対立
「失礼いたします」
四〇代後半ぐらいの小柄な女性は医院の応接室に入ってきた。
鈴木沙代、鈴木武の母親である。
「武を救ってくれたそうですね」
「ええ、グループからのマインドコントロールは解け快方に向かっています。収容直後の混乱も見られず現在のところ、経過は順調です」
「では今日にも家に帰らせて貰えませんか」
性急に沙代は武の退院を求めてきた。
「ここのところ、学校を欠席していたのではこのままでは受験にも差し障りが出てしまいますので」
「残念ながら、まだ十分に登校できるような状況では無いと判断します。暫く当医院に入院し暫く経過観察を行うべきと考えます」
「グループから離れたのでしょう。それに身体には何ら異常が無いのでしょう」
「ですが心の傷、トラウマが大きくケアが必要です。急激な変化は抑鬱状態を引きおこし二次障害を発生させる恐れがあり、退院することは難しいと判断しております」
「鬱なんて心の風邪みたいなものでしょう。大した事はないでしょう」
「いいえ、鬱は心のガンです。放置していると大きくなり最悪自殺の可能性があります」
「脅迫ですか」
「いいえ事実です。実際鬱病の患者が自殺する例は多くあります。鬱というガンで死亡したと言って過言ではありません」
「でもガンは言い過ぎでは」
「例え風邪だとしても万病の元となります。甘く見るべきではありません」
「……兎に角、息子に会わせて下さい」
「分かりました」
沙代の求めに大森は応え、武を病室から連れてきた。
「武! 大丈夫? 心配したのよ」
「う、うん」
入って来た武に沙代は興奮していたが、武は沙代に目を合わせなかった。
「もう、親を心配させるんじゃないのよ。学校の勉強も遅れてしまったし、もうすぐ大学受験なんだから早く帰りましょう」
「いや、まだ……」
「何を言っているの、このまま勉強が遅れて受験に失敗して落ちこぼれになったら困るのは貴方よ」
沙代の早いまくし立てに武は身体をよじり背ける。
そしてふと武は大森に視線を向けた。
「君はどうしたいんだ」
武の目を見たまま突き放すように大森が返答した。
武は一瞬怯えるが大森は矢継ぎ早に言う。
「君が決めるんだ」
「そんなの分かっているわよね。どうすれば良いか分かっているわよね」
大森と沙代の言葉で武は一瞬俯くが、直ぐに意を決して応えた。
「……家には帰りたくない」
一瞬、沈黙が走ったが直ぐに沙代が口を開いた。
「何を弱気なことを言っているの。貴方これまでの事で学校に行って無くって授業も遅れているのよ。母さんどれだけ心配してきたことか。周りの人にも心配掛けて迷惑しているのよ。ここで大学受験に失敗したらどうするの」
「嫌なんだよ。家に帰るのが」
「何を言っているの。貴方ね」
「待って下さい」
武に詰め寄る沙代の間に大森が入り応えた。
「本人が嫌がっています。本人の意志を尊重するべきです。それに私もまだ治療が必要と考えております。しばらくは当院で入院治療を行います」
「あ、あなた何を言っているんですか。私は保護者、親ですよ。子供に関する権限は全て私にあります。貴方に何の権限があってそんな事を言うのですか」
「医師としての権限です。私には精神保健指定医の資格があるので保護入院が可能です。保護者である貴方と旦那さんも同意しましたよね」
「取り消します。退院を要求します」
「保護入院している以上、同意者が入院を撤回しても入院を継続できる権限があります」
「私は保護者ですよ。何の権利があって子供を引き離すのですか」
「医師の方が上です。お引き取りを」
「息子を帰して下さい!」
「お引き取りを。これ以上抗弁するなら不退去で警察を呼んで叩き出しますよ」
大森は断固とした態度で沙代に言いつけるが彼女は激昂した。
「いいですわ! 主人に来て貰います!」
沙代を追い返した後、診察室に戻り看護師の谷町を入れた。
「患者の様子は?」
「少し落ち込んでいましたが、安定しているようです。寧ろ安堵したような雰囲気です」
「よかった。不安定になると思ったんだが意外に強いな。いや回復が早いな」
「はい。しかし、良かったのですか? あのように保護者、母親を追い返して」
「必要な事だったんだ。私は必要な処置だと思っている。何しろ彼を最初に依存状態に置いたのは彼らだからね」
「まさか」
「まあ、マインドコントロールは言い過ぎかも知れないが、彼らが彼をマインドコントロールされやすい状態、状況に追い込んでいたのは事実だ」
「何故、言い切れるのですか?」
「マインドコントロールには五つの原理がある」
一つ、情報入力を制限する、または過剰にする。
二つ、脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う。
三つ、確信を持って救済や不朽の意味を約束する。
四つ、人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる。
五つ、自己判断を許さず、依存状態に起き続ける。
「『まず情報入力を制限する、または過剰にする』だが。武君は幼い頃から受験勉強や習い事を続けていた。これは情報入力を制限し過剰にすることだ」
「制限して過剰に入力する、というのは矛盾していませんか?」
「言葉が足りなくて済まない。入力する情報の種類を制限し、量を過剰にするんだ。勉強のみで一般常識などの情報を与えない。更に勉強漬け、夜遅くまで、あるいは徹夜で勉強していた事もあるから著しい情報の制限と過剰入力だ」
マインドコントロールはトンネルに入った状態と同じだ。用意されたトンネルの中に入れられてただひたすら出口に向かって駆け抜けるしか無い。他の方向へ向かうことが出来ない状態にして支配する。外の世界、他の世界を見る事は出来ない。
だからこそ「広く人付き合いをしなさい」と言うのは正しい。自分の家庭と他人の家庭が違う事を認識できる。個性という意味での差か、異常という意味での差なのかは判別しにくいが差異を認識することは出来る。
その世界だけしか知らないより、バランス良く成長することが出来る。
極端に偏った人間など一局面では強くても環境が変われば無力だ。
学生時代に試験だけが得意であっても、仕事の出来ない新人社員など会社にとって無意味だろう。何より当の本人が稼げず自分の人生を営めない。
「続いて『脳を慢性疲労状態に置き、考える余力を奪う』だが、これも十分だ。平日は学校、塾、習い事。祝日は無し、休日は模試や試験。夏休みも夏季講習だ。休む時間が無く、慢性疲労と言って良いだろう。しかも一人に対して複数、学校や塾、習い事がそれぞれ問い詰める。やる気はあるのかと。疲れている状態でフラフラしているのを無気力だと咎めるのだ」
学校で疲れ、その身体で塾に行き、フラフラの状態を咎められる。そうして塾の講習を受けて更に疲れて、次の習い事へ。そこでも疲れてフラフラの状態を咎められ習い事を受ける。全部終えても家に戻って学校や塾でのことを親に問い詰められてしまう。
このような状況では自分の部屋以外に安全な場所は無く、引きこもるしかないだろう。
「……確かにそんな事を言っていましたね。泣きながら答えていましたね」
病室に入った時、自分の過去を思いつく限りで良いから自分か話してくれと大森は武に伝えていた。
それで武は家も学校も塾も習い事も叱られてばかりでいやだ、と答えた。自分の部屋以外に出て行きたくないと言っていた。
谷町は武の泣き言かと思ったが、そのような環境では確かに泣きたくなる。
「そして『確信を持って救済や不朽の意味を約束する』だが、良い学校に行けば良い会社や役所に入って将来は安泰だである旨をあの両親は言っている。今の環境に矛盾や嫌悪を感じていても彼が見て見ぬ振りをする、あるいは無視させるには都合が良い言い分だ」
人間はどんなに時が過ぎようとも、状況が変わろうとも変わらない不朽の存在を求めている。それに頼った方が安心するからだ。だから絶対である存在、不朽である存在を提示されると縋ってしまう。
だが、それは騙しに過ぎない。入ってもブラック企業やサービス残業のニュースが流れている。塾に通っていても本当に救済されるか疑問に思う。何より自分の選択ではないのだから不朽の意味を確信することは出来ない。
「そんな状態で何故従っているんですか」
「四つ目、『人は愛されることを望み裏切られることを恐れる』。これは人の、社会の根幹だ。裏切られることは生存に関わる」
信頼がなければ何のサービスも援助も、交渉さえ出来ない。
何より人は一人では生きられない。これは事実だ。家を一人で建てることはできないし、食料も作ることは困難だ。服など作れない。家具家電など不可能だ。孤独で居られるほど人は強くない。余程人に手ひどく裏切られない限り人から離れる事は無く愛されることを望む。
「何より人に認められたい。少しでも認められようと人は頑張ろうとする。それが無茶な事であろうとも言われたらやり遂げようと思う。詐欺師達は、その心理を、人が持つ人間性に付け込むんだ。彼の場合は両親が期待していた。期待というのは悪くないが、本人の能力を超す過大な目標を無理強いして失敗すれば責め立てる」
「普通は反論するのでは?」
「しかし、相手が自分を愛して欲しい相手だとどうなるか。反抗どころか反論など出来ないよ」
それどころか責任感の強い人なら達成できなかったのは自分の責任だ、自分の能力不足だ、と自分を追い詰める。
「そして、そんな人は自己判断が許されず、依存状態となる。自分がやっても無意味だと思い、判断を他人に預ける。いや相手に自らの運命を委ねてしまう。相手が、優れた人なら問題無いかもしれないが、詐欺師や泥棒だったら財産を奪われたり、心身を損なってしまう。彼の場合は未成年で相手が親だったからね。未成年は親の支援がなければ生きて行けない。事実上、親への依存だ。悪いとは言わない。赤ん坊に成人のように働いて独立しろと言っても無意味だ。そこで自立できるように教育する」
だが、その教育で過剰な勉強や著しい制限を加える。何より自己判断が許されない状況に陥らせるのは教育ではなく隷属だ。
「無理強いする教育は無意味だ」
「しかし、教育は義務では」
「勘違いしている人が多いから訂正しておくけど、教育の義務は親が子供に教育を受けさせる義務だ。子供が教育を受けるのは義務ではなく権利だ。子供が教育を受けたくないと言えば拒否できる。義務教育であってもだ。不登校が問題となっているが、彼らが問題ではない。彼らが学校で勉強したくないと言うのは正統な権利であり、認めなくてはならない。学校が自分に対して必要な教育が出来る様な環境で無いのなら正しい行動だ。もし、自分の非を認めたくないから不登校児に問題があるように言うのなら責任転嫁だ。寧ろ教師や親自身が自分に問題があると認識できていないようだけどね」
「確かにそうですね」
「何より問題なのは、マインドコントロールから身を守るためには周囲の環境が良いことが前提だ。特に家庭環境が良くないとダメだ。自分は愛されているという安堵感が精神的な抵抗力となり、マインドコントロールを跳ね返す」
だが家庭環境が悪く、寧ろ心身に危険を及ぼすとしたら。
自分の身を守ろうとしてどこかにシェルターを、希望を探そうとする。
詐欺師や犯罪者、マインドコントロールを行う者はそのような人間に付け込む。
安心出来る環境を与えて、希望を与えてくれたのなら、家より安全と思う。そして家から出てしまったら、他に自分を助けてくれる存在はいないから、全身全霊をかけて相手に尽くそうとする。依存してしまうのだ。
「塾前で待ち伏せしていたのは偶然ではない。疲れ切って弱っている人間を見つけやすい。そして目を付けられたのが彼だったという訳だ。目に見えて疲れている人間をマインドコントロールするのは容易いからね」
「……で、これからどうするのですか」
「僕は精神科医で彼は患者だ。治療以外にやる事は無いよ。ひとまず依存対象から離して、一人にする。離れても自分は無事だという事を認識させる。依存にはこれが一番だ。何としても守る」