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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
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朝の嵐

第二次長州征伐の終結からこちら、政治の舞台では矢継ぎ早に重大事件が立て続けている。

高杉の死よりも先んじて、慶応2年12月、激烈な攘夷思想の持ち主であった孝明天皇が崩御する。長州征伐における幕軍の敗北と重ねて、京の政界における風向きはだいぶ変わった。平たく言えば、長州に有利になった。

無論それでも、京には将軍後見役たる徳川慶喜(前将軍が歿したというのに、なかなか将軍職を継ごうとしない)、彼御自慢の幕府歩兵、京都守護職会津藩主松平容保、精強を誇る会津藩兵がいすわり、頑として長州をよせつけない。

そんななかを、薩摩勢と攘夷派公家は約一年かけて暗躍する。

その結果、長州はさまざまな口実でもって家老を京に送り込み、ようやく征夷大将軍職をついだばかりの徳川慶喜と会見することを許された。

無論、口実である。家老たちの連れていく供に偽装して、軍勢を京および京の近郊まで上らせる。その真の目的は当然、軍事クーデターであった。

まあ当然というべきか、幕府側もそう呑気ではいなかった。

偽装長州軍事が上京の途上にある慶応3年10月、突然、大政奉還が成る。

徳川家がーーー個人に集約するなら慶喜がーーーみずから政権を投げ出すという奇天烈な策に及んだ真意は、政権の頂点から自身は身を引き、これまで自分達徳川宗家が座っていた位置に天皇を座らせ、自らはその首席家老の地位につき、要するに日本国のNo.2として国家運営の実権を握る、そういう新体制をつくることを目論んでいたようだった。

江戸徳川時代どころか武家が政権を握って700年近くの間、京の帝と公家貴族たちは天下の政など執ったことがないのである。ノウハウなどあるわけもなく、結局は徳川家を頼るしかあるまい。

実際、朝廷は最初、徳川家を除いた各地の有力大名を招集して諸侯会議を開く予定だったが、これが予想以上に難航したのである。

招集が成るまでの期間限定ながら、朝廷は、征夷大将軍職を辞した慶喜に引続き政務処理を委任したから、結果的には慶喜による徳川家の政権が継続することになり、その意味では慶喜のもくろみは半分的中したと言っていい。

が、その諸侯会議の招集難航中に、しびれを切らした薩摩藩を中心とする西国雄藩が結託し、あらためてクーデターを起こす。

12月9日、突然、王政復古の大号令、および新政府の樹立が宣言された。

その前日の12月8日には、どさくさにまぎれて長州藩主毛利敬親とその世子は剥奪されていた官位を復される。これにより、禁門の変いらい朝敵とされて来た長州はその名誉を回復。官位がないため京に入れず近郊に待機していた長州軍は、復位の報せがあった8日当日の夜のうちに入京していた。

新政府の樹立は、禁門の変と2度の長州征伐を戦い抜いた歴戦の兵たる長州軍と、平安の昔より精強無比を誇る薩摩軍、おもに二藩の軍事力を背景に、文字通り銃口から生まれた。

そして慶応4年の年明け早々、鳥羽伏見の戦いが勃発する。

そののち、丸一年以上に渡る戊辰戦争の幕開けであった。



本来ならば蔵六は、長州軍の総司令である以上、戦闘指揮のために京にのぼらねばならぬはずであったが、これは桂が止めた。

「正直に申しまして、この戦、私は勝てるとは思っておりませぬ」

勝てぬ戦に蔵六を行かせて、みすみす死なせたくはないのは当然のことである。というか桂は本来ならばまだ幕府側と正面切って戦うには時期尚早と思っていたし、そもそも作戦参謀であるところの蔵六自身が以前からそう主張しているのだが、

「幕軍が大阪まで出張ってきている以上、戦わぬという選択はない」

と、薩摩が強く主張していた。

これはこれで当然の主張ではある。なし崩しに今後も国政の実権を徳川家が握り続けるという策が潰された慶喜が黙っているはずはない。幕軍にくらべて新政府軍は、数の上で圧倒的に劣勢で、どうでも戦いたくないのであれば講和するしかないが、事ここに至って慶喜が中途半端な条件で折れるはずもなし、結局は戦うしかない。

そんなわけで桂は、しぶしぶ開戦を認めた。ただし緒戦はまず負けると踏んで蔵六を出し惜しんだ。どう頑張っても内戦はしばらくの間続くのである。

が、蓋をあけてみれば、結果は劣勢もいいところの新政府軍(主力は薩長土)の勝利であった。

圧倒的な数の優勢を誇った幕軍であったが、鳥羽伏見で本気で奮戦したのは会津・桑名藩兵と新撰組ぐらいのものであったという。事情は様々にあろうが、要は第二次長州征伐の時と同じであった。

さらには、新政府軍側に錦旗が出た。

岩倉なにがしなる公家の謀略家の発案だという。これで幕軍の総崩れは決定的になった。総大将たる将軍慶喜などは幕艦開陽丸に飛び乗って江戸に逃げ帰ってしまった。

蔵六が京に入ったのは、鳥羽伏見の約ひと月後である。

軍防事務局・判事加勢という肩書が与えられたが、これは決して高い地位ではない。本来なら単なる事務方である。ただし蔵六の上官にあたる判事たちは皆公家や大名で、実務には当たらない。実際の仕事は蔵六がやる。とはいえ、後方勤務ではある。

新政府軍の主力部隊はすでに東征に出発しているのであった。京に残されているのは留守番部隊のみで、そもそも元の全軍の数が少ない中で大半が出払っているのだから、軍事力的には京は空にひとしかった。

「申し訳ありません、なにしろ先生は有能すぎますので」

こちらも留守番組の桂の言だが、別に蔵六をおだてているわけではない。

桂は、薩摩と長州の衝突をおそれている。

「おそらくですが薩摩には、戦巧者はおりませぬ」

一個人の武勇にすぐれた者ならいくらでも居るが、一軍の指揮、ことに蔵六のように、作戦立案が出来る者が居らぬ、と桂は言う。

「一応、伊地知なにがしという者が西郷の傍らで軍師役をつとめているようですが、大した能のある男ではないのは明白です」

薩摩藩の実質的な頭目、西郷は人望、政治力こそ比類ないが、軍事的能力は未知数であった。鳥羽伏見での戦いの最中はずっと御所に詰めており、直接陣頭で軍の指揮を執ってはいない。にもかかわらず、現在は薩摩と長州の藩兵のほとんどを率いて東下りを敢行中であった。その相棒である大久保一蔵は謀略、陰謀の才では右に出る者がないが、やはり鳥羽伏見の最中は御所詰めで、こちらも軍を采配する能力はおそらくない。

蔵六などはむしろ、よくこれで鳥羽伏見の戦に勝てたものだと思いたくなる。

「一方で我が長州には先生、あなたが居る。申し訳ないことですが、今はそこが一番問題なのです」

政治的な状況をかんがみれば、今の新政府軍の真打ち主役は誰がどう見ても薩摩であった。

その薩摩をさしおいて、長州が変に出しゃばって悪目立ちをするわけには行かぬ。

桂は薩長同盟締結以降、徹底して薩摩に一歩をゆずり、可能な限り長州を前面に押し出さぬようつとめてきた。

「薩長同盟は表向きこそ対等の同盟ではありますが、実態はとてもそうは言えませぬ。圧倒的に薩摩優勢、長州は劣勢が現実です」

何と言っても長州が禁門の変で朝敵となり、官位を剥奪されていたのが大きかった。京の帝を担いで倒幕戦争を起こす以上、朝臣(朝廷の臣下)の列にはどうしても復さねばならぬ。

そして、朝廷における長州の復権運動を一手に引き受けたのが薩摩なのだった。

つまり長州は薩摩に巨大な借りがある。である以上、なにごとも薩摩を立て、出しゃばりは極力控えねばならぬのである。

もし蔵六が、新政府軍を率いて華々しい武勲をたてたりしたらどうなるか。新政府軍の主力である薩摩と長州の軋轢は必至であろう。首魁であるところの西郷は、驚くほど懐が深いと言われる人物であり、少々のことで気を悪くすることはなかろうと思われるが、彼に心酔する薩摩藩士たちの全てが西郷同様に心が広いとは限るまい。

「その意味ではむしろ、薩摩に天才司令官のひとりも居てくれて、幕軍相手にあざやかに勝利をおさめて大活躍でもしてくれていた方が面倒がなくて良かったのですが」

そう桂はぼやく。

もっとも、そんな事を考えているのは新政府のなかでも桂くらいのものであろう。大概の者は稀代の英雄大西郷をして万能の天才のように思っており、当然のように軍の指揮でも抜きんでた才を発揮してくれるものと思っている。

そのように思われている西郷の希望だからこそ、ただでも少ない新政府軍の大半を率いて、本拠の京を空にしてまで東下を許されてしまったのだった。

東下を主張したのは本当に西郷ひとりで、桂は無論のこと、大久保も、岩倉卿をはじめとする公家連中も他藩の面々も、皆揃って東下は時期尚早と反対したにもかかわらず、である。

「西郷殿は、なにはともあれ勢いというものに乗ることが肝要、兵力の多寡は論ずるに値せずと主張されました」

桂は、まずいものでも喰わされたような苦々しさである。

他の要人がどれほどこぞって反対しようがするまいが、西郷をとめることは出来ない。それほどまでに西郷吉之助なる人物の重みは大きくなってしまっているらしい。倒幕戦争もまだとば口という地点でこれはどんなものだろう。

「桂殿は、西郷なる御仁がお嫌いですか」

ふと蔵六は、そんな事を聞いてみた。

不利な条件で協力体制を結ばねばならず、先方の我儘に振り回されて文句も言えず、腹が立たぬ訳はないだろうが、ただ政治家同士が利害関係で揉めて険悪になっているだけではないような気がした。

「先生の慧眼には敵いませぬ」

桂は苦笑したが、一見いつもとかわらぬように見えて、目が笑っていない。

「彼の御仁、私がオメガであることを知っていました」

「…それは」

流石の蔵六も、つい動揺した。

桂がオメガであることは藩外不出の極秘事項である。長州人でも知らぬ者は知らない。重大な機密漏洩ではないか。

「まあ薩摩も馬鹿や無能ではありますまいから諜者くらいは使いましょう。知られるだけなら仕方ありますまい」

めずらしく、今回は蔵六の方が動揺し、桂の方が落ち着いている。

桂いわく、政治的な状況からして、先方無意味に言いふらすような事は決してせぬであろう、と言う。

「自分でこんなことを言うのも何ですが、もし今、私が失脚するような事があれば、それは倒幕勢力から長州全体が撤退するも同じこと。薩摩も自分たちだけで倒幕は無理と思えばこそ、我が長州を仲間に引き込んだのですから、自分で自分の首を絞めるようなことは致しますまい」

まさか桂が本当に失脚したとて、実際には他の誰かが後釜に座るだけで、本当に長州藩が全面撤退するような事はなかろう。しかしその場合は間違いなく長州内部で内紛が起こるに決まっている。桂ほど実績豊かで求心力があり、他藩にも顔の利く政治家は居らぬのである。誰が後釜に座ったところで桂の半分の働きすら出来まい。結果的に、全面撤退するのと大差ない状態になるであろう事は蔵六も同意見である。

であるからそのへんの心配はしていない、自分が不愉快なのは少し違う辺りだ、と桂は言う。

「何がありました」

「まあ一応の覚悟はしていたつもりでありましたが、やはり人というものは頭の固いものでありますな」

どうも、すでに何やら一揉めあった後らしい。

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