ズレていく記憶
家に帰ってからも、 湊はスマホを見つめたままだった。
『もう、 どれが本物か分からないだろ』
emptyからのDM。
頭の奥が、 ずっと気持ち悪い。
一ノ瀬のスマホケース。
昨日まで白だった。
絶対に。
でも、 もし自分の記憶違いだったら?
たかがスマホケースだ。
そんな小さなことで、 何を怯えてるんだ。
そう思おうとしても。
心のどこかで、 確信していた。
何かが変わっている。
翌朝。
教室に入った瞬間、 湊は違和感を覚えた。
「え、一ノ瀬それ似合うじゃん」
「でしょ? 昨日変えた」
友達と話している一ノ瀬。
手には、 淡い水色のスマホケース。
昨日、 変えた?
湊の背中を冷たい汗が伝う。
昨日の時点で、 もう変わっていたはずだ。
じゃあ。
“昨日まで”は、 どこに行った。
「朝倉くん、おはよ」
突然声をかけられ、 湊は肩を揺らした。
一ノ瀬が笑っている。
その笑顔は、 少しずつ柔らかくなっていた。
「……おはよ」
「どうしたの? 顔怖いよ」
「別に」
「寝不足?」
「まあ」
嘘ではない。
一睡もできなかった。
授業中。
湊はノートを開いたまま、 ぼんやり窓の外を見ていた。
emptyの言葉が離れない。
『彼女が、 君に変えられてる』
自分は、 ただ話しただけだ。
少し距離が近づいて。
少し笑わせて。
それだけ。
なのに。
それが、 一ノ瀬紬という人間を 別物に変えている?
(……そんなわけ)
そこまで考えた時。
「朝倉」
教師の声。
「次、お前」
「あ……」
教科書を見ていなかった。
教室の空気が少し笑う。
湊は立ち上がり、 適当に文章を読む。
その時。
前の席の一ノ瀬が、 小さく振り返った。
そして。
机の上に、 そっとシャーペンを置いた。
教科書のページ番号を書いた付箋付きで。
誰にも見えないくらい、 自然に。
胸が詰まる。
こんなこと、 前の一ノ瀬はしていただろうか。
昼休み。
屋上前の階段。
一ノ瀬は自販機のカフェオレを持ちながら、 壁に寄りかかっていた。
「ここ、 静かで好きなんだよね」
湊は隣に座る。
少しだけ距離が近い。
でも嫌じゃない。
「朝倉くんってさ」
「なに」
「最近、 ちゃんと笑うようになったよね」
その言葉に、 湊は目を瞬かせた。
「……そう?」
「うん」
一ノ瀬は缶を見つめながら続ける。
「前まで、 なんかずっと苦しそうだった」
「今も苦しいけど」
「ふふ」
彼女が笑う。
自然な笑い方。
その瞬間。
湊のスマホが震えた。
心臓が嫌な跳ね方をする。
empty。
『その時間、 前は存在しない』
喉が乾く。
『君は、 彼女の逃げ場所になり始めてる』
画面を見た瞬間。
「……また?」
一ノ瀬が、 湊のスマホを覗き込もうとする。
反射的に、 湊は画面を伏せた。
「っ……」
一ノ瀬の表情が、 少しだけ止まる。
「あ、ごめん」
「いや……」
気まずい沈黙。
やってしまった。
隠されたら、 傷つくに決まってる。
「……別に、 見ないよ」
一ノ瀬は笑った。
でも。
その笑顔は、 少しだけ作られていた。
昨日まで消えかけていた、 “学校の笑顔”。
湊は胸の奥が痛くなる。
帰宅後。
湊はベッドに倒れ込み、 emptyを開いた。
『お前、 何がしたいんだよ』
送信。
既読。
『君に、 後悔してほしくない』
『前の君みたいに』
指先が止まる。
『前の俺?』
既読。
しばらく間が空く。
そして。
『彼女が死んだ日のこと、 まだ思い出せない?』
世界が、 止まった気がした。




