいろ出来たりするのか……?
俺は内心ドキドキしながら長老の言葉を待つ。
「では、申し上げさせて頂きます。実は我々はウェイウーの一族に貢納を求められて困っておるのです……」
出てきた言葉は、想定していたものとは違っていた。さて、どうしたものだろうな……。