序章
煌く緑、赤い岩肌、彼らを覆う空は透き通った青。
木漏れ日に羽根を休める小鳥は軽やかに歌い、夜になれば眩い星達が輝く。
この世には、人間が知らないもの、人間が忘れたものがいっぱいある。
今の子ども達は知っているだろうか?こんな美しい世界を。
今の人間達は知らないだろう。こんな世界が、まだあるということを。
ここ、精霊界には、美しい世界が息づいている。
俺はそんな世界を統べる役を担っている。
その役に坐したまま、もう随分と長い間、人間界と精霊界の移ろいを見てきた。
だからこそ思うのだ。
人間界は、精霊界の助力が無ければ滅んでしまうだろう。それは当然だ。
自然の恩恵が無ければ、なんだかんだ自然に依存して生きている人間は、滅びるしかない。
しかし、それと同時に、人間が精霊を見失えば精霊界も容易く消える。
何故かって?そのように神が決めたからだ。
自分達は高みの見物で、面倒くさいことは全部精霊に押し付けているのさ。
そのくせ「折角作った人間界を壊したらいけないよ」なんて言う。
そうこうしている内に、気付けば人間は精霊から離れて、精霊は神から離れていた。
全く、この立場は肩がこる。
だがこの立場でないと、人間界が―――やがては精霊界が滅んでいくのを、見ているしかできない。
「――……しゅう、聞こえとらんのか。……おい、自然の主!」
年老いた男の声が耳朶を叩く。
些かやかましさを感じつつ、俺は、ふうと息を吐いた。
「聞こえてるよ。考え事くらいゆっくりさせろ、爺さん」
肩を回すと、ゴキリと辛い音が鳴った。
俺―――しゅうは、人間界と精霊界を守る自然の主である。
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“自然の主”というものは、名ばかりだと俺は思う。
実際やることと言えば、人間界と精霊界の管理。それと、神様の雑用をこなすことだ。
人間で言えばそう……“中間管理職”というのが適切。
上と下に押し潰され、それでも自分の意見を持ち、なんとか舵を取ろうとする。
板挟みな毎日が、際限無く続いていく。
そんなわけで、今日も気分は憂鬱であった。
「……はあ……」
古びた木製の扉を閉めると当時に溜息が漏れた。
室外に出れば、普通は新鮮な空気を吸い込むものだが、今はそんな気分ではない。
…扉の向こうの爺達に面倒なことを押し付けられたのだ。
どう断ろうか考えていたら、気が付けば承諾せざるを得ない状況にまで追い込まれていた。
俺の気持ちとは真逆に、今頃彼らはほくそ笑んでいることだろう。
「ほんと、しっかりしなきゃなあ……」
部屋を出てから二度目の溜息を吐きながら、俺は取り敢えず、足を前へと運んだ。
―――精霊界。
文明の加工物にまみれた人間界とは違い、自然がいきいきと生活している世界である。
精霊界と銘打つだけあり、“精霊”と呼ばれる種族のほとんどは、今はここに住む。
正確な成立時期は不明。ただわかるのは、その頃から生きている者は、もう精霊界には居ないということだ。
土地は山岳地帯や森林、平原が広がっており、四季に応じてその色を変える。
精霊界の中心には、バカでかい屋敷のような建物が建っていて、俺達はそれを“核”と呼ぶ。
俺が今居るのは、その“核”の中である。
この施設には、まさに核たるものが数多く揃っている。
病院や図書室などの大衆が利用する場所から、研究所や特殊部隊の本部などの、一部の者が利用する場所まで。
内部構造はなかなかに複雑で、俺もあまり把握していない。
ただ、内部は外観よりも広く、端から端まで歩くならば、かなりの時間を要することは確かだ。
この広さを利用して、“核”には大勢の精霊が住居を構えている。俺もその一人だ。
因みに、背に遠ざかる部屋は、空王と森王という奴等が住んでいる部屋である。
俺がそこに入る時は、決まって厄介事を押し付けられる時だった。
…わかってはいる。だが、俺の立場上の問題と、彼等が実質俺の育ての親であるから、断れないのだ。
飲んだくれで強引でロクでもない育ての親。
そんな親でも、感謝していないと言えば嘘になる。弱味を握られているようなものだ。
彼らから押し付けられた書類を小脇に抱え、俺はのろのろと長い廊下を歩いた。
すれ違う者は誰も居ない。
精霊達は基本的に引きこもり気質で、普段は自分の部屋から出てくることはない。
かく言う俺も、用事がない限りは、自室にこもって雑務をこなしている。
外に出たからと言って遊ぶような年頃でもない。
誰にも会わないまま、しばらく歩いていると、大きな黒い扉が目に映った。近付いて、俺はその扉の前に立つ。
他の部屋とは違う、威厳を象徴するかのような扉。代々自然の主はこの部屋に住むことになっている。
無機質な光を放つそれは、見た目に反して軽く、俺一人が通るには無用な両開きの扉であった。
その片方をぐい、と開けると、広くも狭くもない部屋があって―――
「よう」
そんな部屋の中で、男はにこりと俺に微笑みかけていた。
しかも、俺の部屋の俺の椅子に座って。
「……何してるんだ」
「何してるって、お前を待っていただけだけど?」
きょとんとした顔で男は首を傾げる。俺は苦笑した。
彼―――セイは、俺の親友であり幼馴染みだ。
彼には他の精霊とは違う特殊な性質が備わっており、それゆえに“未知の精霊”に分類されている。
性格は俺と違ってとても社交的で、誰とも仲良くなれる奴だ。正直少し羨ましい。
……こう聞くと何だか万能な男に思えるが、もちろん欠点もある。
手先が極端に不器用なことと、少し突っ走る癖があるのだ。
その完璧を崩す欠点が、逆に人々に親近感を与えるのだろうが。
「それ、どうしたんだ?また何かやるのか?」
尋ねながら、視線は俺の右手に注がれている。
視線の先には、先程押し付けられた紙の束が抱えられていた。
「ちょっとね。それより、セイこそどうした?」
はぐらかすように、机の上に書類を置く。
それが気に食わなかったのか、
「……別に。甘いものが食いたくなっただけだ」
唇を尖らせて、彼はぶっきらぼうに言った。
そんな顔をされても、セイには関係無いのだから仕方がない。
単純に関係が無いだけではなく、やや物騒な話だから、俺も話したくはないのだ。
俺のその考えを、セイが嫌っているのはよく知っている。
けれども、彼も俺が易々と物騒な話をするような人物ではないことを、よく知っている。
結果、彼は唇を尖らせるしかなく、俺も俺ではぐらかすしかないのだ。
その代わりと言っては難だが、俺は台所へと向かった。
部屋の入口から左手の壁の奥に、小さな木の扉がある。
そこを開けてすぐ左に、台所はあった。
一見すると、人間の使う台所と大差無い。
冷蔵庫や流し台やコンロ……と機材が揃っているが、コンロはガスコンロではない。
俺は人差し指をコンロに向け、術で火を点けた。炎はゆらゆらと揺れている。
このコンロ、実は術の効力を保持し続ける装置が内装されているのだった。
水の入った小鍋をその上に置いて、沸騰するのを待つ。
本来、食べ物を口にしない精霊には、台所というものは必要が無い。
年を取ると道楽として、食べ物を口にする者が増えるそうだが、一般的には台所のある住居を持つ者は少ない。
しかし、セイは幼い頃を人間として育てられていた為、今でも普通に人間と同じ食生活をしている。
ただし先程言った通り、彼は非常に不器用な男で、自分で料理を作ることができない。
腹が減ったり甘いものが食べたくなると、俺の元へ来ることが多かった。
冷蔵庫を開けると、昨日作ったチーズケーキがそこにあった。
図書館に訪れた際、司書達にあげた分、2切れが無くなっていた。
「チーズケーキがあるけど、食うか?」
「食う!」
間髪入れない反応。やれやれ、と俺は笑った。
俺自身は食わないものだが、喜んで食ってくれる奴が居るのは嬉しい限りだ。
そんなことを感じながら、火から鍋をおろして紅茶を淹れた。
……こういったことは趣味の一つなのだが、人間には女々しいことだと笑われるだろうか。
ケーキと紅茶を持って部屋に戻ると、相変わらず俺の椅子に、セイは行儀良く座って待っていた。
「どうぞ」
「やった、いただきまーす!」
言うが早いか、セイは嬉しそうにチーズケーキを頬張って、「うめえ!」と笑った。
そうやって笑ってくれるのが、俺にはとても嬉しい。
にこにこと食べている彼を眺めながら俺も紅茶を啜ると、古びた扉の向こうを忘れるような、安らぎを感じられた。
人間の文化をバカにする精霊はよく居るが、こんな時間を体験すれば、人間の文化もバカにはできないだろう。
だから、俺は
「それ食い終わったら、自分の部屋に戻れよ。俺は用事があるから」
「……わかってるよ」
人間の文化も安らぎも、大事な友人の笑顔も失いたくないから。
面倒なことを押し付けられても黙ってこなす。それがどれだけ過酷でも。
俺一人では、人間界も精霊界も守り切れないかもしれない。
でも、俺がやらなければ誰もやらないし、できる限りのことはしたいと思っている。
自然の主とは、そういうもの。
「気を付けろよ。怪我なんかすんじゃねーぞ」
まだあっつい紅茶をぐびぐび飲みながら、セイはフォークを俺に向ける。
(自然の主になったのは嫌だったけど…)
「もちろんだよ。好んで怪我する奴が居るか?」
「ちゃんと帰って来いよ」
「他にどこに行くってんだ」
「……どこか?」
「アホか」
こうして待ってくれる友が居るのは、幸せなことなのだろう。
案外、自然の主も悪くはないものである。