2話 ポルターガイスト
静かな病室を後にして、洋太は日本へとんぼ返りした。
彼の身体はガリガリに痩せ細って、体力も不自然なほど落ちていた『何故生きてる? ハハハ!』とキチガイみたいな医者に笑われたのを覚えてる。
真っ白で清潔な天井を見上げながら点滴で栄養を摂り、赤ん坊が食うようなスープを口に運び続けて結果二ヶ月もの間もドイツの病室にいる事になった。
まだ完全な回復ではないが、このまま入院を続けていても費用がバカにならないので歩けるレベルまで回復できたなら充分だ。
入院中に一番困ったことと言えば。
急にドイツ語が分からなくなってしまった。当たり前と言っては当たり前だ。逆に何故今までドイツ語が流暢に話せていたのか。
流石に洋太は日本に帰るしかなくなってしまった。
今、最終学歴は中卒。
十五歳という人生を左右すると言われている多感な時期から四年間。人生の黄金期を奪われた代償はデカい。
カールの事は恨めなかった。恨むとしたら両親を恨むべきだと自分でも分かっているから。
でも、ちっぽけな苦言をこぼす事くらいは許されるだろう。
「カール、……」
お前のせいだよ、と発音しそうになって口を噤んだ。警戒するように部屋の隅を見る。
今洋太は千葉にあるアパートの一室に暮らしているのだが。
洋太がこの部屋を借りた日から二週間ほど経った今日まで、定期的に起こるポルターガイストに悩まされている。
最初は本当に怖くて、震えながら布団にくるまっていた。だって決まって夜中の二時から三時の間にキッチンや風呂場からノックの音がするし、リビングのカウンターに置いていたコップが床にぶちまけられたいた時の衝撃は忘れない。
破片が辺りに散らばった光景は猟奇的に思えて、一瞬強盗かと勘違いした。
床に散らばっている破片を冷めた目でみる。
別にお気に入りのコップという訳ではない。百均でもどこでも買える安物だ。
しかし、朝からそれを掃除するこっちの気にもなってみろ。洋太は少しイライラした。
「………」
そして今、ベッドの上で将来の事を考えなくちゃいけない洋太は、口が滑ってカールという名前を発してしまった。
後悔してももう遅い。
だって、もういるのだから。
さっきまでは何もない、よく見れば埃が溜まっている薄暗いベッドと壁の隙間。
洋太がいる場所から見て、左側の壁である。
タラリ…、と緊張感のある汗が背中を伝った。洋太はずっとベッドの正面にある壁や、手元にあるスマホを見て、絶対に左は向かないようにして気を紛らわせた。
首をカクッと折ったまま背中を曲げて、顔を覗き込んでくる男を無視しなければいけない。
「…、……」
ハッと息が詰まる。
さっきまで壁ギリギリに立っていたと思ったのに、いつの間にこんなに近くに来たのか。
入院中だって姿を見せた事は一度しかなかったのに、何故今になって自分の前に現れた?
……復讐しに来たんだろう。
カール。お前には申し訳ないと思っているよ。ああ、本当に罪悪感で胸が張り裂けそうだ。俺はどうしたらいい?
両親の墓を荒らして骨で土下座の恰好を作れば満足か?
洋太は側から見たらベッドの上でつまらなそうにスマホを弄っているだけに見えるだろう。
しかし、彼はスマホを持っていない方の手を無理矢理ポケットに突っ込んで動揺を悟られないようにしているし。
よく見ればずっと眉を顰めて唇を硬く結んでいる。震えないように耐えているのだ。
洋太の猿芝居はカールにどう思われているのか分からないけど。
突然フッと気配が消えた。
それでも洋太はしばらく左を向くことが出来なかった。
▲▲
なぜカールが両親にいじめられていたのか。
今の両親はどちらも日本人だが、母は元々ドイツ人と結婚して子どもを授かったと聞いた事がある。
しかし孕った母を邪険に思ったのか、男は本音を曝け出すようになり、心ない言葉を浴びせるようになった。
大変傷ついた母は、追い討ちに腹の胎児が産まれたと同時に男に捨てられた。そして産まれた赤子を見てゾッとしただとか。
鮮やかな金髪に、母譲りのグリーンな瞳。
それが小川洋太の兄、カールである。
恐らく日本人である父と再婚して、ドイツ人の血が流れたカールは母からしたら腸が煮えくりかえる程憎たらしく思えたのだろう。
本来なら自分を傷つけた男にやるべき仕打ちを幼き子供であるカールにやってしまった。
洋太は四年間、カールの記憶を持って生きていた。なので分かってしまうのだ、どれだけ辛かったのか。
カールは今、洋太の命を狙っている筈。
しかし……いくら同情出来ても命を投げ出せるわけではない。
▲▲
「カールッふざけんなよ!」
限界は早いうちに来た。ついに洋太の堪忍袋の緒が切れたのだ。
最近は充分な睡眠が取れていないため、目の下にはクマが出来ており、部屋にいても休まらないストレスから爪を噛む癖が出来た。
嫌がらせのように続く物音。
風も吹いていないのに勝手に閉まるうるさいドア。風呂の時も、寝る時もずっと感じる視線にウンザリしていた。
高卒認定試験と資格勉強のために机に齧り付いて参考書を見つめていた洋太は、部屋の電気がチカ、チカと点滅し始めたのをキッカケに、
ついにギッと叫んだ。
勢いよく立ち上がった衝撃で、椅子がクルクルと回りながら洋太から離れる。
「はぁ、はぁ」
静かな部屋では洋太の荒い息だけが反響していて、グッと眉間を揉んで少し冷静になった彼は、椅子に座り直そうと後ろを向いた時。
バチ!
突然、部屋の電気が消滅した。
急激に真っ暗になる部屋。今は夜の十二時半だ。人工的な光がなければ闇に包まれてしまう時間帯である。
ハッと目を張って無意識に息を止める。
机を触りながら何も見えない部屋を見渡す。自分が今部屋のどこの位置にいるのか分からなくならない為に、机をずっと触っていた。
洋太は顔を凍らせたまま眼球だけを左右に動かして情報を得ようとする。
自分の心臓の音がバクン!バクン!と高なって暴れているのが聞こえる。うるさいそれ以外は何も聞こえない静寂の中。
「暗いのは嫌いか? 憎らしい最愛の弟よ」
ゾワッと体中の鳥肌が立って、息が詰まった。
首を回して辺りを見渡す。
今ハッキリ、鮮明に声が聞こえたのだ。慣れ親しんだけれど、今は一番聞きたくない声が。
「カール……?」
だんだんと夜目が利いてきて、部屋の輪郭が見え始めた。すると暗闇の部屋の中心にさっきまではなかった筈のシルエットがどんどん浮かんでくる。
……今、いる。
この部屋にヤツがいる。
そしてそのシルエットは洋太が先ほどまで座っていた椅子にドッシリ腰をかけて、前屈みに俯いていた。顔は見えない。
この時洋太は心のどこかで悟った。
あ、殺しに来たんだ、と。
目の前で自分の椅子に腰をかけている男は大きくカーブした鎌を背後に持つ死神のように見えた。
死神は俯いてる頭をポリポリかきながら眠そうに話した。
「またこの国か。マ、ドイツより慣れ親しんだ日本がいいよな。だってお前の皮膚を剥がしたら、日本人らしく奥ゆかしい血液が見えるんだろうし」
「………」
「オレは、オレはどんな血が流れてる?」
「……、…」
心臓を鷲掴みにするような声色は、洋太の口を閉じさせた。
『ドイツと日本の血が両方流れているんじゃないのか?』 と心の中で返答した。
声に出していうと何が彼の逆鱗に触れてしまうか分からないから。洋太はずっと口を噤んでこの時間が早くすぎるのを待った。
それを見越したように目の前のカールはゆっくり左手を動かして、小枝のような指をこちらに向けてくる。
指を刺された。
「幽霊扱いするなよ。見えてるくせに」
つむじが話しているみたいに、彼はずっと前屈みに俯いたまま顔を上げない。
視線は一回も合っていないのに、洋太は蛇に睨まれたように動けなくなった。
ガラガラの掠れた声でン"ーと喉を鳴らして彼は小枝のような左手をゆっ…くり下に動かして笑った。
「いる。そこだそこ」
いる。
カールは何かを決定的に捉えて指を刺した。
彼が指を刺した場所は。位置的に見ると洋太の膝あたりであり。
息を潜めながら頭に?を浮かべて固まる洋太を無視して、カールは声を押し殺してバカにするように笑い始めた。まだ気が付かないのか?と、
そこで初めて洋太は掠れた声を出した。
「な、なにがいるんだ」
「そこだって、お前の後ろ」
後ろ、とカールが言い終わる前に洋太はバッ!と後ろを振り返った。
人というのは背後を取られるのが一番怖い生き物だ。後ろは唯一視線が届かない無防備な領域であるから。
中途半端に肩を上げたまま首に力を入れる。
洋太の後ろには数学の参考書やメモが記載されたノートで散らかった勉強机がある。
今カールは後ろにいると言った。
放心しながら目だけを忙しなく左右に動かしていると、また反対側から笑い声が聞こえる。
カールがまた笑っているのだ。
「見ろ、ちゃんとオレの指を刺してる所を」
親切に教えてくれた通り、視線をたどる。その時洋太は左に動いてしまったが、意外にも指の先は洋太を追うことなく、以前と机を指していた。
「………」
そこで気がついた。指の先は洋太の膝を指しているわけではなかった。それよりも奥。
机の……下にある空白をずっと彼は指していたのだ。
流石に洋太も背筋がゾッと凍って机の下を覗き見る事が出来なかった。
暗闇の中で、机の下はより一層闇が広がっているように見えたし、今まで警戒していなかった場所を不意に刺されてどうすれば良いか分からない。
「女だな」
「……、…」
「女が机の下で膝を抱えてる、なんだありゃ首が折れてるぞ」
カールはガハハ!と笑って急に顔を上げた。
その顔は洋太のよく知るカールの顔そのままで、いつの間にか小枝のようだった指にも健康的な肉がつき、髪の毛もいつものようなサラサラの状態に戻っていた。
洋太の恋人であるカールの姿に戻った。
しかし、彼は今カールの容姿よりも重大な問題に直面しているのでそれを追及する余裕はなかった。
「女って、ど、うゆうこと」
「お前、今までの異変、怪奇現象を全部オレの仕業だと思ってたな」
「………うん」
「オレじゃねえよ」
「……は?」と洋太は冷や水を浴びせられたみたいに目を見開いた。
それじゃあヤバいんじゃないか?
洋太は首の後ろに嫌な汗が流れるのを感じた。だって、今までカールの仕業だと思っていたから精神を保っていられたのだ。
怖さは勿論あるけど、正体の分からないナニかに比べたら、カールがイタズラしていると考えた方がどう考えても気が楽なのに。
それを今全否定された。心の底から信じたくなかった。
その時、机の上にあったシャープペンが転がって床にシャンッと落ちた。
「ア、気をつけた方がいいぞ。その女ずっとお前を見てる……いや、すげぇ形相で睨んでると言った方が正しいか」
洋太はもう、後ろを振り返れなくなった。
続く




