今の自分にぴったりなカチャトーラ
「おー・・・そろそろか?」
鉄板替わりの金属板の上、黒っぽい中に赤い星型のキノコが浮かぶ。
黒玉トマトは男の木べらによって、豪快につぶされ、そのまるっとした形をくずしていた。
それでも、まだ口いっぱいにほうばるほどの大きさ。
「あんまり細かくしても、食いごたえがねーよな」
ウサギ肉が控えている。
一緒に煮込んで水分を飛ばすことを考えても、ほどほどにしておきたい。
「じゃー、ウサギ肉登場っ・・・・っと」
肉汁を無駄にしないよう、さいの目切りの新玉アチョーの上で休ませていた肉を投入。
甘い極上トマトにスターなキノコの旨味、ニンニクなアガーが染み込むこの中で。
ウサギの赤身肉はどんな変身をとげるだろう。
こちらに来て、初めて食べた肉。
臭みもとれず、塩もなく、もちろんタレもないまま、ただただ巨大なこん棒のように焼き上げた肉バームを思い出す。
渾身の焼きこそを入れたものの、あんなものを料理と呼んではいけない。
ただ焼いただけ。
それでもあの時、旨いと思ってしまった。
空腹はヒトを狂わせる。
あの日。
肉に食らいついたあの時。
男が最も恥ずべき、バカ舌の持ち主だった。
料理人でいられるか、どうか。
ギリギリ。
あのままだったならば、職を辞する覚悟をしなければならなかった。
男は絶対に、料理人であろうとする努力を怠ることはない。
どこにいたって、何があったって。
一流の料理人になる。
病室の母親が男の手料理を食べてくれた時に、そう決めたのだ。
少しでも旨いモノを作りたいと、念じるように作る料理。
中学生の少年が、小学生の妹と共に作る拙いモノ。
病人食すら食べるのが難しくなった母親が、茹で加減最高!と卵を齧って笑顔になった。
嬉しかった。
文字通り、最後の晩餐と覚悟する日々。
だが家族だけがそろう病室に、暗さはなかった。
はしゃぐ妹。時おり、不器用な笑顔を見せる父親。
家族の笑顔があふれ、楽しい時間。
焦げたモノだって不思議と。
味のないお粥だって。
何を食べても旨いと感じた。
一流の料理人になりたい。
中学に上がったばかりの少年は、早くも自らの進む道を心に決めた。
歩んだ道は、決めた通りの一直線。
そうして今の男が出来上がった。
重い。
右を向いて左を向いたら料理以外の事は忘れがちなトリ頭で、のーてんきな料理バカだが。
意外と重い男だった。
それでもバカ舌のままだったならば。
そんな重い夢だって、あきらめざるを得なかっただろう。
「・・・・・・・・・」
黒いトマトの海で泳ぐ、ウサギの赤身肉を見つめる。
火が入ると、日本で買える砂肝よりは、ワントーン明るいように感じた。
男はじっくりと木べらを使い、なじませていく。
水分の多いトマトの海だ。
全体的に黒いのに、色鮮やかに感じる。
黒玉トマトは、黒分類と言えどもトマトの中での色分類。
その海は、イカ墨のような真っ黒ではない。
そんなにべたっとした色でもない。
全体的に若干透き通り、黒っぽく、それでも赤のような紫のような、何とも表現し難い色。
少なくとも、嫌な色ではなかった。
金属板を舞台に奏でられる音はやがて、ジュー音からぐつぐつと煮込まれる音に変っていく。
弱火ではないからまあまあ響く音ながらも、どことなく穏やさを感じる音。
ニンニク一辺倒だった香りにも色がついた。
ちゃんといろんな具材が主張する、華やかな香り。
旨そうな匂い。
厨房では馴染みのある匂いが辺りに漂う。
「・・・・・・・・」
ウサキムチは食べたい欲が暴走した勢いで作ってしまったが。
こうやってちゃんと。
ちゃんと立派な名前のついたイタリア料理。
そんな料理を。
できている。
カチャトーラ。
ワインがないのは惜しいけれども、それでも限りなくオリジナルに近い材料。
トマトに塩にキノコ、そしてウサギ肉。
全てが最高の素材。
胡椒は要らないのがオリジナル。
イタリアで昔から作られてきた猟師料理なのだ。
胡椒が高級品で、これといった文明だって発達していなかったであろう時代の豪快猟師飯。
今の自分にぴったりだ。
「・・・・・いかんな」
泣いてしまいそうだ。
ここにきて、いろんな思いが男の胸を熱くする。
何たる不覚。
料理中に涙が出そうとか。
ダメだ、ダメダメ。
集中、集中。
ちょうど丁寧に混ぜ続けた金属板の上からは、イイ感じに水分が抜けてきている。
男は気持ちを切り替えた。
「じゃー、最後の特選素材だな」
まな板代わりのデカい板を手に取った。
結構な重量の板を片手で傾け、その上のさいの目切りの新玉アチョーを片手でそっとはらい、金属板の上に加えていく。
こぼさないよう、慎重に。
板を支える上腕二頭筋がプルプルし始める前に、板の上からアチョーがきれいになくなった。
急いで板を置き、木べらに持ちかえる。
飴色玉ねぎは通玉オチョーに担ってもらい、新玉アチョーはその食感も楽しみたい。
だからさくっと、でもしっかりとなじませていく。
同時並行で、同じ大きさの金属板を設置したお隣、なんちゃってコンロにガス火をつけた。
もちろんエアーな動作で自由自在。
ホットプレートよりも格段に大きい板の、端の方にはあまり熱が伝わらないよう工夫する。
皿代わりにするからだ。
全体を温めると、熱すぎて持てなくなる。
かと言って、皿を温める程度の温度ではせっかくの鉄板替わりの良さがなくなってしまう。
その点、エアーなガス火は想像通り、ドンピシャで決められるのが良かった。
ホントのガス火より、断然使い勝手がよい。
抜かりなく、皿代わりの金属板があったまってきた頃。
「よっしゃ、旨そうだ」
空腹、たまらん。
素晴らしい香りと音。
よだれが出そうとはこのことか。
男を虜にするであろう、渾身の一品が出来上がった。