the outer mission
江戸城が、無血開城された。
ひきかえに慶喜を助命したが、これは元々、事前に新政府内では要人一同全員一致で決していた事である。が、最終的には徳川家の全権代理人たる幕臣勝海舟と、東征大総督参謀西郷吉之助の間で交わされた会談で決定したため、なし崩しになんとなく西郷ひとりの手柄であるかのような空気が蔓延した。
あまつさえ、要人一同は全員慶喜を殺したがっていたが、西郷一人がそれに反対し、彼の鶴の一声で助命に決したという風聞すら流れた。
そろそろ京の留守番組のあいだでは、桂だけでなく他の長州人、他藩の者、岩倉や西園寺といった公家あがりの面々にまで、
ーーー西郷は専横にすぎる。
と言われるようになって来た。
そんな中で蔵六ひとり、例によって口には出さぬから誰も知らないが、周囲とは全く違った事を考えている。
(徳川家には感謝せねばならぬ、内戦を避けるためなら店仕舞いも辞さぬか)
実際には内戦がもうこれきりにはなるまい。もう少々続くのは仕方がない。しかし恐れていたほど長引かずに済みそうだった。
それは、徳川家が、敢えて執拗な抵抗を続けず「上手に敗ける」ことを選択してくれた結果である。
フランス式の調練を受けた幕府軍、オランダ留学帰りの提督榎本武揚率いる幕府海軍、この両軍だけでも、真正面から衝突すれば勝ち目はない。そのため蔵六は少ない手勢でゲリラ戦の計画すら立てていた。帝を担いで各地を転々としつつ戦い続ければ、数年後あたりに勝機がないでもない。
が、もし徳川家が確実必勝を期するなら、蝦夷地や横浜港あたりを列強の何処かの国に売り飛ばし、かわりに戦費と武器を出させる、場合によっては軍隊そのものを出させる挙に出るかもしれなかった。
これをされればゲリラ戦もへったくれもない。新政府軍は確実に敗北するだろう。そうなれば徳川家はあいかわらず将軍の地位に就き続けるであろうが、そのかわり日本は間違いなく何処かの国の植民地となる。徳川は名目だけの将軍となり実権は列強が握るだろう。阿片戦争後の清国の二の舞である。
倒幕と佐幕とを問わず、当時の知識人の共通認識としてあるのが、
「日本を清国の二の舞にしてはならぬ」
であった。
自国の領土を他国に蚕食され、同胞を隷奴に落とされ鞭打たれながら過酷な労働を強制される。他国人が我が物顔でのし歩き、彼らがどれほど無法な真似をしても法で裁けず何も出来ない。蔵六は日本から出た事は残念ながらまだないが、今は亡き高杉が上海に渡航したときにそのままの光景を目の当たりにした、その様を繰り返し語っていたのを何度も聞いている。
その時高杉は、幕府要人の個人的な下僕を装って幕府艦の千歳丸で渡航したのである。そのころはまだ幕府と長州の仲はそれほど険悪ではなく、希望があれば(長州に限らず他藩にも)そういう融通を利かせてくれていた。
当然ながら、幕臣連中も高杉と同じ光景を見ているはずなのだった。
ただし、そうは言っても必ずしもそういう識見を持つ者が柳営で決定権のある立場にいるとは限らない。所詮は希望的観測にすぎず、蔵六もことさらあてにしているわけではなかった。
実際に、小栗上野介なる譜代の幕臣がフランスから巨額の金を借りて戦い続ける算段を立てていたと言う。しかし肝心のフランスが内紛により極東日本のことなどかまっていられなくなり、小栗本人も将軍慶喜の不興を買って蟄居させられ、この案は幻に終わった旨を蔵六は後日知る。
このときばかりは蔵六も、その頃はすでに勝敗決していたにもかかわらず、心底胸を撫で下ろしたものだった。
そして、その小栗と真っ向対立していたのが現在の徳川家全権代理人たる勝であったが、蔵六はそんな事までは知らない。
ただ、鳥羽伏見の敗北後、幕府陸軍は江戸を脱し、或る者は甲府へ向かい、或る者は関東東北の各地へと散り、幕府海軍は榎本に率いられて蝦夷地へ去った。
いずれは逐わねばならないが、ともかく幕軍戦力がひとつ所に固まらずに分散してしまったのは確かである。江戸を火の海にしたくなかった勝の手品という説があるが、無論、証のある話ではない。
しかし、だからといって江戸全体が平和に武装解除されたわけではなかった。
むしろ江戸市中は日を追うにつれ物騒になってゆく。江戸無血開城時の取決めにより、市中の治安警察権は徳川将軍家の分家、御三卿のうち一つ田安家が担当していたが、現実にはなにもしていない。
江戸市中は、無法地帯も同様の状態になった。
昼日中から盗賊物盗りが横行し、火付け辻斬りが頻発した。市民は真昼でもろくに道も歩けぬ有様に陥ったが、西郷は勝との信頼関係を何より重視優先し、その約定を馬鹿正直に守って市中の治安には一切手を付けようとしない。そもそもそのための十分な戦力すらない。北関東各地に散った旧幕府陸軍は各地で大小の紛争を起こしている。何よりそれを鎮めねばならず、ただでも少ない東征軍の戦力の大半はそちらに取られてしまう。
江戸城に本拠をおいた東征軍本陣は、いわば敵地にあって丸裸同様の無力さであった。
当然ながらこの東征軍は、その何割かを長州軍が占めている。これまた当然ながら、そのなかには蔵六の教え子が多く居り、かれらが折に触れて状況を報告してくれる。それが、日に日に悲痛さを増してゆく。
「長州は、決して出しゃばってはならぬ」
桂の訓戒はまもらねばならぬし、そもそもそんな訓戒などあってもなくても、一介の長州藩士ごときが大西郷の方針に口出しなどできるはずもなかった。
蔵六も、そういう悲鳴じみた報告を連日受けたところで、東征軍に対して何の権限があるわけでもなく、何かしてやれるわけではない。
蔵六が、いま毎日京にあってなにをしているかと言えば、御親兵づくりであった。
帝を頂点に戴く新政府の直属の軍隊をつくるのである。具体的に言うなら新兵の募兵と調練であった。
現在、京の新政府の中核を担うのは薩長を中心とする西国の反幕各藩と公家たちであるが、その持てる兵力はと言えば、ただ数の上で乏しいと言うだけでなく、各藩の藩兵の寄り合い所帯で、それぞれの本来の上役である藩の代表者たちの言う事しか聞かぬ。もし各藩要人どうしが対立するようなことがあれば確実に分裂するであろう。その結果どうなるか。新政府の瓦解、これひとつしかない。
旧幕勢力もそれを期待し機を待っている。当然の事であろう。
従って、新政府直属軍をつくらねばならぬとなるのは当然のなりゆきだが、だからと言って一朝一夕に兵が育つのならば誰も苦労せぬ。今からずぶの素人を連れてきて調練をほどこし、戦場でものの役に立つ兵士にするにはどう少なく見積もっても数年はかかる。そういう、成果が出るまでに時間のかかる仕事を進んでしたがる物好きはそうはおらぬ。あえてそんな損なーーー短期的にはーーー仕事を引き受けるのはそれこそ蔵六ぐらいのもので、押し付けられたものを文句も言わず黙々とこなしている。だから変人だのなんだのと言われるのだが、蔵六にしてみれば長州でやらされていたのと同じことを京でもしているだけであった。第一、それが命令であるならば否やもなにもない。
そんな折に、江戸から、江藤新平が駆け戻ってきた。
「あれでは、どうにもならぬ」
江藤は東征軍軍監に任じられていた。東征軍全体を監査せねばならぬ立場であるから、西郷とは別ルートで東下し、勝と西郷の江戸無血開城会談の直後に江戸城内の文書資料を残らず接収するなど事務方の地味だが重要な仕事で成果をあげた。
やはり西郷は、軍事能力はどうか知らぬが(まだ交戦していない。慶応4年3月6日に甲州勝沼で甲陽鎮撫隊を撃破した官軍東山道軍司令官は土佐藩士板垣退助)、政治的な判断は確かではあっても、実務能力はいまひとつなのは確かであるようだった。
正直、蔵六などは政治的判断力さえ疑っている。
これまでは実務方面は大久保が担っていたが、実務が山積みなのは京も同じで、と言うか京の方がよほど切羽詰まっており、大久保まで東下させるわけにはいかぬ。あるいは蔵六以上に実務家の江藤には、大久保が側におらぬ西郷の様子は野放図にしか映らず、腹に据えかねるものがあったようだ。
「彰義隊なる武装集団、あれをどうにかせぬうちは江戸が新政府のものになったなどとは到底言えぬ」
無法地帯と化した江戸市中の治安を回復するという名目で、旧幕臣の子弟を中心に、そういう自警団が出来ているらしい。出来ただけでなく毎日のように東征軍の兵士と軋轢を起こしているという。
江藤はみずから乞食に化けて江戸の街中にひそみ、その様子をつぶさに観察し、そのまま江戸をいのちがけで脱し、ろくに夜も眠らず走り続けて京へと戻ったのである。
この江藤は、佐賀藩の出身である。薩長の微妙に対等でない力関係にはほぼ全く関係がない。だからこそ東征軍軍監にえらばれたのだが、その江藤の報告のおかげで、桂以外の京の留守番組のお歴々も事態を重く見てくれた。
ほどなく、蔵六は軍防事務局判事に昇任。
これまでは同局の判事加勢という肩書で、実態はひとりで実務を担っていたとはいえ、表向きはいわば判事(局長)の助手のひとりでしかなかったのだが、唐突に新政府軍の全てをつかさどる同局の局長にさせられてしまった。
「ここまで来てしまいましたら、もはや是非もありませぬ」
桂の表情は重い。
判事への任命と同時に、蔵六の東下が正式に決定したのである。
東下して何をせよ、と具体的な活動内容の指示があったわけではない。ないが、まさか今時分、江戸に下るとなれば、その職責において旧幕軍と戦いこれを殲滅する、その他にすることはなかろう。
もしこれで、蔵六の肩書が判事加勢のままであったのなら、特に悩むようなこともない。単に西郷の助手をしに行くだけで済む。
問題は、軍防局判事などという大層もない地位に昇格させた上で行かせる所にある。
新政府の人事制度などというのはまだまだ泥縄式のいい加減なもので、西郷の東征大総督参謀という肩書きと、蔵六の軍防局判事と、職制上どちらが上で下なのか、命令指揮系統がどうなっているのか、いまひとつ判然としないのである。
現在の江戸では名目上、東征大総督を宮様がつとめ、その参謀である西郷が独裁権を握っているわけだが、東征軍の参謀(西郷)と軍防局判事(蔵六)のどちらが立場が上であるかもしれず、そのように上下関係のあいまいな肩書の持主どうしをひとつところにあえて置くというのは、一体どんな含みがあるものか。
「要するに、私に西郷殿にとってかわれとの思し召しですかな」
「…そうおっしゃられるからには、先生には、そのおつもりがおありですか」
とってかわれるのならばまだ良い、潰し合いをして共倒れをせよと言われているようなものだ、と桂は言った。
蔵六の昇進と東下、どちらも実は桂みずから言い出したことではなかった。積極的に後押しをしてもいない。ただし、反対もしなかった。
桂の性分として、いささか慎重派にすぎるというか、悲観的にものを考えがちであった。蔵六の、あいかわらず他人事のような物言いに、むしろうらめしそうですらある。
蔵六にしてみれば、とってかわるにしろ潰し合うにしろ、新政府上層部の思惑など、正直どうでも良かった。
昇進させられたものを断るわけにも行かぬし、命じられれば江戸でも何処でも行く。行った以上はそこで勝つために最大限の努力をする。その上で、邪魔になるものがあるなら排除するしかないし、それは敵の旧幕軍だけでなく味方のなかにもいるかもしれぬ。味方であっても勝つためならば排除にためらいはせぬし、仮にそれが勇名比類なき大西郷であろうが無名のぼんくらであろうが同じ事である。
もし本当に大西郷を排除せねばならぬような事態に陥れば、それは大混乱が生じるであろうし、彼を神の如く崇める薩摩藩士たちが激昂して切りかかってくるかも知れぬ。が、それはそれで、仕方のない話であろう。
余人が知れば狂人と思われかねないような事を、蔵六は、馬鹿馬鹿しいほど簡明かつ断乎として思っている。
桂とても、蔵六の考えるところは十分すぎるほど理解できる。
ただ桂には思うところがあり、蔵六に、早死にをして欲しくはない。
ここしばらく桂はあまり体調がすぐれなかった。若い頃に濫用せざるを得なかった旧い抑制剤の副作用の影響が、どうもそろそろ出てきたようだった。
いまのところ桂本人と、番にして主治医でもある蔵六以外に、このことを知る者はまだ一人としていない。
「自分亡き後、長州を、そして日本を背負って立つのは、先生以外に居りませぬ」
「桂殿、心配性が高じて言葉が大袈裟になっておられるだけなのは解りますが、いささか悲観が過ぎはしませぬか」
蔵六はこのへん、おだての効かぬ男である。桂の後釜などつとまるわけもない、とむしろ迷惑そうであった。軍の指揮ならともかく政治のことは自分には不向きである、そちらは洋行帰りの伊藤や井上に任せるが宜しかろう、などといつも通り愛想のない事を言って桂を苦笑させた。
桂も、政治的な方面まで蔵六にやらせたいなどと考えているわけではなかった。ただ将来的には、蔵六をして日本一国の軍事司令官に任ずるつもりでいる。正直なところ、旧幕軍の掃討戦で戦死などは避けて欲しいし、ましてや藩閥絡みの人間関係のこじれでどうこうなどは以ての外だと思っている。
が、反面、いまの蔵六は全くの無名で、第二次長州征伐を勝利に導いたというのに長州藩士の間ですら印象が薄い。先々に高い地位に就かせるつもりなら、いまのうちにひとつ存分に手腕を振るわせ、大きな戦功のひとつも立てておいた方が、あとあと色々と便利ではあるだろうという思惑もある。
そういう絵図を脳裏に引きながら迷っているうちに、蔵六に軍防局判事への昇進と、東下の命が下ってしまった。下ってしまったからには、どれほど行かせたくなくても、止めるわけにはいかぬ。
「そのようなお顔をされても、それはいささか不公平が過ぎるというものですぞ桂殿」
禁門の変から桂が帰還に至るまでの一年間、自分がどのような思いで居たか解らぬとは言わさぬ。蔵六がそう言うと、桂はあわてて自分の顔を撫で、申し訳ありませぬ、と言った。