将武その8「夕焼け虎徹の赤備え」
あおいベーカリー、店内。
今日は、開店記念日だと言うのに全く客が来ない。なんとも珍しい、暇な時間を千代子と竹康の母、葵 八千代は店内でひたすら客を待っている。
父の竹仁は、常連客にも電話をかけているようだが、誰も出やしない。
まあそんな日もあるさ、と竹仁はマイペースであった。そして八千代も……。
かち、こち。と…千代子と竹康が小学生の時に、一緒に工作した食パン型の時計は秒針が進むたびに規則的で、小さな音を立てる。
それは八千代に心地いい眠気を誘い、椅子に座ったまま…彼女はうたた寝をしてしまっていた。
夕方が一番いい時間なんだ。
足を伸ばして、のんびりするんだ。
いつだったろうか……竹仁と観た映画を、
『日の名残り』の言葉を思い出す。
そんな夕焼けが、あおいベーカリーの店内へ差し込む頃。からん、と静かに扉が開いた。
八千代と共に客を待っていたコムギは、うたた寝をする彼女から静かに離れ、家康を穿いたまま、ぴょこ、と飛び出た尻尾を嬉しそうに振っていた。
「わんっ!」
ふかふかな頭を撫でられて、コムギが元気よく吠えると八千代は目を覚ます。
「…!いらっしゃいませ……あら?変ね、気の所為かしら…どうしたの、コムギ?」
客などおらず、いるのは自分とコムギだけ。
コムギがあんパンの置いてある棚の前で、しっぽを振っているのを見ると…ふと、あるものに気付く。
あんパンがいくつか減っていて、レジにはその分の代金がピッタリちょうど、文鎮のように一緒に添えられた封筒をおさえるように、置かれていた。
封筒の中身は1枚の手紙。
それを見た八千代の笑顔は、店に差し込む夕日のように、穏やかであった。
今度は勢いよく、カランカラン!と取り付けたベルが鳴りながら扉が開く。
「お母さんっ!!」
「あら、おかえりなさ……って、千代子?なあに、そんなに慌てて…それにどうしたの?竹康の格好なんて…ふふ、びっくりしちゃったわ」
帰ってきたのは千代子だった。やけに慌てた様子。竹康の格好をした娘の姿を見て、八千代はくすくすと笑っていた。
きっと、自分を安心させたかった為の行動なのだろう。
何故そう思ったのかと言うと……
自分の両肩に乗った娘の手が、とても優しかったから。
「お母さん…ただいま。お店は?お父さんも大丈夫?」
「それがね、今日は誰も来ないのよ…開店記念日なのに。珍しいこともあるものね。ああ、でもね千代子……1人だけ、来てくれたの。」
そう言って、八千代は手に持った1枚の手紙を差し出す。千代子は半分に折りたたまれたそれを広げて、目を見開く。
"開店記念日おめでとう。
通りすがりのヒーローより"
手紙を持ったまま、千代子は外へ出た。
どこを振り返っても、家の周りを探しても…この手紙を書いただろう兄はどこにもいないが…それでも、兄と過ごしていた日々と同じ爽やかな風が千代子の髪を揺らした。
「うーん……むにゃむにゃ……」
夕焼け小焼け、もうすぐ夜になる。
しかし、戦いの火が燃ゆるのはまだまだこれから。
ブーメラン集団との戦いを終えた早雲は、東乱楠から少し離れた、お気に入りの河原のベンチでイビキをかいて眠っていた。
獲飛巣喰をピカピカに磨いてから眠ったのだろう、手にはタオルを握ったまま。
「どうだ、オレのほうが速いだろぉ……」
眠る時は止まるけれど、彼は夢の中で走っているようだ。
年中無休の運び屋のバイクに、かさりとビニールの袋がひとつ引っ掛けられた。
それは、あおいベーカリーの袋。
中身は、あんパンがひとつ。
袋の持ち主は、ゆっくりとその場を離れながら、手に持った袋からあんパンをひとつ取り出して頬張り…ゆっくりと飲み込んで、満足げに笑った。
「うん、我が家の味だ。」
若葉のような香りの風を感じながら、彼は夕焼けと共に立ち去った。
同刻、東乱楠高校……男子校舎裏。
井伊 虎徹の『赤備え』により洗脳された織田の部下達は突如その場に倒れた。
榊原 村正は将武を収め、森 永吉は鉄パイプで倒れた部下達を起こそうと突っついていく途中、スマートフォンに送られたメールを見ると、舌打ちをした。差出人は、彼と同じく織田の部下の1人、蜂須賀 転助。
「チッ…出所には間に合わなかったか。だが、さすがカシラだ。巣斗輪愚の将武使いをもう倒しちまった。」
永吉の言葉に、榊原は目を見開いた。
「ストリング…巣斗輪愚学園のこと!?そんな…だってアタシの将武は何も…!」
何も感じなかった。
将武使いの感知に優れた将武、榊原 康政は、全く反応しなかったというのに。
「あのお方の恐ろしさは、『将武』じゃあない。葵 竹康にそう伝えておけ解体屋、『せいぜい震えていろ。』とな。」
永吉はそう言い残し、背を向ける。肩に鉄パイプを担ぎ、起き上がった部下達を軽く小突きつつ去ろうとするが……
「待ちなさい。聞き捨てならないことがふたつあるわ。」
「……なんだよ。」
永吉が振り返り、榊原の方を向く。榊原は続けた。
「タケちゃんは、 あの子は逃げも怯えもしないわ。あの子は…この東乱楠に新しい風を吹かせる。そう織田に伝えなさい。」
「……そうかよ。で、2つ目はなんだ。」
永吉は、口元をつりあげて笑った。鬼武蔵の異名に相応しい余裕を見せた笑み。
そんな永吉をまっすぐ見つめながら、榊原は2つ目を口にする。
「そして2つ目。アタシがタケちゃんに振っているのはおケツじゃあないわ…」
そう、彼が奮い、振るうのは……
「この鼓帝架よッ!!」
雄々しく突き出した榊原 康政を夕焼けに照らし、自信満々に宣言する榊原。
……微妙な空気が夕風とともに流れる中、森 永吉はその場を離れた。
もうすぐ夜だ。
千代子は自室にて、着信穿歴を確認すると忠勝から2件、不在着信が残っていた。すぐさま彼にに電話をかけ、呼び出し中のコール音が2回、すぐに忠勝と繋がる。
「チヨ、大丈夫か…!?無事か…!!」
「こっちは大丈夫、お母さんもお父さんも…お店も無事だよ。」
心配そうな声、忠勝は千代子の言葉を聞くと、安堵のため息を電話越しに零した。
「よかった……こっちも無事だよ。婆ちゃんたちも何事も無かったって。」
千代子もまた、ほっとした様子で表情を緩めた。
千代子は、兄が来たことを言わねばと話を切り出そうとした。
「あのねカッちゃん、じつは……」
「千代子ー、ごめん。お母さん手が離せないから電話出てー!」
竹仁と共に片付けに追われる八千代の声が遮り、千代子はそれに応えると忠勝に『また連絡する』という旨を伝えて電話を切る。
受話器を手に取り耳に当てて、電話に出た。
「はい、あおいベーカリーです。」
その相手は……
「もしもし。僕、東乱楠高校1年の井伊 虎徹といいますが…そちらに葵 竹康さんはいますか?」
井伊 虎徹……!
彼は今朝出会った時と同じ、人当たりのよさそうな様子だった。受話器を持つ手に力が籠るのを抑え、声を荒らげかける。
だが、抑えなくては。
千代子は冷静に対応をせねばと、次の言葉を口にした。
「あ、はい。兄はいま部屋にいます。」
「兄?…ってことは妹さんか。葵さん、僕…君のお兄さんの、竹康先輩に今日すっごくお世話になっちゃって…お礼をしたくて電話したんだけど、今、電話かわれるかい?」
いい子ぶった口調に、胃から怒声が零れそうになる。だめだ。冷静に。冷静に……兄と自分が同一人物であることを悟られたら、それこそこの男の思うツボだ……。
「そうなんだ。いまお兄ちゃんに変わるから、ちょっと待っててね。」
受話器を手にしたまま、手をぶらりと下ろす。
目を閉じて、深呼吸。電話から聞き取られないように、静かに……
ふつふつと怒りがこみあげてきた。あれだけのことをしておいて、よくもそんな調子で電話をかけてくるとは。
怒りだけではない。
今回は、偶然兄が帰ってきて、早雲と共に助けてくれたから大事には至らなかった。
だが、自分が将武を持っていたら…もっと結果は変わっていただろう。家康の言葉が、胸に深く刺さった。
自分の不用心が、自分の危機感の無さが、この窮地を招いた要因だ。
もし早雲が来なかったら?兄が帰ってきていなかったら……
大切なものを、踏みにじられてしまったかもしれない。
「……オレだ。」
電話を続ける。
竹康としての自分の声は、自然といつもより低かった。
「あはッ、双子だってことは知ってたけど声もそっくりだね?妹さんがまた出たのかと思ったよ。その様子だと…切り抜けられたようだね?」
「……」
「タケ兄ぃが酒井といなくなってからシラケちゃってさぁ、結局あの後『赤備え』を解いて、帰ったんだよ。にしても、三河先輩が僕に向かって怒鳴ってきたときは凄かったなぁ。『逃げるんじゃねぇ!井伊ッ!!』ってさ。何も出来ないのに逃げるな、だってさ。おかしいよねぇ。」
表ではいい子ぶって、裏でコソコソと……
榊原が想像した通りの男だ。
「上手くいってたら妹さんを人質にしたかったんだけどね。妹さんも強いなんて思わなかったからさ。」
こいつは、この男は……!!
私は……ッ!!!
「井伊 虎徹…!!お前は、オレの…オレ達の触れてはいけないモノに触れようとしたッ…!!」
今すぐにでも、この男を止めなければならない。井伊 虎徹以上の将武使いは、この先必ず、確実に現れる。
このまま彼の影に怯えながらコソコソとするなど、葵 千代子自身が許さない……!!
電話越しの虎徹の声は、なおも余裕に言葉を連ねる。
「そんなに勝負がしたいなら、ウチにおいでよ。…まったくヤンキーってやつはすぐにそうやって暴力に頼ろうとする。古いんだよやり方が。タケ兄ぃ……僕を倒すことなんか不可能なんだから。あの時言ったように、僕を殴ったことが世間にバレれば…わかってるよね?」
じゃあ待ってるよ。と、住所を伝えて虎徹は電話を切った。規則的な電子音が、静かに切られる。
「わぅ?」
コムギが、家康をくわえて隣にいる。洗われたばかりの家康は、何も言葉を話さない。
「……家康さん。」
言葉は足らずとも、家康は理解していた。
戦うのだ。大切なものを守る為に。
『うむ、いざ行こうぞ。パンツは後ろでは穿かぬゆえに。我らが見据えるは前のみよ。』
シャワーを浴びる。最高の気分で、体を洗う。
温度も、気分も、泡立ちも最高。
大嫌いな夕方の、唯一好きな時間。
今度こそ屈服する姿を拝むとしよう。
蛇口をひねって湯を止める。将武・井伊 直政のみを穿いた虎徹は、プール付きのルーフバルコニーに出る。
今度こそ、膝を折って跪く姿を。
将武のみを纏って、タオルを首にかけただけの虎徹は、風に当たりながら濡れて頬に張り付いた髪をかきあげる。
拝むとしよう。泣いて許しを乞いながら床に額を擦り付ける姿を……
そして自分の気の向くままに動く最強の駒となるのだ。
早く来い。はやく、はやくはやく。
早く、来い。
「楽しみだよ、タケ兄ぃ。」
井伊家に着くと、既に虎徹が待ち構えていた。
「来てくれて嬉しいよ、タケ兄ぃ。」
「……」
虎徹を見る千代子の目は、確りと彼を睨み付けていた。
そんな目を、虎徹は鼻で笑いながら屋敷の中へと招き入れる。
「入りなよ。どうせ誰も邪魔しないし。」
屋敷の中は、ライトも明るいはずなのに重く、暗く感じた。
喉の奥に何かが詰まっているような錯覚。
まるで、強く怒られ、詰られた後のような心の重圧。
『ここの家に住まう者達の気がそうしているのだろう。家の空気は人の気で心地が変わるものぞ。』
家康は将武の力ではないことを千代子に告げる。
案内された部屋の前には、彼の母親が立っていた。
「こ、虎徹…言われた通りのものは部屋に用意はしたから」
「わざわざありがとう、母さん。聞き耳立てたり、様子見とかで部屋を覗いたりしたら…わかってるよね。兄さんたちにもちゃんと釘さしてよね。」
「わ、わかってる……わかってるわ。虎徹。それじゃ、お母さんも戻るから…」
早々と立ち去る虎徹の母。千代子からしてみれば、実に不審な動きだ。
親が子供を恐れるなど…親とは喧嘩すらしたことがない千代子にとって不思議で仕方が無い。
したとしても父とあんパンに乗ったゴマが白か黒かでヒートアップした程度。
部屋に案内されれば、そこには椅子が2つとテーブル。
虎徹は密かにほくそ笑んだ。
井伊 虎徹の最良のフィールドで、勝負をつけることができるからだ。
部屋の至る所に用意させた隠しカメラ。1発でも殴ってしまえば、それで千代子は終わる。
いざ尋常に?ちがう。彼は戦う気なんてない。葵 竹康を屈服させるために呼んだのだから。
「虎徹。お前の思い通りにはいかない。なぜなら、オレはお前に何もしないで、お前に勝つからだ。」
「はぁ?……ハハッ、なぁにを言い出すかと思えば…戦わずして勝つ?ま……やれるもんなら見せて欲しいけどね。」
千代子の言葉にも余裕の態度を見せながら、虎徹は次々にボードゲームを出してきた。レトロなものから、最近のものまで。
「まあ座ってよ。何がしたい?オセロはベタかなぁ。人生ゲーム…トランプもある。レッドアウトってカードゲーム知ってる?5枚のカードで強さを競うゲームだ、あれも面白い…あぁ、その前に飲み物が必要だよね。持ってこさせるよ。」
手を2回叩く虎徹。するとドアが開かれ、この家の使用人の女性が現れた。手に持ったトレイには、アイスティーがふたつ。
俯く使用人は、まるで虎徹を見ないようにしているようだった。テーブルにグラスを置こうとする手が震えている。アイスティーに浮かぶ氷がカタカタと音を立てていた。
そそくさと出ていく使用人。
虎徹と目を合わせずに、彼女は去ってしまう。
虎徹に怯えている……
先程の母親の様子もそうだ。虎徹に従順に従いはしても、その表情は恐れを含んでいた。
「さ、なにをする?タケ兄ぃ。なんならテレビゲームでも……」
「こういうのはどうだ、オレはお前を見つめ続ける。お前もオレを見続けて、先に目を逸らした方が負け、というのは。」
虎徹は呆気に取られた様子で片眉を上げた。
「そんな簡単なことでいいの?まぁいいけど。」
見つめ続けるだけ……。
これは虎徹の『赤備え』を最も発動しやすい条件でもある。
他者の意思に介入して、意のままに操る将武。
ゲームなどの小細工を用いることの無いシンプルな心理戦。ただの睨み合い。
怒りという単純思考でここへ来たであろう千代子に対しダイレクトに将武の力をぶつけることが出来る。
二人は椅子に座り、向き合う。テーブルに置かれたアイスティーは一口も飲むことはなく…
将武……開始。
某所、井伊家付近のビル。
屋上にて、金色のメッシュが揺らめく。
若葉色の瞳で見下ろす彼は、井伊家で戦いを繰り広げる"妹"の事を案じていた。
「…家康さん、千代子のこと頼んだぜ。」
葵 竹康。千代子の実の兄である彼は、妹に託した相棒へと言葉をかけた。
届かぬ言葉は、強く吹いたビル風にかき消されることなく彼の鼓膜に残る。
後方からの足音を聞いて振り向き、竹康は足音の主へと話しかけた。
「おう、遅かったな。」
「遅かったな。じゃあないよ…井伊 虎徹が去ってから三河くんと『赤備え』で洗脳された人たちを介抱してたっていうのに…君はこんな所で呑気に……」
かさり、と竹康は『彼』へと袋を投げ渡す。
おっと、と言葉を漏らしながら受け取った袋の中身はあんパンだ。
「悪い。その事も…今回の騒動を教えてくれたことも、ホントに感謝している。……ありがとよ、"明良"。それ食って機嫌直せ、うまいぞー。」
土御門 明良は、竹康への礼を聞いて袋の中のあんパンを見つめる。その表情は、どこか思い詰めたものであった。
「いいのかい?」
「ん?心配しなくてもあいつの分もお土産に……」
「そうじゃなくて。…今回の件、我々が出て、直接彼を…井伊 虎徹を倒したほうが良かったんじゃないか?」
いまの井伊 虎徹は…言わば爆発寸前の爆弾だ。
彼の至る所で見られる精神の不安定さ、そして力のない者への将武の乱用による慢心……明良は、そんな虎徹を危険視していた。
「あれでは、アゲパンの境地に辿り着く見込みはない。もし仮に出来たとしても……その先に待つのは将武の暴走だ。妹さんの仲間に引き入れられたとして、上手くいくかどうか……」
「上手くいくさ、俺の妹だからな。千代子なら俺たちよりもいい方向に、あいつを引っ張ってくれるはずだ。大切なモノを守るために。」
これは確信だ、と竹康は笑った。そんな竹康に対し、明良は苦笑する。
「君ならそう答えるとわかっていた。だが…念の為の警告だよ。…大切なものを、取り戻すために。」
腕時計を見れば、明良はため息をつく。
門限をだいぶ過ぎてしまった。
「あいつならうまくやってくれるさ。でも、バレないように行かないと。」
「あちらもだいぶ忙しいことになってる。悟られないようにしなければ。」
と言って、明良はあんパンをかじった。
「……美味いな。」
「だろ、美味いよな。」
「だが私は、こしあんがいい。」
凍りつく二人の間の空気。竹康は、ポキリと拳を鳴らした。
「屋上行こうぜ……久しぶりに…キレちまったよ。」
そんな竹康に対して、明良は嘆息しながら言葉を返す。
「ここ、屋上だよ。」
時計の長針が一周しても、千代子と虎徹の戦いは続いた。
時間の感覚が、酷く長く感じる。
五分ほど経過したかと思えば、三分とも経っていない。互いに見つめ続けるだけの、勝負。
将武の力を互いに使った状態の為、室内は将気同士がぶつかり、混ざりあっていた。
室内温度は26度。アイスティーに浮かんだ氷は、小さくなってきた。
千代子の思考は、真綿で首を絞められるかのように井伊 直政の『赤備え』によって侵食され始めていた。
集中しろ。今、自分が戦っているのはブーメラン…否、井伊 虎徹。
守るべきものはブーメラン……ではなく、家族と友人たち。自分がすべきことは…ブーメラン、ちがう。井伊 虎徹に勝ち、彼を止めること。
ブラウザクラッシュならぬ、ブレインクラッシュとも言える将武・井伊 直政の『赤備え』の将気に対して、将武・徳川 家康の黄金の将気が混ざり、夕焼けのような色へと変わる。
"嗚呼、大嫌いな夕焼けの色だ――。"
虎徹は、内心で愚痴りながら千代子を見つめ続ける。集中しろ、集中するのだ。
暑さで、虎徹は汗を拭った。こうして見つめ合う状態が始まってから、虎徹が汗を拭ったのは二度目。服の袖は、多量の汗で湿っていた。
明らかにおかしい。室温はさほど高くは無いはず。千代子が言い渡したルールによって目を逸らしたら負け故に、温度計を見ることが出来ない。
顎先から落ちた汗が、将武のみを穿いた虎徹の太ももに直に落ちた。何故だ。汗までもが、まるで熱湯がはねた時のように熱い。
2人には見えてはいないが、室内温度計は異常な数値を出していた。38.6度。さらに温度は上がり、42度……43、43.8度……
千代子の将武による攻撃は、とっくに始まっていた。将気を放出し続け、その熱により対象の水分をことごとく蒸発させていく技のひとつ。
日 炉 死 輝 ッ!!
炎天下のど真ん中に放り出されたかのようだ。温度計は、どんどん数値を上げていく。
虎徹の呼吸が怪しくなってきた。3度目、汗を拭おうとしたが…一滴も汗が、流れてすらいない。熱い。熱い。熱い。アイスティーがグラスの中でぼこぼこと沸騰しているのが視界の端で見えた。
意識が、朦朧としてきたが『赤備え』を解く気配はない。
ここまで粘るとは、と千代子も驚いていた。
将気同士のぶつかり合いにより、千代子もまた変化が現れていた。
時折脳裏に浮かぶ映像。虎徹の母と、父。そして兄だろうか。これは…過去?
『将武同士で稀に起こる現象だ。千代子、ここからが正念場ぞ。』
見るべきだろう、この男を知る機会だ。
千代子は、虎徹の過去を視ることにした。
――。
夕方がいちばん大嫌いな時間だ。
足を伸ばしてのんびりと、なんかできない。
井伊 虎徹は、夕方を嫌っていた。
夕方は、自分の上にいる二人の兄と比べられる時間だからだ。
なぜお兄ちゃん達のように上手くできないの?
なぜお兄ちゃん達のように明るく振舞えないの?
なぜお兄ちゃん達のようにもっといい成績が取れないの?
なぜお兄ちゃん達のように、なぜ、なぜ。
なぜお兄ちゃん達のようないい子になれないの?
虎徹と違って運動神経がいいな。
虎徹はこの教科は上手くいかなかったんだが、流石だな。
虎徹はなぜ兄であるお前達と違い、ひねくれているんだ。
虎徹、いい子だから手間をかけさせるなよ。
末っ子である虎徹は、学校から帰る度に親からそうした比較対象にされることで、兄達の引き立て役となっていた。
勿論、努力はし続けた。勉強だって、運動だって、見返してやりたい一心で。親との会話も少なくなっても気にせず、二人よりもいい成績を残そうとした。
そうしたら今度は……
お兄ちゃん達とちがって何を考えてるのかわからない子ね。
虎徹は、兄さんたちが嫌いなのか?
帰りも遅いし、一体どこで何をしているんだ。
勉強だと言っても両親は褒めてくれなかった。
お兄ちゃん達はそんな事しなくてもあれほどの成績が取れたのよ、そんなに努力がいることなの?
うんざりだった。兄たちと違うのは当たり前なのに。
なぜ自分ばかり。
下に見るなよ。見下すな、そんな目で見るな。
ある時、虎徹の中で何かが切れた。
些細なことで長兄と喧嘩になり、虎徹は兄を一度だけ殴ったのだ。
当然、両親は怒った。怒って、自分を二回叩いた。
なぜお前を殴ったか分かるか、兄を殴ったからだ。お前を殴った父さんの手も痛いんだぞ。
どうしてあなたはお兄ちゃんと違って乱暴に育ってしまったのよ。
どうして自分ばかりこうなんだ。努力したのに。努力し続けたのに。
なぜ自分を見てくれない?
なぜ、頑張っている自分を見てくれない?
どうして、どうして?
どうしたら、自分を認めてくれる?
罰として閉じ込められた物置部屋。
そこで生前は自分に味方してくれていた祖父の遺品が入ったスーツケースから将武・井伊 直政を見つけたのは、必然だったのであろう。
将武を身につけてから、虎徹の復讐が始まった。
『赤備え』により、兄たちを洗脳することでテストを赤点続きにさせることから始まり、今度は学年を代表する体育大会で長兄を反則続きにして失格させた。
両親に怒られる兄たちを見ていると、気分がスカッとした。
やがて復讐は両親も対象となった。『赤備え』で秘密を自分に教えさせ、証拠までも持った上で洗脳を解き、脅しの道具とした。
父の会社資金の私的利用、気に入らない社員の不当解雇。使用人に金を渡し、不貞を働いたことも。
母の浮気、父への悪口…。
長兄、次兄は学校で行ってきた下級生へのいじめを。
全部、全部暴いて、突きつけて、脅した。
いつでも社会的に潰せるという事実を叩きつけると、あとは簡単。
弱みを握り尽くしたら、みんな優しくなった。
成績を見て褒めてくれた。貸したものも返してくれたし、比較することも無くなった。
けれど、誰も虎徹と目を合わせなかった。
進路のことを相談しようとしても。
虎徹、お前の好きな所でいい。学費はいくらでも出すから。
テストでいい点をとっても。
虎徹なら簡単よね、すごいと思うわ。
こっちを見てよ。ねえ、兄さん。
なんでもあげるから、許してくれよ虎徹。
こっちを見てよ。どうして目を合わせてくれないの?
僕を認めてくれたのなら、ちゃんと心から褒めてくれよ。接してくれよ。兄さん達とは違うんだ。望み通りのいい子になれたんだぞ。
君たちが望む『いい子』を徹してきて、その結果がこれか。
あんまりだ。あんまりじゃあないか。
だれか。
僕を見てくれよ。
誰かが望むいい子になっても誰も見てくれなくて。
一体僕は、どこへ行けば、みんなが認めてくれるいい子になれるんだよ。
――。
ドサリ。と、熱気の充満する部屋で、虎徹は倒れた。
体内の水分を、千代子と家康による技、日炉死輝の影響でほとんど失ったのだ。所謂、熱中症の症状である。
日炉死輝を解除すると、千代子はからりと窓を開けて冷たい夜風を部屋に入れた。
虎徹の過去を視て、視た上で勝利を得た千代子。
『千代子よ、此奴をどうするのだ。』
彼には、心から本気でぶつかり合える仲間が必要だ。
これからも東乱楠で兄として、自分の意思で戦う為にも、彼は必要な存在である。
千代子は部屋の冷房の電源を入れながら、忠勝に電話をかけた。
「もしもし、カッちゃん?おわったよ。…お願いがあるんだけど、いいかな?」
…。
……。
心地良い風と、バイクの音で虎徹は目を覚ました。落ちないように誰かの上着で運転手である男の背中に固定されている。
気だるげに顔だけを上げると、彼は虎徹が目を覚ましたことに気づいたようだ。
「おっ!目ェ覚めたか。良かったァ。」
酒井 早雲。何故この男が自分を背負って走っているのだろうか。尋ねる前に早雲が先にこう言った。
「タケさんに呼ばれてお前を運んでくれって言われてよォ。来てみればお前がカッピカピでさ、聞いたら熱中症だって言うんで運びに来たんだ。とりあえずこれ飲んどけよ。」
後ろ手に早雲はペットボトルに入ったスポーツドリンクを差し出す。それを虎徹は受け取り、一口だけ飲んだ。
そう、自分は敗北したのだ。
けれども、悔しくはない。なぜか、悔しさは感じず、どこか清々しかった。それに……
「……あんなに見つめられたのは、初めてだ。」
水分を得た虎徹の喉は、それでも掠れていた。
そんな言葉を聞いた早雲は、どこか嬉しそうににんまりと笑って、東乱楠高校の校門を潜った。
「酒井…なんで学校に?」
「なァんだ、お前タケさんのこと知ってるのに、あの人のこと知らないのか?東乱楠にはそのへんの医者よりもすげぇ腕のいい人が保健医やってるんだぜ。」
あれだけの事をしたのに、医者に診せてくれるとは。
虎徹は竹康に感謝とともに、驚きもした。もう、彼に楯突くことはないだろう。穏やかな表情の虎徹は、同時にこんなことも考えた。
いくら腕のいい医者とはいえ、所詮は不良の蔓延る高校の教師の一人。どうせ程度など、たかがしれている……。
と、そう思っていた時期が、虎徹にもあった。
「こんな夜遅くにすんません、直江先生。」
「いいのよ〜三河くん。熱中症だって聞いて私も心配だったから。それに、東乱楠の生徒の助けになるのが私の仕事だもの!」
キュピ、キュピ。と歩く度に履いているスニーカーからはありえない音。いや、これは靴音か?むしろそのパンパンに張った太ももの筋肉ではないだろうか。三河 忠勝と話す白衣の女性は、分厚い胸板をドシィ!!と拳で叩いて胸を張った。
彼女は、女と言うには、あまりにも大きすぎた……大きく、逞しく、重く…そして慈愛に満ちた巨塔であった。
「1年だから知らねぇんだっけか?直江 アントニーナ先生な!昔はロシアでプロレスラーやってたんだぜ。」
早雲が虎徹をベッドに座らせながら、彼女の説明をする。日炉死輝によって火照った身体は一気に冷め切って、青ざめた。
冷めて、怯え切った虎徹は冷静に…とにかく冷静にと平静を取り戻そうとする。
そうだ、落ち着け虎徹。自分には将武があるではないか。所詮は筋肉ダルマの教師。『赤備え』ならば………………
と、考えた虎徹の顔は一気に紅潮する。
「な、な、な……無い……っ!?」
そう、ズボンは穿いていたが、将武を穿いていなかった。何故。誰が脱がしたのだ。自分では脱いでない。脱いでなど……ならばどこへ……!?
「探し物はコレかしらぁ?イイコちゃん♡」
紫の反り立つ棒にぶらりとぶら下がったブーメランパンツ。
井伊 直政が、榊原の鼓帝架…将武・榊原 康政に垂れ下がっていた。屈辱的に歪む虎徹の顔を満足げに見た榊原は、虎徹の手が届かぬように鼓帝架を伸ばして保健室のドアを開く。
「返して欲しけりゃ、明日タケちゃんの前で土下座して忠誠を誓いなさい!もちろん…フル〇ンで、ね♡
キャー言っちゃったァ!バラ恥ずかしいーーーっ!!」
凍りつく虎徹と、そして女走りでその場を去る榊原。廊下に響き渡る解体屋の羞恥の悲鳴。
それに続く早雲。榊原の後ろに続いて楽しそうにブンブンと腕を振りながら、アントニーナに挨拶をする。
「アントニーナ先生ェーッ!さよならーッ!」
「気をつけてねぇ。酒井くん、もう無断欠席はダメよー?」
「はーいッ!!」
そして虎徹に向き直るアントニーナ。
もうダメだ、おしまいだァ…逃げるんだ…勝てるわけがない…
本能は危険を伝えているのに、日炉死輝で消耗し切った虎徹には為す術もない。そんな虎徹に、忠勝が声をかけた。
「直江先生の治療は完璧だがな、死ぬほど痛いから覚悟しておけ。それからタケからの伝言だ。『東乱楠の教師も、捨てたもんじゃない。』ってよ。それじゃ、また明日な。虎徹。」
忠勝はアントニーナにあとは頼みますと伝え、自分も廊下に出た。
嗚呼、ふたりきり。アントニーナは突如として巨大な丸い固まりをドスンと置いた。それは氷が入った、大きな袋……何をする気なのか。
「おまたせ、井伊くん♪先生特製の"一人用の氷嚢"よ、さぁ!入って♪」
「はっ、入る!?」
「阿威神虞よ!大丈夫、この中に入っても冷えすぎることはないわ。先生が持ち上げて袋の上から抹殺阿慈してあげるから♪」
僕の知ってる氷嚢じゃない……!!
虎徹は座らされたベッドから立ち上がり、逃げようとするがその巨木のような逞しい手によって捕えられてしまう。
そしてゴツゴツとした氷の入った氷嚢へと入れられながら、自分が言った言葉を思い出す……
『僕がこの学校にいる限り、調子に乗っている不良たちの好きにはさせません。』
そう……彼もまた、東乱楠の生徒故に。
洗礼という名のブーメランをその身に受けることになったのだ。
「ほらほら、暴れちゃ打滅よッ。いい子だからね〜♪」
持ち上がる氷嚢。巨塔、アントニーナによる抹殺阿慈が今ここに……
「ぎゃぁぁああああーーーっ!!!!! 」
井伊 虎徹……敗北!!
同刻、巣斗輪愚学園。
グラウンドに倒れ伏した不良達。
木を囲うように作られた円形ベンチに座る赤髪の男。顔の右半分、そして襟を立てた消炭色のブルゾンから覗く首筋の火傷跡。首の火傷を覆う包帯。
右手に握られた黒の将武パンツ。
その男の前に、静かに近付く朱色の髪の男。
鉄パイプを肩に担いでいる。森 永吉だ。
「遅いぞ、森ッ!」
火傷顔の男の隣にいた褐色の肌の痩せた男、
蜂須賀 転助は、永吉に対してさらに言葉を続ける。
「まったく、われらがカシラの出所の日であるというのに…やはり織田 忠光の片腕に相応しいのはこのワガハイ…オイ、聞けよッ!」
永吉へと食い気味に迫る転助に対し、永吉は射抜くような視線を向けた。
殺気の込められたその眼に、転助は萎縮して永吉から離れる。
「遅れてしまい、申し訳ございません。カシラ。」
「……」
鉄パイプを地面に突き立て、傅く永吉。
織田 忠光は静かに立ち上がる。
「もうこの学園には用はない。明日から東乱楠に行く。」
夜風が赤髪を揺らす様は炎のようであった。
永吉も立ち上がり、忠光へと続く。
「森、お前には次の仕事がある。カシラの片腕であるワガハイが代わりに伝えよう。今度はカシラが言ってると思ってちゃんと聞けよ。」
「……さっさと言え、蜂須賀。」
自称、片腕と名乗る転助は永吉の態度に舌打ちをしつつ、こう言葉をかけた。
「"轢ッ殺し"を呼び戻せ。」
次回も尋常に……将武!!
直江 アントニーナ先生
彼女はお料理、お裁縫、お菓子作りも大得意な
女子力と慈愛に満ち溢れた保健医です。
身長は206センチ、体重は…(ここだけイチゴジャムが零れてて読めない)
東乱楠の生徒達が喧嘩する意志を見せる限り彼女は生徒達を治療し尽くすだけです。
プロレスラー時代、必殺のラリアットは今も健在!東乱楠の白い巨塔と呼ばれた伝説の超保健医なのです。