5 閑話休題:拳の限界と少女の疑問
それはまだ、レオンが自分の限界を知らなかった頃の話だ。
当時の彼は、王都の裏路地から格闘場までその名を知らぬ者はいない、向かうところ敵なしの天才拳士だった。
「法も魔法も、俺の拳が届く距離なら無意味だ」
そう豪語し、気に入らない貴族がいればその護衛ごと叩き潰す。若さと圧倒的な武力に酔いしれていた彼を呼び出したのが、ヴァランシエール侯爵、イゾルデだった。
「おまえが噂の野良犬ね。随分と騒がしいこと」
侯爵邸の広間。玉座のような椅子に深く腰掛けたイゾルデは、目の前のレオンを「人間」としてすら見ていなかった。
ただそこに居るだけで、レオンの逃げ道を物理的に塞いでしまうような、本物の支配者のプレッシャー。指先一つ動かさぬ圧倒的な威圧感に、レオンは脂汗を流した。
「……何が侯爵だ。あんたも結局、護衛がいなきゃ何もできねぇんだろ?」
精一杯の虚勢を張るレオンに、冷ややかな声が降ってくる。
「あら、そんなに単純な話しかしら?」
声の主は、イゾルデの傍らに立つ、まだ十歳ほどの一人の少女、エレオノーラだった。
「だってお母様に護衛がいないなんてあり得ないもの。……だから今、そうやって身動きが取れないんじゃない?」
彼女は真っ直ぐな目でレオンを見つめ、本気で不思議そうに首をかしげた。
その透き通った瞳には、「この人、もしかして本当にバカなの?」という疑問が純粋な好奇心と共に浮かんでいる。
「貴方は気に入らなければ『叩き潰す』と仰るけれど……その手が届かない範囲はどうなさるの? 相手が自分のところに落ちてくるまで待つの?」
静かに重ねられる疑問に、レオンは答える術を持たない。幼い少女の純粋な問いかけが、自分の本質的な、もっとも認めたくない惨めな部分を突き刺す。
イゾルデは面白そうに目を細めていた。
「手の届かない高みにいる相手には、気に入らなくても何もなさらないの?」
少女はただ、疑問を重ねつづける。レオンは積み上げてきた自分の正義の根幹を揺さぶられ、次第に息を詰めていく。
「 それは『敗北』というのではないの?」
論破しようという悪意すらない。ただ、「当然の道理が分かっていない欠陥品」を見るような眼差しに、ついにレオンの誇りは粉々に砕け散った。
「てめぇ……ッ!」
「何故、権力を持つ者を利用してやろうと思わないの? 取り入り方なんていくらでもあるじゃない。……もしかして、そこまで頭が回りませんの?」
あどけない少女のあまりにも生々しい提案に、憤りで奥歯を噛み締めていたレオンの力が抜ける。
「は……?」
「私はね、レオン……」
黙って見守っていた侯爵が、すっと手元の扇子を広げて口許を隠した。その目だけが、獲物をとらえた猛禽類のような獰猛さを湛えている。
ジリ、と、本能的な警告が身体中を駆け巡る。縫い付けられたように動けない。
「優秀で、身のほどをわきまえた即戦力を求めているのよ」
「あら、お母様。横取りよ、ずるいわ」
大虎の横で小虎が頬を膨らませる。
「おまえは『即』ではないけれど、見所があると思っているのよ。戦闘力は申し分ないものね」
――おまえを使ってやる。おまえも私を利用してみると良い。
頭を押さえつけるような圧倒的な重圧がそう告げていた。
拳一つで世界を変えられると信じていた二十歳の青年は、その日、暴力よりも恐ろしい「支配」の深淵を覗き込み……気づけば七年。
彼は侯爵家の手足として生きていたのだった。




