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1話 壮絶な物語でした




バンッ!!

派手な効果音と共に顔面蒼白な女が画面ギチギチに映し出された。液晶に映ってる短髪の女性が斧をギュッと抱きながら『キャーーーッ!』と悲鳴を上げたと同時に、


「どわあああぁーーー!!」

「ウオーーーッ!」


それを見ていた男共もソファーの背もたれに限界までのけぞってお互いの肩を掴みながら甲高い声で叫んだ。

巨大なポップコーンのそばに置いてあったペプシがポト、と軽い音を立てて倒れる。

男共はバクバクする心臓を抑えながら目や口を手で覆ってくぐもった声を出す。

大きな手で口どころか鼻まで覆っていたカールはフーッと息を吐いて、いつの間にか垂れていた汗を拭う。そして隣に座る洋太の肩をバシッと叩いた。


「これは珍しくクソ当たりだな、口コミを荒らしてやる」

「ぷっははは! 怖すぎて漏らしたので評価は一です。ってか?」

「オイオイ、漏らしたのはお前だろ? ほら股らへん慣れてるじゃねえか」

「え?」


クイッと眉を上げてあぐらをかいた自分の中心部分を指され「冗談は顔だけに……」と言いかけた洋太は下を見てバッと立ち上がった。


「やべえペプシ溢れてる!」

「ダハハ! アホなんで気がつかねえんだ」


滴るペプシはちょうど洋太の股部分を濡らしていたが、意外とズボンの生地が厚いので視界に入るまで気がつかなかった。

灰色のズボンはまるで本当に漏らしているみたいに染まっており、カールが笑いながら机の上にあるティッシュを乱暴に取って雑に拭いてあげる。


「あん、どこ触ってんのよ変態!」

「黙ってろしょんべん漏らし! パンツまで染みても知らねえぞ」


ズボンを自分でちょんちょんと拭きながら「そんときゃお前のパンツを借りるぜ」とカールの肩を叩く。

今日はカールの家に泊まる。友達同士の楽しい雑魚寝ゲーム泊まり! というわけではない、それなりにときめきとドキドキを孕んだ初めてのお泊まり会である。

なぜなら、二人は恋仲だからだ。

男同士だが、洋太はカールになら三発まで殴られても許そうと思うくらいに、どうしようもなく惚れているし。カールだって洋太の事を心の底から可愛がっていた。

日本人である洋太とドイツ人であるカールが出会ったのは四年前の事。




洋太が十五歳の頃である。

両親がポックリ死んだので心から嬉しい気持ちで心機一転、日本から憧れだったドイツに引っ越してきたのだ。

初めての海外は異世界のように新鮮で、国境を越えるだけでこんなにも違うのか、と感動した覚えがある。

恋人であるカールと出会ったのは洋太がドイツ生活にも慣れて、見た目と健康に気を使い始めた時の事。


よく晴れた日、洋太は家から近い川沿いでいつもの日課であるランニングをしていた。

ここら辺の住民は意外と他人に無関心なので、外国人の洋太が朝から走り回ってても関与してこない。

それがとても有り難かった。

片耳にイヤホンでMurder In My Mindというかっこいい曲を聴きながら、明日で十九歳になるけど誰か祝ってくれねえかな、とぽやぽや考えてたその時。

後ろからしゃがれた叫び声が聞こえた。


『ヒッタクリィーー!』


不穏な単語に思わず後ろを振り向くと同時に、洋太の横を素早く駆け抜けていく髭ズラの男。確かにその腕には見合わない小洒落た鞄を抱いていて……

洋太はトン、とその場で軽くジャンプしてから勢いよく地面を蹴って考える前に飛び出し男の背中を追いかける。

右耳から聞こえる曲で気分上場、バイブスがかかっている彼は最強だった。

快晴の気持ちいい朝。

誕生日前日に、おばあちゃんにとってのヒーローになろうとしたのだ。


『止まれー!』

『f××× you!f××× you!』

『てめ殴るぞ!!』


ガキでも分かるFワードと唾を飛ばしながら逃げられるが、追いついた洋太に後頭部をガツンと殴られて取り押さえられてしまう。


『イエローモンキーf××× you!』

『しねかす!』


髭男をうつ伏せに転がして腕を背中で捻りながら体重をかける。するとジタバタ暴れ出して差別用語とFワードの合わせ技を食らった。

普通にムカつき頭に血が上ったので三発ほど殴ろうと右手を振り上げた時、


『………』


洋太はピク、と固まってから、左手も上げざるおえなくなった。

両手を上げてる状態になり「まじかよ……」と呟き、ゆっくり背中から降りてそのままジリジリ距離を取る。


『下がれ!』

『ナイフ持ってやがんのか……』


洋太が右手を振り上げた事で、身動きが取りやすくなった男が懐から取り出したナイフを洋太に突きつけたからだ。唐突に現れた刃物の存在により状況は一変し男が有利に、洋太が下にへりくだる事となった。

後ろから杖を使って頑張って追いかけていたおばあさんも、この状況に思わず悲鳴を上げた。


しかし、思ったより洋太は冷静だった。自分でも驚くほどに。


『あ、あんた何を』


洋太は後ろで狼狽えてるおばあさんの杖をふんだくって男と向き合う。まさか杖で対抗してくるとは思っていなかったのか「ク、クレイジー…」と呟いていた。

しばらく睨み合いが続いたが、先に動いたのはナイフを持った男だった。

濁った目で突進してくる男に対して流石の洋太も少し怯んだが、ギュッと杖を握って振りかざそうとした所で、


『はーいストップ』

『!?』


急に現れた金髪の男が、長い脚でナイフを蹴り落としたのだ。いきなりの事に狼狽えた髭男は口をあんぐり開いたまま金髪の男に殴られて地面に伏した。

ナイフを蹴って遠くまで滑らせた金髪の男は、杖を握りしめたまま固まってる洋太に向かってこう言った。


『坊や、杖はお姉さん返してやりな』


ハッと我に帰って後ろのおばあさんを見ると、腰を曲げながらオロオロ困っている。

わっと謝りながら洋太が鞄と共に杖を返すと、おばあさんはありがとう、と言って震える脚で歩いて行き、地面に伏せてる男を杖でバシバシ叩き始めた。


『お、おおお』


ドイツのおばあさんってすげえな……と感心していると、横にいた金髪の男が助太刀して一緒に男を足蹴りし始めたので仕方なく洋太も参加した。

一緒にゲシゲシ足蹴りしてお礼を言うタイミングを測りかねていると、あっちの方から声をかけられた。


『俺はカール、お前は?』

『小川洋太だ。カール、助けてくれてありがとう』

『ハハ、下心なしに助けるほど優しそうに見える? 光栄だな』

『?え…… か、金か?』


洋太達が会話してる最中におばあさんは男をボコボコにして満足したのか『ありがとうねぇ、ありがとうねぇ』と血のついた杖をつきながら川辺を歩いて行った。


カールはチ、チ、と舌を鳴らして指を左右に動かすと眉を寄せて口角をフッと上げた。まるで物覚えの悪い子供を相手にしてるかのように微笑んで。

その時ちょうど洋太の左耳に付いてるAirPodsでは、曲が切り替わりラブソングが流れ始めた。

そして、ヒッタクリ犯を殴り少しだけ赤くなってしまった洋太の手をソッと取って、彼は国が傾きそうな甘美な微笑みを浮かべてこう言った。


『……惚れたんだよ、どうしようもなく』

『あたしゃもまだまだ現役だね』


洋太が顔を赤くすると同時に、横からカールの愛のキャッチボールを受け取ったのは、まさかのおばあさんであった。

さっきまで川辺をヨボヨボ歩いていたというのに、いつの間に戻ってきたのか。

カールは微笑みを崩さずにバッとおばあさんの方を向く。


『お姉さん。お姉さんは鞄をしっかり抱きながら気をつけて帰ってくださいね』

『ほほほ』


若い頃はさぞおモテになったであろう笑顔をしわくちゃにしながら愛らしく笑う。

それにカールは小さい汗を飛ばしながら『お姉さん、旦那さんはいらっしゃらないんですか(早く帰ってください)』と聞いたら、

おばあさんはクシャと口元に力を入れて、

『ああクソかい今朝便器に流して来たとこよい、もうろくに読めやしねぇ新聞を律儀に積み上げてなにが』と吐き捨てたので、


『仲良いんですね、旦那さんも待ってるし帰りましょうか(早く帰ってください)』と。

旦那さんの愚痴が長くなる前にカールはゆっくりおばあさんの手を取った。

そしていつの間にか呼んだタクシーにえっさよっさと詰め込んで『お気をつけて』と紳士に送り出した。


ヒッタクリ犯を除いて、今度こそ二人きりになった所で、カールはうんざりしたように首を振った。


『最近の老人はやけに元気だから困る』

『は、はあ』

『俺が口説きたいのはヨータだ』

『え、おれ?ええ、 』

『レストランか、ビアホールか、選べ』

『い今から? てかビアホールって……? あぁ居酒屋か』


まるで美しい乙女を口説くように、カールはどこまでも紳士に手を取った。

その仕草とは裏腹に、二択選択肢を出しているがその中には解散という選択肢はなかった。

だが、洋太はこんなびっくりするくらいの色男から迫られるのは初めての体験なので、お、おおお、と目を丸くして。


『じゅ、十八歳だからレストランで……』


そしてホイホイついて行ってしまうのだ。

まるで魔性の美男に体の頭からつま先まで侵略されているように、心臓がドクン、と音を立てた。


『Sehr gut、今新事実が発覚したが…同い年だったんだな』




これが出会い。

それからノコノコついて行った洋太は、まず初めにジャージ姿を愛らしく馬鹿にされて、セレクトショップでドレスコードとして有名なブランドのジャケットを見繕ってもらった。


『似合ってるよ、とても』

『あ、ありがとうございます』


その間も洋太はガチガチに緊張して、もしかしてこの服のお金俺が払うのか!?と一人でドギマギしていたが、それは杞憂であった。

正直服に着させられている、という感じが強いのでお世辞にも似合ってはいないと思うが。


『ん、ヨータはネガティブなのか? こんなカッコいいのに』


と鏡の前で顔を近づかせられると『ハイ似合ってます!』と反射で肯定してしまう。

そして連れて行かれたレストランの敷居の高さに驚き、夜景が見える絶景の場所を選んだセンスの良さに羨ましくなる。どうやらカールの行きつけらしい。

洋太は生まれて初めて女性のようにリードされて振る舞い方がわからず、何を聞かれても『おお、いいっすね。サラダとか取り分けましょうか』と合コンでの女子と同じ立ち回りをしたが。

サラダは取り分ける必要はなかった。

高級レストランなので。


高級な空気に不慣れで落ち着きのない彼を、カイザーは馬鹿にするでもなく優しくひとつひとつ教えてくれたし。決して洋太に恥をかかさないよう全てを先回りしてくれた。

洋太だって彼女は出来たことはある。

童貞でもない。

が、こんなに完璧な欧米式リードを受けてしまうと。まるで童貞のようにもじもじしてしまう。

だって、こんなおとぎ話のような美男子が目を潤ませながら『ヨータ、ヨータ』と自分の名前を呼んでくれるもんだから、脳みそがハチミツに浸かったように機能しなくなり。


『カイザーって、ゲイなの?』


聞いたら。


『びっくりするくらいゲイだぜ』


と当たり前のように答えたカールを見て、洋太はあっと思った。その時初めて彼と瞳の色が同じことに気がついたのだ。

洋太は緑がかった自分の瞳はあまり好きではないが、こんな共通点を見つけて初めて自分の瞳を少し、誇らしく思えた気がする。






ついに来た十九歳の誕生日にも関わらず、洋太はというと一人でNetflixを見ていた。

ドイツで学校も行かずバイトもしていない彼は、金だけ持ったニートだったので友達がいないのだ。

洋太が椅子にグッと腰をかけ直した時。


ピンポーン


家に頼んでない配達員が来てインターフォンを鳴らされた。一応警戒しつつもドアを開けてみた瞬間、

視界一面に無数の薔薇が現れたのだ。

洋太が驚いて固まっていると、薔薇の横からヒョコッと顔を出した配達員はなにやら見覚えのある顔をしていて。彼は花束を差し出しながら片手で帽子をかぱっと上げて笑った。


『クソ不用心だな』


まさかのカールであった。

配達員のふりをして花束を持ってきたのだ。『十九歳おめでとう』と言いながらカードにキスをして、それを薔薇の中に差し込んで洋太に渡した。

カールがウィンクを一つこぼして帰った後、薔薇に差し込まれたカードを見てみるとゴージャスな字体で連絡先が丁寧に記されてあった。

とてもキザな事をする。


『日本人にはできないな、これ』


と苦笑いしながら洋太はなんの躊躇いもなく、その連絡先を追加した。


それから連絡も取り合うようになったが、お互いサッパリした性格らしい。

カタカタ文を打つより会った方がよくね?と、直接会う頻度が日に日に増えていき。

二人はびっくりするくらい気があった。

カールはリードして欲しい時はきちんとリードしてくれるし、友達のようにフラットにも接してくれる。

全てがちょうど良く強引で、洋太は何も考えずホイホイついて行くだけで美味しいものが食べられるし、彼の前だとわがままが全て許されるのだ。

それがすごく楽だったし、異国で初めて心を許しても良いと思えた。


その日もカールに誘われるままお酒を飲みに来て。ガヤガヤとうるさいビアホール(居酒屋)のカウンター席で、洋太は頬杖をつきながらサラッと言った。


『もう付き合わね? ふつうに』

『は…』


カラン、とレモンサワーの氷が音を立てた。

カールの反応を確認しないままグビッと一口飲むと、モバイルバッテリーを車の中に忘れた事を思い出してあッとなる。


『あ、てかお前の車のなかにモバ充忘れた。キーかしてくんね』

『……ハッア〜〜〜?』


洋太がカールに告白した。


カールと関わるうちに花よ蝶よと愛られて、でろでろに甘やかされた洋太は、もうカールを手放したくなくなっていた。

だってこいつめっちゃ良いやつなんだもん。

夢みたいにかっこいい男だし、それにもうあっちも俺のことすきなんでしょ?

それなら付き合いましょう。

という事だ。

洋太は当然断られると思っていないので緊張感もクソもなく、スマホの充電を気にしている。


カールはまだ衝撃が収まっていないのか、しばらく固まって目をパチクリさせたあと、バッと顔を両手で覆ってくぐもった声を出した。

だってさっきまで地球が存在するのは奇跡、だとか宇宙の起源について熱く語っていたのに、急に黙ったかと思えば『付き合わね?』とびっくり爆弾を落としてきたので、

情緒どうなってるコイツ……と自分から猛アピールしてた事を棚に上げてカールは引いた。

……とりあえず、


『ハグしよう』

『んん、おう』


ギュッと抱きしめ合うと、カールからは嗅ぎ慣れた香水の匂いがして。

なんだか安心した洋太は気持ち良さそうに目を細めてカールの肩にごろごろとおでこを擦り付けた。

カールは丸い後頭部を大きな手で撫でて背中をポン、ポン、と叩く。

すると、ぬるま湯に浸かってるみたいにどうしようもなく心地よくなり、温かい胸板に身を任せて好きな匂いに囲まれながら洋太はウトウト目を閉じる。


『……どこまでお前は俺を狂わせるつもりなんだ?』

『んー、? 月が降ってくるわけないだろ……』


洋太は耳元がくすぐったいのか、こもった声を漏らしながら身を捩る。半分寝ていて意味のわからない事を呟きながらそのまま眠りに落ちた。

カールはため息を吐きながらカードで会計をして店を出る。首からぶら下がっている洋太をよいしょ、と抱っこし直して、

洋太のポケットから鍵を勝手に取ってガチャ、と家に入る。ベッドに優しく置いて腹を出したまま眠るマヌケ顔の洋太の額にソッと、キスをしてカールは帰った。


二人が正式に付き合った日である。






▲▲






ピク、とポップコーンを食べる手が止まった。


映画の中では、父親が食器のカスや脂が浮いた洗い桶の中に子どもの顔を無理矢理押し付けているシーンが流れていた。

苦しそうにバタバタと暴れる小さい脚。

やかんが口から湯気を噴き出しヒューーと高い音を立てる。

父親が唾を飛ばしながら怒鳴っている所で___


ピッ。

カールはリモコンでテレビの電源を消した。

そして隣を見る。


真っ黒になったテレビの液晶には、ソファで俯いてる洋太とその背中をさすっているカールの様子が写し出された。

ゆっくり深呼吸をして下を見たまま洋太は謝る。


「ごめん、」

「お前が謝る理由はどこにある。少し呼吸が荒いな」

「本当にダメだ俺、いつもこうなって……」


今、二本目の映画を二人で見ていたのだが、虐待シーンが映った瞬間に洋太は心臓がバクバクと暴れ出して急に画面が見れなくなった。

画面の中で父親が子どもを虐げるのを見ていられなくて下を向いてポップコーンをジッと見つめるが、

でも音声だけは鮮明に聞こえるから耳を塞ぐしかなくて、その異変に気がついたカールが慌ててテレビの電源を落としてくれた。

心配そうな目でこちらを見つめるカールに申し訳ない。楽しい時間を過ごしていた筈なのに空気を壊してしまった。

何も聞かないで黙って背中をさすってくれるから、その暖かさに少し呼吸が落ち着いて、顔を上げた。


自分の心の問題である。

これからも付き合っていくなら、このままじゃだめだ。

洋太はすー、と息を吸って覚悟を決める。



「俺の家族の話、聞いてくれるか」

「……当たり前だ」







物心ついた時から俺は虫だった。


虫。害虫。

本当にそれが自分の名前なんだと思ってたし、虫と聞こえたら呼ばれたと思って駆け寄ってしまう。


ある日、チラっと机の下から見たテレビでは虫について放送されていた。

洋太はそれを見て「おれとおなじだ」と頭を捻った。

画面の中の『虫』は小さくて黒かったり、脚が何本も生えていた。

インタビューで「最近虫が多くて困りますよー」だとか「キモいキモい」とか、皆んな虫を嫌ってるのが幼いながらに分かった。


俺の家はとても広い。

おしゃれで見るからにふかふかそうなソファや椅子が装飾の一部のように飾ってあり。

心が踊る楽しそうな部屋には子ども用の滑り台に、ジャングルジム、ブランコが置いてあった。

とても良い家だったけど、

俺が少しでもそれらに触ると吐くまで蹴られるから見てる事しか出来なかった。

触らせてもらえなかったクソみたいな遊具は、結局遊び方が分からないままだった。

俺の髪の毛はまだらに抜けていた。

栄養が足りてないのと、自分で抜いていたからだ。

鏡の前を通る自分の姿は化け物みたいで、思わず発狂しながら鏡を割ってしまったことがある。

初めての反抗だった。

静かな家に思ったよりも派手な音が響き渡ったので、俺はすぐに後悔して頭の後ろがキン、と冷たくなった。


「虫、虫」


呼ばれた。

後ろからだ。

低くも高くもない声は、優しく俺の名前を呼んだ。

破片が刺さった拳を震わせながら振り向こうとすると、髪の毛をガシッと掴まれて動けなくなった。


「この鏡、どうしたの」

「ごへんなさい、ごへんなさい」

「謝るんだ、って事は悪い事をした自覚があるんだね。悪い事って分かってるのにやったってことは、なに。構って欲しいの?」

「ゔー。ぁー、ごべんなざい」


父は優しく諭すようにムチで俺の頬を張った。

ベシンッ!!


「い"ッ〜〜!」


頬を抑えながら泣く俺の前にムチを置いて、父は鏡の横に静かに立っている家政婦に「包丁を持ってきてくれないか」と言った。

頭が凍りついて、逃げ出そうとしたが俺の体はコンドームみたいにヘニャヘニャで力が入らず。父に腕を掴まれれば絶望しながら立っている事しか出来なかった。



「ア"、グッアアーー!!いだぁ、いい」


俺は左足の小指を切り落とされた。


あまりの痛さに泣きながら蹲ってると、父は「今日母さんが帰ってくるまでに片付けといて」と俺に言いながら包丁を家政婦に渡して階段を登って行った。

ゴミのように落ちてる切り落とされた小指を見つめながら、フーッ、フーと痛みに耐え歯を食いしばる。


「………」


虫はいつまでも、いつまでもそうしていた。

冷たい床に蹲って、そのまま溶けて固まって床の一部になりたくて。

苦しみながら意識を失った芋虫は、

次の瞬間。カッと目を見開いて喉が焼けるくらい絶叫した。


「臭い臭い」

「ア"ッ〜〜〜ッ!!」


いつの間にか帰ってきた母が、ヤカンに入った熱湯を俺の背中にかけたからだ。

のたうち周る虫を見て満足したのか母は家政婦に後片付けを任せて部屋に戻った。


「虫は、そうね。屋根裏にしまっといて」

「はい」

「ゔーーッッ」


家政婦は業務的に散らばった破片をホウキではいて、掃除機で入念に破片を吸った。

残った血と胃液も後片付けをしたあと、転がる芋虫をワゴンに乗せて屋根裏まで連れて行った。

俺はそれから屋根裏で暮らす事になった。

屋根裏にはたくさんの虫がいて安心した。

一人じゃないんだ。と

左足と背中がジクジク痛む。どうしても眠れないから暇つぶしにリビングがある所まで這って移動した。

そして長い時間かけて爪で空けた穴から家族の様子を覗く。小さな穴から覗く光景は楽園のようだった。

ソファには白くて大きい犬がゆったりと座って、あくびをしていた。花が飛んでいそうな平和な空気の中で、おだやかに楽しそうに夕食を食べる皆んな。

美味しそうな匂いが天井まで漂ってきて、羨ましくて。俺はずっと寝られなかった。


十五歳になった時、親が死んだ。

なんで死んだのかは覚えてないけど。

犬がクーン、クーンと悲痛な叫びをあげていたのは覚えてる。







「…………」

「ごめん、こんな話を聞かせて」


カールはさっきから無言で、顔を手で覆いながら静かに肩を振るわせている。

部屋は静まり返っており、テレビの電源も落とした今は窓を叩きつける雨の音しかしない。


「そうか親は死んだのか、そうか……」


顔からゆっくり手を離すカールの瞳は、少し濡れていて。それでも、口元は少し笑いながら「俺が殺してやりたかった」とゾッとするほど低い声で唸り。

鬼のような顔でテレビの液晶を睨んだ。

洋太はカールのこんなに怒った顔は初めて見たし、自分のためにこんなに怒ってくてるのかと思うと嬉しくて。


「カール、ありがとう」


と力が抜けたように微笑んだ。

窓ガラスに強い風がヒュウヒュウ突き当たって、窓の縁がカタカタと音を鳴らす。

ザァーザァーザァー

ヒュー、ヒューーーッ

うるさい外の音を掻き消すように、カールは何も言わず洋太を腕の中に閉じ込めた。

ガラス張りの薄暗い室内で二人の影が一つの塊になる。

一瞬目を張った洋太も黙って身を委ねて目を瞑った。泣いているのを悟られたくなかったが、きっとバレているのだろう。

抱きしめる力にギュッと力が入り、洋太は声を押し殺して泣いた。

過去の自分を想う辛い涙でもあり、幸せな涙でもあった。

二人はしばらくお互いの体温を交換し合うようにずっと抱き合っていた。


世界に二人だけしかいないような気がした。




溶け合ってしまうくらい長い間抱擁を続けて、洋太がソッと顔をあげるとカールが優しい顔でこっちを見つめていた。

少し視点を下げると、目の前に曝け出された白く筋の浮いた首がひどく扇情的で冷たくて美味しそうに見えて。

目を惹かれた洋太は、心のままにチロっとその首筋を舐める。するとピク、とカールの体が動いて、洋太の肩をぐっと掴んだ。


「俺は、お前を大事にしたい。いいのか?」

「………」


洋太はグッと押し黙った。

付き合って半年、ずっと怖かった。

背中にある醜い火傷を見られた時、カールはどんな顔をするのだろうか。

夜の行為でバックをする時、カールの視界には必ず洋太の背中が曝け出されるだろう。その時カールは萎えてしまうかもしれないし。

そうなったら俺は、俺がカールを抱くしかない。

俺は全然カールの顔と身体で勃つから、俺が抱くしかないのか!

と、洋太はずっと不安だった。

もちろん抱くのは全然良いのだけれど、カールが嫌がらないか心配もある。こいつにこの身体を見せて幻滅されたくない。もう結構カールの事は好きだし、嫌われたくないのだ。



「カール、さっきも言ったけど俺の背中には火傷の跡があって、えと、カールが萎えるかもしれない」

「俺を情けない男にしないでくれ。お前の髪にさえ欲情してるんだぜ」


カールは黒い髪にすー、と指を通してキスをする。

予想外の返答でボッと赤くなった顔を隠すように洋太は右を向いた。差し出した横顔にキスを落とされる。

目元の次は耳、頬。どんどん唇に近くなるように口付けをする。

洋太は慌てて顔の前に手を持ってきてキスの雨から防御した。


「ん、左顔にキスして欲しかったんじゃないのか?」

「ちがう!」

「仕方ないな」


顔の前で交差させている手を上にどかして、曝け出されたかわいい唇にちゅ、とキスをした。


真っ赤になって暴れる洋太を抱き上げて、流れるように寝室へと連れ込んだ。

本気で嫌がってないことが分かったから。


「ま、まじかまじか」


これから愛の営みをするというのに、洋太はなぞに冷や汗をダラダラこぼしていた。

雰囲気も何もない。

だって、寝室に来るともう、確定でヤるんだよな。

自分が男とヤるだなんて夢にも思わなかった。

急に現実味が帯びてきてとんでもなく緊張してカチンコチンになってしまったのだ。

布団の上でちょこん、と岩のようになった洋太を見るとカールは苦笑いをして「さっき緊張をほぐしきれてなかったか……」と、洋太の頭を撫でた。


洋太は緊張に体を硬くする中で、部屋に視点を向けた。まず、軽い雑談をしようと思ったのだ。

そこで気になったのは、


「なんか、鏡が多いね」


カールの寝室には意外と鏡が多かった。

ベッドのそばにある卓には小さめの鏡。

ドアの横には巨大な全身鏡があり、窓のそばにも鏡が置いてあった。

嫌というわけではないが、少し気になった。


「ああ、気にしないでくれ」

「お、うん…」


返ってきたのは意外と冷たい返答だった。

何か地雷を踏んでしまったか?と少し不安になったが、「カール?」と呼ぶと「ン?」と目を細めながら頬を撫でてくれるので安心した。

そのままうりうり撫でられていると頭がぼーっとしてきて、手に頬を押し付ける。


「脱がしていいか?」

「……!」


きた。

ついに始まるんだ、と胸をドキドキさせながら洋太は「い、いいぞ」と笑った。

カールはずっと緊張をほぐすように撫でてくれるし、目元にキスをされたりして翻弄されている間に、いつの間にか上の服は脱ぎ終わっていた。

生肌が空気に触れると、背中の火傷に意識が向いてしまうが、ここまで来てグダグダ言ってられねえ……と洋太は漢気でズボンは自分で脱いだ。

よく出来ました。と言わんばかりに大きな手で撫でられる。

その時、ガコン!と窓ガラスが揺れた。


「!」

「やけに風がクソ強いな」


びっくりして跳ねた体をカールが抱きしめてくれた。意識してみると、さっきより雨音と風の音が強くなっている。ザーザーザーと屋根を叩きつける雨の音。

今日はここら辺に台風でも来てるのだろうか。


「マァ、これならどれだけ声をだしても外に響かないからな」

「そ、そうだな」


思考を外に向けかけた洋太の意識をこっちに向戻すように、カールはわざと直接的なことを言った。

案の定洋太は顔を赤くしながら分かりやすく狼狽える。

洋太は今下着しか身につけていない。

それに対してカールはまだ布一つ乱していないので不満の眼差しを送ればハイハイ、と上の服を脱いだ。


無言で見つめあった後、

何を言うでもなく二人は抱きしめあった。遮るものが何もない生肌でくっついていると、そのまま体の中に入っていって一つになってしまいそう。

そう考えて、結構アリだな。

と、洋太はより一層ギュッと力を入れた。

カールの腕の中で胸をドキドキさせていると、吐息混じりの低い声で名前を囁かれた。


「なぁ、ヨータ」

「んー……」


ぽやぽやした頭で適当に相槌を打つ。

なんだか寒くてカールの太い首筋にもちっと頬をくっ付けて、横に置いてある鏡を見た。そこに写る自分たちを何気なく眺めていると。

カールは洋太の髪の毛に顔を埋めながら低い声で呟く。


「お前の母は、本当にお前の背中に熱湯をこぼしたのか?」

「………」


洋太はゆっくり鏡から視線を外して視界に入るカールの髪を見た。本当は顔が見たかったが体勢的に難しい。

彼が何を言ってるのか理解できない。

完全に警戒を解いて安心し切っている鈍い脳みそではすぐに処理しきれなくて。

洋太はボー、と口を半開きにしながら考えた。するとカールの腕が緩んだので上を見上げてみると、真顔でずっとこっちを見下ろしていた。美形の真顔は暴力的なまでに美しい。

そして恐ろしい。

洋太が初めて見る表情で、カールは口を噤んでいる。だんだんと頭が冷えてきた洋太はさっきのカールの発言を頭の中で繰り返した。


「……き、急に何言ってんだよ」


これは洋太にとっての最悪の事態だった。

恐らく、今カールは洋太の背中に手を回しているから背中の火傷の感触を感じている筈だ。

それで何かを思ったからさっきの発言なのだろう


「さっき嫌な話きかせちまった、のは悪かったから……」

「………」

「 おい、なんか言えよ……一回離してくれ」

「………」

「カール……」


さっきまで夢見心地の幸せだったはずなのに、急に現実に引き戻された。

なぜそんな事を言い出すのか、カールが何を考えているのか知りたくて。とりあえず距離を取ろうと力を入れるが、どれだけ力を入れても岩のようにびっくりするくらい動かない。

無表情のまま何も話してくれないカールに、だんだんと怖くなり洋太は軽いパニックを起こした。


「一回話し合おうって、力を抜いてくれ!」

「………」

「なあカール!」

「………」

「なぁ、って……」

「………」

「………」


別にトラウマを掘り返されたことに怒っているわけじゃない。ただ、なぜそんな事を聞いてきたのか知りたいだけだ。

なのにこいつ人形のように口を閉じて、緑色のビー玉のような目でジッと見つめてくる。

共通点として嬉しかったはずの瞳が、今は怖い。

それなら負けじと睨み返してたらついにカールは口を開いた。


「じゃあ、なぜお前の背中はこんな滑らかだと思う」

「は……?」


返ってきた言葉は想像にもしていないものだった。

今、こいつは背中が滑らかだと言った。

嘘をついているようにも思えなくて洋太は眉を顰めた。


「左足も見ろ」

「…………」


困惑を超えて少しだけイライラしながら言われた通りに左足を見てみる。

親指、人差し指、中指、薬指。


「……」


いつも左足にはこの四本の指しかなかった。

しかし洋太は固まって息を呑んだ。

____おかしい。


「、なんで小指があるんだッ!」


悲鳴のような問いかけだった。

なんと、左足は綺麗に五本指が揃っていたのだ。

当たり前に右足もだ。かけている指なんてどこにもない。

汗が吹き出して目を見開いた洋太の肩にコツっと顎を乗せて、カールは悪魔みたいな声で続ける。


「背中が痛くて眠れない日もあった……本当に?」

「な、……」

「鏡を見てみろ」


洋太達がいるところはちょうど、合わせ鏡になっていた。恐る恐る、目の前にある卓上鏡を見て洋太は声も出さずに絶句した。


「な、なんで」


写った洋太の背中は、火傷どころかアザ一つとない綺麗な背中であった。カールはその滑らかで傷一つない肌を指でなぞった。

洋太はハッとして思わず鏡から目を逸らして眉を寄せた。

何故ならカールの顔がこの世の者とは思えなかったから。

とてもとても恐ろしい顔で鏡越しに洋太を睨んでいて、完全にいつものカールじゃなかった。そして今気がついたのだが、

こいつ一回も瞬きをしなかった。それが妙に頭に残って、目の前の男は人間じゃないのかと腑に落ちる。


カールは肩に乗せたまま顎を動かして、ガラガラのしゃがれた声をだす。

話すたびに顎が動いて肩に振動が伝わって来た。


「思い出せよ。本当の過去を」

「……っ」


耳元にダイレクトで伝わる声はもう誰のものか分からなくて、洋太は恐怖で泣きそうになった。

ずっと裸で抱きしめられて、側から見れば愛し合っているように見えるだろう。

洋太はもうカールの背中に手は回す事は出来なかった。いつの間にか目の前の体からは体温という体温が失われて冷たくなっていたから。

まるで死人のように。



冷静に今の状況を整理しよう。

いつも靴下を履くときに視界に入っていた足は決まって小指が無かった筈。その度に親に対する憎しみをふつふつと募らせていた。

雨の日はなぜか背中の傷が疼いて、ベッドで汗をかいていたのに。

……今日は何故か平気だったな。

洋太は目を瞑って必死に暗い過去を振り返る。

どんどん頭に流れ込む幼い頃の記憶。



ああ、そうだ、

親父は俺にスケートボードを買ってくれたっけ。


温かい母の手料理のなかで、やっぱりハンバーグが一番好きでいつもワガママを言っていた。

子ども部屋にある遊具で遊ぶのが大好きで……


「……ちがうッ!!」


今のは何の記憶だ!

ワガママなんて言える立場じゃなかった。

母の手料理なんて食べたことがなかった筈だ。

いつも屋根裏の虫を食べてた!

犬の餌を狙ってた日もあったくらいだ!


でも、なぜか今、洋太の頭の中に浮かぶのは温かい家庭だった。

親父はいつも優しくて、勉強を教えてくれたり釣りも教えてくれた。

母も厳しかったけど、お化けが怖い時は一緒に寝てくれたし、ちゃんと俺の事を愛してくれていた。

犬のおもちと庭で遊びまわって、服に泥がついて母に何やってるのよ、と笑われた記憶もある。


あぁ頭がおかしくなりそうだ。

どんどん違和感が拭えなくなって、記憶が二つあるみたいに、幸せだった記憶と地獄だった過去がぐちゃぐちゃに混ざり合って。

そんな洋太を見ながら目の前の男は嬉しそうにグッと腕に力を入れた。


「思い出したか? お前の本当の過去を」

「ほ、んとうの……過去? 違うんだ、俺は屋根裏で生きてたし! あの人たちから愛されたことなんて一度もなかった!」

「じゃあなんでお前の小指は生えてるんだ?」

「………っ」

「背中には火傷なんてなかった」

「………」

「そもそも、お前は自分の誕生日さえ知らないはずだろ?」

「あ、……」

「名前すら知らない筈だ。だって戸籍がねえから。虫だから」


一つ一つ、潰されていく。

洋太の地獄の過去が、丁寧に潰されていく。

そこでやっとカールは腕の中から洋太を解放した。

改めてカールを正面から見てゾッとした。

さっきまで綺麗に生えそろってた金髪は半分ほど抜け落ちており。窪んだまぶたは影を落として、こけた頬には傷跡が残っていた。

それもまるで鞭のような傷跡が。

カールは恐ろしい顔でカタカタ笑いながら後ろを向いて洋太に背中を向けた。

急になにを、と思ったが、洋太はそれを見て目を見開いて固まった。


「は……?」

「痛いよなぁ。火傷は、苦しくて苦しくて夜も寝られないよな」


骨が浮いたカールの背中には、痛々しく爛れた火傷跡が残っていた。その頃になると洋太は汗が止まらなくなって酸素を吸うのに必死だった。

とどめに彼は左足を洋太の前にドン!と乱暴に差し出した。


____そこには小指がなかった。



それが決定打だった。


洋太は叫んだ。

全てを、思い出したのだ。



「お、俺は」


俺は……虫なんかじゃなかった。


雷を受けたような衝撃が体を走る。

あり得ない。あり得ないのにどんどん無慈悲にも思い出される幸せな記憶の数々。


それは小川洋太の本当の過去だ。


ちゃんと名前も授けてもらった。

子どもとしてあの両親に愛されていた。

でもそれは彼にとって耐え難い事実だった。今まで自分が信じてきた、匂いも痛さも本物だった。虫だった頃の過去はなんだったんだ。

今の現実は到底受け入れられるものではなかった。自分がなにか分からなくなって、足元が不安定で立っていられない。


「そう、そうそうそそう」

「ハァハァ、」

「お前はあの家で愛されてたんだよ!!やっと思い出したか!」


カールは歯を見せて不気味に大笑いした。

といっても健康に生えている歯は一本もない。口の中は真っ黒で人間とは思えなかった。


「あああ!」


バリンッ!!

部屋中の鏡が突如として割れた。

目の前にあった卓上鏡が割れて破片が洋太の頬を掠った。外の雨は止まないどころか強くなっている。

ザァーザァーザァー!

ヒューーガタガタガタ!

窓が外れそうなほどの豪風が吹き荒らし。

堪えきれない大砲のようなカールの笑い声と洋太の悲鳴をかき消した。

一時的に雨の音が静かになってくると、それと共鳴しているかのように、フッと真顔に戻ったカールは低い声でボソボソと話し始めた。


「そう、オレは昔鏡を割ったんだ。そしたら頬に鞭を打たれて小指を切り落とされた」

「そ、それは俺の記憶じゃ、……」

「覚えてないか? お前の幸せなドールハウスには一つ、異物が紛れていたのを」

「………え」

「虫はオレだ」


心当たりがある。

でもそんなわけが無い、と否定したくてなんとか昔の記憶を思い出す。

だって、それが本当だとしたら____




もうほとんど霞んでしまった幼い頃の記憶。

温かい食卓を囲みながらテレビを見て仲良さそうに笑い合う両親。

洋太はスープで顔を汚しながら話して、その顔を見てまた笑われて。洋太は幸せだったし、それが全てだった。


視界の端、遠くの影に立っている不気味に痩せ細った化け物を除けば。


いつも部屋の暗いところで爪を食べてる男。

幼い洋太はこれを「空想の怪物」だと思い込んでいた。しかしそれこそが本当の虫で……


洋太の兄だったのです。


虫はいつも、部屋の隅から洋太達を見ていました。

でもある時を境にその虫は姿を見せなくなりました。それで幼い洋太はなんだか安心して一人で寝られるようになったのです。

だって今までは怖かったから、いつその怪物が襲ってくるか分からなくて。

その虫は屋根裏で死んでたらしい。

原因は分からない。

栄養失調かもしれないし、感染症かもしれないし、背中の火傷のせいかもしれない。

どれにしろマトモな死に方じゃなかった筈だ。


その六年後。

洋太が十五歳になったタイミングで両親は死んだ。

事故死か、自殺か。

母はベッドの上で窒息死。

親父は地元の友人と釣りに行ったまま海に流されて帰ってこなかった。

洋太はその知らせを聞いた時、悲しくて嗚咽しながら泣いていた。遺産を貰って親戚の家に住まわせてもらってる間もご飯が喉を通らないほど悲しくて。

夜はベッドの上でずっと泣いて、泣いて泣いて。

急にどうでもよくなった。


それどころか憎んでいた両親が死んで清々したとさえ思った。

洋太はこの時からカールに取り憑かれていたのだと思う。

そもそもおかしい。ドイツになんて興味なかったのに、なぜ洋太はドイツに来たのか。

自分の意思ではなく、まるで招かれたように遺産を使ってドイツまでやって来た。

突然何かに取り憑かれたように荷造りを始めた洋太は、親戚の人からすると気味が悪かったかもしれない。



「オレの過去をお前は自分の過去だと思い込んだ。いや、思い込ませた」


全てが分かって唖然としたまま生え揃った左足を見つめてる洋太に向かって、

カールは子守唄を歌っているみたいに低い、ゆったりとした笑顔で言い聞かせた。


「感動して泣けよ。死んだ兄が目の前にいるんだぜ」

「あ、兄なんかじゃ、」


口では否定したけど分かっていた。

もう全てを思い出してしまったから。そしてさっき聞かされた話も照らし合わせると必然的に導き出される答え。

洋太の目の前にいるこの男こそ……


「紛うことなき血のつながった兄弟さ」

「………」

「そしてお前が十五になった時アイツら(両親)を殺した。犬は殺さなかった。カワイイから」


復讐しにあの世からやって来た。

いつも部屋の隅にいたあの怪物がこうして目の前に化けて出た。

聞いてるうちにどんどん三半規管が狂って、ジットリ胸の奥が重たくなる。

頭から血が足りなくなってクラクラして、ウ、と口を抑えた。


「だから次はお前なんだよな」

「……っ、ゲェッ」


洋太はベッドの上に吐いた。

自分の両親を殺したやつが目の前にいて、愛していたカールの正体は化け物だった。

この状況も全部、苦しいのも吐いて外に出て行ってしまえばいいのに。

洋太にとって本当に、ショックだったのは、

一番の悪魔は自分の両親だった事。

冷静な頭で考えれば、カールは自分たち家族に殺された可哀想な被害者なのだ。

家で部屋の隅を掃除していたガリガリの背中を思い出す。

震える洋太の頭をカールは底冷えするような鋭い目で睨んでいた。

起き上がりたかったが力が入らず泣く事しか出来ない。十五歳までは幸せな家庭の記憶を持って生きて、それから今日まで四年間、偽の地獄のような記憶を植え付けられていたのだ。


さっき「次はお前」とカールは言った。

これの意味するところがわかった洋太は頭から血が引いて勢いよくベッドの上から飛び降りる。扉から玄関まで行くよりも目の前の窓から外に出る方が早いと判断した。

そして震える手で窓をガチャガチャ弄り開けようとした。こいつから逃げるのだ。

扉から玄関まで行くよりも目の前の窓から外に出る方が早いと判断した。

手が震えて鍵が開かない。

はやくはやくはやく逃げないと。


「開けよッ!ふざけんな、だせ!」


開かない。

髪を振り乱して泣きながら窓をドンドン叩いた。

洋太がどれだけ叫ぼうとも雨吹雪にかき消されて誰にも届くことはない。

手が痛くなるほど叩いてる横に、枝のような、骨のような手が重なる。

ゾッとするような吐息が耳にかかった。


フーッフー!と洋太は肩で盛大に息をして、半分過呼吸のようになりながら、

ゆっくり震える口を開いた。


「ど、ッ……」


手の先が凍るように冷たい。



「どんな気持ちで、兄弟にキス、してたんだよッ!」


泣きながら半分怒鳴るように叫んだ。

大荒れの空が見える窓を背景にしながら、肩で荒く息をする洋太を見て、虫は言った。



「死ね以外ないだろ」






▲▲






小川洋太は廃墟で発見された。

話す事も大変な体の状態で必死に事の経緯を訴えたが、そもそもカールという人物の家なんてなかった。

洋太は最初から最後まで一人で廃墟にいたらしい。発見された時にはまるで死体のように痩せた体で、廃墟の窓枠につかみかかっていた。と救急隊の方は言っていた。


奇跡的に一命を取り留めた洋太は、病院のベッドの上で廃人のように宙を見た。



ガリ、ガリ


まだ病室の隅に痩せた怪物がいて、爪を食べながらこっちを見ているような気がした。








続くかも

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