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遠い都で政変が起きたことは、こんなところまで聞こえてきていた。
懐から出した紐で袖をからげ、捲り上げた着物の裾を帯に挟んだ。
覚悟を決めて素足で水に踏み込んだ。
川の水が冷たい。
流れに竿刺すようにして目指す場所に進む。
「大漁!」
仕掛けておいた罠を引き上げれば、よく肥えた魚体がたくさんうねうねと蠢いていた。
「太い!」
どれもこれも大きくて、これならみんなのお腹が満たされるだろうと思った。
スキップしたい気持ちに逆わずに、木の根が絡み合い下生えの茂る山の中を進んで行った。
と、ひとの声が聞こえたような気がして立ち止まった。
−−−こんなところに?
この山は、持ち主である神殿と私たち山に暮らすもの以外には禁足地となっている。
木に隠れながらこっそり近づいてみた。
「困りましたね。このようなところで迷ってしまうなど」
お疲れになられましたでしょう。
美しく穏やかな声が気遣わしそうに空気を響かせている。
「あの場所は鎖された場所だ。何代も前の誰かが建造して継承者にだけ伝えてきた」
返す声は少し歪にしわがれている。
「では………」
美しい声になにやら生き物の嘶きがかぶさって聞こえた。
「この子にも、見つけ出せない」
「弱りましたね。今日中につかなければ、お倒れになられてしまいましょう」
「私はそんなにひどい顔をしているか」
「拙の膝ではございますが、お使いになられませ」
かさと音がして、おそらくは”拙”の膝を誰かが使うために身動いだのだろう。
なんとはなく出るに出られなくなった私の頭−−−に、直接、
<姿を見せなさい>
と、あの美声からやわらかさを削ぎ落とした声が頭に直接響いてきた。
怖じた私に、再度同じ響きがより冷たさを孕んで響く。
それは威圧してくるようで、私は木の影から出た。
目の前にいるのは、直衣姿の男ふたりだった。
美声の男は声に似合いの美男で、丸太に腰掛けた菊の直衣の膝に今ひとりの少年のような男の頭を乗せている。
ふたりの風情が森の静謐と溶け合うかのようで、私は跪くよりも先に思わず見惚れていた。そんな私の意識を現実に立ち返らせたのは、ジャラリと、硬いもの同士が触れ合う音だった。それは、一頭の龍のものだった。
細長い胴体をまるで巨大な蛇のように丸めてこちらを見てきた。
白銀色で赤い手綱がつけられているところを見ると、ふたりの騎龍なのだろう。それだけで、このふたりがとても高貴な存在なのだと判った。
とっさに地面にひれ伏した私に、
「伏せずとも良い。服わぬ民のものであろう」
”服わぬ民”と呼ばれる私たちは、今となっても戸籍より外れた存在として都合よく扱われている者たちだけれど。遍く世を統べ終えた貴人たちにとっては、支配から逸れ山を彷徨い暮らす者たちは、租税を納めることもない、ただの家畜にも劣るものだろう。だからこそ、いないものとされて禁足地に踏み込むことができるのだけれども。
「今は、我らも似たようなものよ」
そう嘯かれ、戸惑わずにはいられなかった。
「ともあれ、もう直日が落ちよう。そなた山の者であればこの近くで屋敷を見かけたことがあるのではないか?」
山裾の里にある枝神殿が朝夕祈りを捧げる神座と見做されているらしい。
その御山に屋敷が? と、疑問に思うことはない。
「それなら存じ上げております」
不思議に思いはしたけれど、あったものはあったのだから。
ほんの一ト月ばかり前のこと。穿たれた横穴の奥に、偶然見かけたのだ。
横穴を進めば、突然天井がひらけ、目の前もひらけた。そこに赤い屋根に白い化粧壁の大きな屋敷があった。
まるで迷い家のように−−−で、そこから何か持ち帰らなければならないのだろうかと悩んだのを覚えている。あれが本当に迷い家であったのならば、きっとその屋敷の持ち主がそっと私に必要なものを贈ってくれただろう。
「そんな奇跡なんか起こりっこない」
知らずに呟いていた。
「何か?」
龍の背中に乗って男の腰の部分に抱きついていた私は、問いかけられるとは思ってもいなかった。
「なんでもありません」
男の前には少年のように見える男がいる。青紅葉の襲を纏う彼は、その色を移してなのかちらりと見ただけでも顔色が悪かった。