トンデモトマトに泣くのはごめんだ
魔女の家3日目、夕刻。
そろそろ太陽が沈み始めているが、一番月はもう顔を出している。
つまり20時は過ぎており、日本の感覚で言えば晩。
店の厨房がとっくに戦場と化している頃だ。
「うっさきむ、うっさきむ~♪」
そんな時間に眦をつり上げる事もなく、のん気に歌いながら作業を続ける男。
ココは日本ではなかった。
男の料理を待つ者はいない。
誰に急かされる事もない男は、初日の畑の洗礼、トンデモトマトの味を思いだしつつ、手際よく仕込みを続ける。
まずは濃いオレンジと紫の混じった、大玉スイカのようにまん丸な葉物野菜。
洗って、ちぎって、ザルの上。
大盛になったザルが3つ出来上がる。
岩塩を削っておいた塩を振りかけ、ざっくりと混ぜておく。
「さぁって・・・真打登場と行くか」
そうして手に取ったのは、酸っぱいトンデモトマト。
イタイ思いをさせられた奴だ。
ちなみに『真打』のざっくりとした意味は、『最後に登場する、最高の実力者』。
まだ料理は始まったばかりで、トンデモトマトは最高の実力と称賛できるほど旨くはない。
むしろ不味かった。
伝統を重んじる街で勤める男。
それでも真打という言葉の深い意味など知らなかった。
ただ、主役をカッコよく言い換えたのが真打という言葉。
店でパーティする客が、よくそう言ってゲストを迎え入れていたからだ。
だからそういう意味だと思っていた。。
残念ながら、きちんと意味を知らずにカッコをつける、おっさんのカッコ悪い典型だ。
カッコ良さに向けて、ほんのちょっとの欲を出したが故のカッコ悪さ。
知らず知らずのうちにハマる罠。
怖い。
男はそんな怖さに気付かず、手の中のトマトをじっと見た。
楕円形にボコボコとヘタの近くが盛り上がっている、濃く赤いトマトモドキ。
これがすっぱい。
甘さをごくごく控えた、出汁の効いていない寿司酢をゼリー状に固めたような果肉。
洗って、ウサギの角に突き刺して、直火であぶって分厚い皮をむく。
湯剥きをするのは面倒だ。
直火剥きに挑戦したが、エアーなガスバーナーはとても使いやすかった。
奇人変人びっくり人間万歳。
湯剥きが終わった酸っぱい果肉は、くし型5ミリ程度に薄くスライスする。
3つ使うことにした。
ただし、たった3個と言えども、元がかなり大きなトマトモドキ。
結構な量になった。
次にとりかかったのは、日本のスーパーではよく見かけるタイプの赤いトマト。
トマト分類的には、ピンク分類。
とりあえず10個、確保している。
「どんだけ使うかだよな・・・・・」
だってだって、とってもとっても、辛いんだもの。
なぜかオネエ言葉。
だがしかしまだ大丈夫、口には出ていない。
おっさんの罠にハマろうが、オネエ言葉を使おうが、誰もいないから大丈夫。
ただ、あなたらしく居れば良い。
カッコ悪くとも良い。
たくましく生きてゆけばいい。
誰かがいたら、ぜひそんなエールを贈ってあげて欲しい。
調子っぱずれな歌が続いていることも踏まえれば、男は人格崩壊の危機を迎えているのかもしれなかった。
この世界に来てから、明らかにキャラが違う。
日本ではないココにきて、男の中のイロイロが目覚めつつあるのかもしれない。
激辛トマトの丸かじりで受けたダメージが、まだまだ男に動揺を与えているのか。
後輩憧れの厨房戦士、寡黙に作業を続ける後姿。
皆が熱く見つめる、黙々と働く男のカッコいい背中。
今や大昔の話となりつつあった。
「とりあえず7つ・・・・・。いや6つ・・・・」
この激辛トマトは水分たっぷりだ。
寿司酢トマトと同じように直火で皮をむきつつ、あふれる水分は抜け目なく木の器にためていく。
「アッシェ・・・いや、コンカッセだな」
粗みじんにすることにした。
水分が無駄にあふれてしまうので、あまり小さくしたくはなかったが仕方ない。
これ以上、トンデモトマトに泣くのはごめんだ。
そんな決意が込められていた。
激辛がゴロっと入っていた日には、涙が止まらなくなるだろう。
もう泣かされるのはごめんだった。
ちなみにみじん切りをアッシェというのは、特にカッコをつけているわけではなかった。
単なる習慣だ。
男の店の日常では、イタリア語が飛び交っていた。
「雰囲気大事」はゲストを迎えるフロアだけの話ではない。
厨房でも調理の指示はイタリア語。
アッシェ(みじん切り)、コンカッセ(粗みじんに近いさいの目切り)、ジュリエンヌ(千切り)。
まずこれらの調理用語を覚えなければ、指示を受けて動くこともできなかった。
入店した新人はまず、イタリア語を猛烈に勉強する。
さらに英語もある程度勉強する。
英語を話すゲストも多いからだ。
高級店で働くには、料理以外の勉強がかなり必要だった。
・・・・料理人とは。
虚ろな目で空を見つめる新人が良くつぶやく一言だ。
男は嬉々として包丁をふるった。
愛用の包丁ケースは、その蓋を開かれ作業台の上にスタンバイしている。
どの包丁もすぐ手にとれるように準備万端。
薄暗くなってきた厨房内でも、出番を待つ包丁達はわずかな光を捉えて、鈍く光っていた。