049. 文明は偉大です
アエラウェが好んで身に付ける衣装は白が多く、釦が多く使われている意匠が多い。その全ての服は月繭虫の繭糸で織られていて、美しい光沢でトロリとした肌触りも良く、少しでも粗末に扱えばすぐに痛んでしまう繊細な生地で出来ていた。
今日着ている服も同様で、アエラウェは着替えの為に左胸から右腰に向かって斜めに付けられた釦を、その細く長い指でひとつひとつ丁寧に外していく。
鏡に映し出されたその姿はどこまでも美しく、敬虔な者が見れば、神聖な象徴を汚してしまうような罪悪感に苛まれる事だろう。あのアエラウェに心酔しきっていた騎士が見れば、精神的にも物理的にも昇天してしまいそうだ。
だが、もう少しで全ての釦が外し終わると言う所で、異常を察知したアエラウェの指が止まった。
「……マリーちゃん? どうかした?」
隣の試着室から、何かが動く音がした。
アエラウェが隣の試着室に話し掛けてみるが、マリールの返事は無い。それどころか衣擦れの音も僅かなりともしないのだ。
しんとした隣の試着室を変に思い、アエラウェが慌てて隣の様子を見ようと鏡に背を向けた瞬間――
床が音を立てて抜け、アエラウェまでもが罠に落ちてしまった。
アエラウェは咄嗟に魔法で出した風を纏い、落下速度を抑えた。このまま風で己の身体を押し上げようと落ちた穴を見上げれば、その光が漏れる入り口は、ギギギと音を立てて細くなっていく。
穴が閉ざさされ、完全な暗闇の中をアエラウェは落下する。この状況で、風魔法と光魔法を同時に使うのは難しそうだ。ならば今はこのどこまで下に続くのかわからない穴を、ゆっくりと落ちるしかない。
アエラウェは身の回りに危険が無いかを警戒する為に、瞼を閉じて、長く先の尖った耳に意識を集中させた。
どれだけ落ちたのだろうか。やたらとぶよぶよと動く足場の悪い地面に着地したアエラウェは、風魔法を解除して、指先に光の玉を出現させた。辺りを照らして確認すれば、足場が悪いと思った地面は半透明の塊で、大水母の死骸のようだった。
大水母は毒も無く、死骸は時間と共に水分が抜けて萎んでいくが、丸一日は変化無く、その姿を保っていられる。落とし穴に落とした者を生かす為に、わざわざご丁寧に、この穴の底に運び込んでいるのだろう。
「……舐めた真似、してくれるじゃないの」
今まで消えた子供や女性の多くは、モルガの店で攫われていたのだ。花の蜜を吸いに来る蝶のように、あの綺麗な飾り窓で惹き寄せて。
アエラウェはまんまと罠に嵌ってしまった屈辱の熱と、モルガに対する冷えた怒りが己の中で渦巻いていくのを感じ取り、殺気として外へと放った。すると足元からみるみると霜が広がり、次第に大水母の死骸はピキリと軋む音を立てて凍りついていく。
「あらやだ、私ったら! 氷魔法使えちゃってるじゃないのぉ!」
アエラウェは頬に手を添えて、己の溢れる才能に恐れ入る。マリールの殺気を出せば冷えるからという言葉は、あながち間違いではなかったようだ。
「――さて、と。マリーちゃんを探さないとね」
アエラウェが光の玉を前方へ投げれば、その光はいくつにも分裂し、アエラウェの行く先を街灯のように照らしてくれる。
売るために攫っているのなら、獲物を回収する為の入り口がある筈だ。アエラウェは出入り口を探し、ゆったりとした歩みで穴の奥へと進んで行った。
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「……困ったなぁ。何も見えない」
アエラウェが動き出した暫く後、マリールはウォーターベッドのようなものの上で目が覚めた。動く度にぽよぽよと形を変えるそのベッドのお陰で、赤子並みの生命力しかないマリールの身体は奇跡的に無事だったのだろう。
安定の悪いベッドの上を、マリールは手探りで探る。
「――あった! 良かった~……」
マリールと一緒に落下したのは、着替えの時に足元へ置いていた、元々着ていた服とポシェット型の拡張鞄だ。中にはマリールの背負い鞄も入れられている。
着ていた服も鞄に回収し、斜めに肩にかけると、ぽよぽよと動く足場に苦戦しながらも、なんとか固い床にべしゃりと滑り落ちた。
「~ったぁ……。アエラウェさんみたいに光魔法でも使えればなぁ……。って、そうだ! アエラウェさーん!!」
滑り落ちた際に打ち付けられてしまった尻が、少し痛む。マリールは尻を摩りながら、何も見えない真っ暗な空間の頭上に向かって、大きく叫んだ。
けれど叫んだ声はわんわんと反響して返ってくるだけで、頭上からは何も反応が得られない。
真っ暗で埃とカビの匂いがする場所で、マリールは途方に暮れた。
「どうしよう……。背負い鞄から脱出しても良いけど、メルクに戻る時はまたここに出てきちゃうしなぁ」
マリールは、ほとほと困ったと眉を下げ、見えない暗闇の中を手探りで彷徨う。そうして壁を探し当ててからは、その壁に左手を当てたまま、壁伝いに歩き出した。もしかしたら出入口のようなものがあるかもしれないと考えたからだ。
慎重に足を進める内に、漸くその扉らしきものを探し当てる事が出来た。だが、押したり引いたり叩いたりと試してみるが、扉はびくとも動かない。まるで冒険者ギルドの扉のようにずっしりと重く、マリールの前に立ち塞がっていた。
「――開かないよ?」
「っうおわぁ!! びっくりしたぁ!」
強敵を前に途方に暮れていたマリールの足元から、突然子供の声がする。まさかこの穴の底に先客が居るとは思いも寄らなかったものだから、その驚きはお化け屋敷のトラップの如く、マリールの心臓が止まりかける程の衝撃だった。
「えーと、暗くて見えないんですけど……、そこに誰か居るんですね?」
「いるよ。ここだよ。お腹が減って、もう力が出ないの。ねえ、何か食べるものない?」
「ありますよ? えーと……ちょっと待っててくださいね」
マリールはポシェットの拡張鞄から背負い鞄をずるりとひっぱりだすと、朝食に食べた胡椒餅の包みを取り出した。今朝一人来なかった孤児院のルルナの分と、数に余りが出ていた一つだ。取り出した途端に、あたりに美味しそうな匂いがふわりと漂う。
「ちょ、ちょうだい! お願い、二日も食べてないの……!」
「二日も!? 勿論いいですよ。でもごめんなさい、匂いを辿って近くに来れますか? 私には貴女が見つけられなくて」
「うん……」
足元付近から声がするのは分かるのだが、いくら手を彷徨わせても声の主に届かない。マリールが申し訳なさそうにそう言うと、声の主は少しの間の後、何かを引き摺る音をさせながらゆっくりとマリールに近づいて来た。
胡椒餅を手にしているマリールの腕に、何かが触れる。すぐ傍まで来てくれたから、その姿が暗闇でもぼんやりと見えた。マリールより少し大きいくらいの獣人の女の子で、長い耳が彼女が何の獣人なのかを物語っている。
マリールはやっと姿を確認出来た女の子の側にしゃがみこむと、心当たりがあるその名前を確認した。
「――もしかして、ルルナちゃん?」
「どうして知ってるの?」
「週に一度、冒険者ギルドに依頼を受けに来るんでしょう? 今日、冒険者ギルドに男の子達が来て、ルルナちゃんが二日前から帰って来ないって言ってたの。私、マリールって言います。よろしくね?」
「う……うん! 私……、私……!」
マリールが孤児院の子供達から聞いたと言えば、ルルナも自分の事を話そうとするも、嗚咽混じりで上手く言葉に出来ないようだった。ずっとこんな暗闇で独りきり、さぞ心細かったのだろう。
「……うん。大丈夫だから落ち着いて。取り敢えずこれ、一緒に食べよう? 私も少しおなか空いちゃった」
マリールは自分より背の高いルルナの背中を、慰めるように優しく撫でた。それから弁当と一緒に用意していた茶の入った瓶を背負い鞄から取り出すと、力が入らず震えてしまっているルルナの手に握らせる。
二日も何も口にしていない胃に、いきなり胡椒餅は相当負担がかかりそうだ。けれど今はこれくらいしかないから仕方ない。胃が痛むようならば、青色の薬を飲ませればいい。
「はい。まずはお茶を飲んでから、ゆっくり食べて? 冒険者ギルドの皆で作って、ギルドマスターさんが焼いてくれたのです!」
「あ……、あの怖いおじさんが?」
ルルナは信じられないと、瞬きをした。子供達が何か悪さをすると、教会の院長やシスター達に「冒険者ギルドのマスターに言いつけるぞ!」と脅される程、子供達から恐れられているおじさんだ。
子供を頭からむしゃむしゃ食べそうな鬼のおじさんが、この美味しそうなパンを作ったなんて、とてもじゃないが想像出来ない。
まさか毒でも入っているのではないだろうか。
ルルナは今直ぐ齧りつきたいのを我慢して、じっと胡椒餅を見詰めた。
「怖くないですよ? すごく優しくて子供好きで、私の大好きな旦那様です!」
「……マリーちゃんの、雇い主なの?」
「あー……そっか。そう言えば商人さんの事、従者さんも旦那様って呼んでたなぁ。えーと、そうじゃなくて、私がお嫁さんです!」
「えっ!?」
今、ルルナの中で、怖い鬼のおじさんは自分よりも小さい女の子をお嫁さんにする、ヤバイ人だと認識された。マリールは青褪めるルルナに気付きもせず、胡椒餅を食べるように薦める。
「ほらほら、冷めちゃいますよ? いただきまーす!」
「い、いただきます……」
マリールが美味しそうに食べて飲み込むのを見届けてから、ルルナもパクリと胡椒餅に噛り付く。すると突き立てた歯からみるみる溢れる肉汁が伝わって、まるで極上のスープのように口の中へと溢れていった。
そのあまりの美味しさにルルナは目を瞠り、熱さにはふはふと息を吐きながら、夢中になって胡椒餅を平らげていく。
マリールは美味しそうに食べてくれるルルナに嬉しそうに目を細め、床に置かれたままの瓶を指さした。
「お茶も忘れず飲んでくださいね? ちょっとこのパン肉々し過ぎてますからね、脂の吸収を抑えるやつのお茶なんです」
「ありがとう……」
促されて茶を飲み干せば、ルルナの空腹はやっと一息つく事が出来たようだ。ほう、とひとつ吐息を零すルルナに、マリールが聞く。
「ねえ、ルルナちゃん。灯りって出せる?」
「ううん、出せない。私が得意なのは風と火だけだもの……」
「そっか! それじゃぁ、えーと……あった、これこれ!」
マリールは背負い鞄をごそごそと探り、今度はランタンを取り出した。旅の途中、野宿する際、夜に使用していたものだ。中の燃料に火を付ければ使えるのだが、今のマリールには割れた魔石しか無く、せっかくあるランタンに灯りを点す事が出来なかった。
ルルナに頼み、ランタンに火を付けて貰えば、優しいオレンジ色の炎が小さく点る。ガラスがその明かりを広げ、周りをゆらゆらと照らしてくれた。
灯かりが確保出来た事に、マリールもルルナもほっと息を吐く。
「やっぱり文明は偉大だ……」
「うん……?」
せっかく夢と魔法の異世界でチート付きで転生したのに、その恩恵が殆ど使いこなせない。しみじみと文明の有難さを噛み締めるマリールに、ルルナは意味も分からず、摂り合えず頷いておいた。




