魔王が世界を手に入れるまで 後
幸いにして、検査の結果は問題なし。
脳は思っているより繊細だから気をつけて、と医師から注意を受ける程度にとどまった。
翌日、一緒にドッジボールをしていたクラスメイトには謝られたけれど、悪いのは最中にぼんやりしていた僕のほうだ。
“あちらの世界”の白昼夢のことは説明のしようがないから、次から気をつけよう、と話は収まった。
思い出した記憶は、最初からそこにあったかのようにしっかりと根を張っていた。
とはいえ、キリと希理はまったく同じというわけでもない。
勇者の力によって記憶を封印されていた数ヶ月の間に芽生えた、幸松希理としての自我や価値観がある。
別人というわけでもないから、変化や成長と言い換えてもいいかもしれない。
記憶を取り戻したことで、よりいっそう以前との差異を意識するようになった気がする。
――たとえば。
「ごめん、キリ!」
放課後。目の前で両手を合わせて頭を下げるマリア。
何かと言えば、今日は他の子と約束があるから一緒に帰れないとのことだった。
別に、元から毎日一緒に帰ろうと約束をしているわけじゃない。
この世界……この学校に馴染むまで、ご近所付き合いのあるマリアが面倒を見てくれているだけ。
気にしないで、謝ることなんてないよ、と。そう答えるのがきっと正しい。
でも。
「じゃあ、明日は一緒に帰ってくれる? ちょうどマリア……先輩に相談したいことがあったんだ」
廊下には生徒が多くいたため、いまだに慣れない敬称を付け足す。
マリアに注意されて先輩と付けるようになっても、名前呼びに関しては幸いにも彼女は特に気にしていないようだった。
名字で呼ぶように、と言われたら、いくら彼女の頼みでも頷くことはできなかっただろう。まだ記憶が戻る前だったとしても。
それだけ、僕は彼女とのつながりに飢えているから。
「え、相談? 今すぐじゃなくても大丈夫?」
「うん、マリア先輩は約束を優先して。僕のほうは急ぎじゃないから」
「わかった、ありがとう! 明日は一緒に帰ろうね!」
笑顔で二年生の階に戻っていくマリアを、僕はどうにか微笑みを崩さず見送った。
折しも十二月。養父母へのクリスマスプレゼントに悩んでいたのは本当だ。
それを口実として使ってしまったことに、罪悪感と自己嫌悪を覚える。
マリアの予定に合わせたようでいて、交換条件として明日の彼女の時間を予約した。本当は交換する必要なんてないんだから、僕が一方的に得をした形になる。
きっと、マリアはそんなことに気づきはしないだろうけれど。
以前と変わらない、と思うのはこんなとき。
自分の望みのために簡単に人を陥れることができる。
罪悪感があろうとなかろうと関係ない。少しでもマリアとの時間が欲しくて、他でもないマリア自身を誘導した。
かつて、自分を殺してもらうためにマリアの意思で魔王城に連れて行ったときと何も変わらない。
以前とは違う、と思うのもこんなとき。
人としての情緒に欠けていた“キリ”は嫉妬を知らなかった。
たとえ同性でも、マリアが僕より優先する人がいるというだけで、喉の奥がジリジリと炙られるように熱くなる。
かつて、ルルドという男を頼るマリアに“少しおもしろくない”程度にしか考えなかったときとは何もかもが違う。
「……どうすればいいかな、ヨセフ」
気づけば誰もいなくなっていた教室で、もう、生きているかも定かではない大事な人の名前をこぼす。
あのゆるやかな時の流れていた魔王城が無性に恋しい。
マリアと僕とヨセフ、三人で完結していた小さく静かな世界。
あそこには何もなくて、すべてが揃っていた。
『……私を、信じてくれる?』
星の降るような夜、マリアの震える声が耳によみがえる。
迷わず信じてると答えた自分を今でも間違っているとは思わない。
きっとあのとき、マリアは一人で悩んでいた。僕の記憶を消すか、残すか。
そして決めた。僕が、この世界で生きていくために。
マリアの選択は正しかったと、頭の片隅の冷静な部分で考える。
何も知らなかったからこそ、何もかもが違うこの世界を受け入れられた。
ただのご近所さんという関係だったからこそ、マリアに依存しきることなく自分の足で立つことができた。
マリアは正しく僕を守り導いてくれた。
僕を救ってくれた彼女が望むなら、この世界でただの幸松希理としていきることこそが最大の恩返しなのかもしれない。
……それでも、すべてなかったことになるのは、とても悲しい。
「あれ、希理。今日は先輩と帰るって言ってなかったか」
薄暗くなってきた教室に、同級生の脳天気な声が響く。
ぼんやりしていて足音にも気づかなかったらしい。
「……高浦」
「どした? なんか元気ないな」
マリアに高浦にと、最近は心配されてばかりだな、と苦笑がこぼれる。
いや、きっと“あちらの世界”でだって、ヨセフはいつも心配してくれていただろうけれど。
あの頃の僕には気づけるだけの余裕もなかったのだと、今ならわかる。
「ままならないなぁ、って思って」
「なんだよ、お前難しい言葉知ってんな」
思わず口をついて出た弱音が、難しい言葉、で片づけられてしまった。
友人を悪く言うつもりはないけれど、高浦は脊髄反射で生きているようなところがある。
物事を深く考えないため、その場のノリや勢いで話す。話題があっちこっちに飛ぶこともしょっちゅうだ。
そういう彼の朗らかさが、場を明るくすることもあれば引っかき回すこともある。
「あー、そうだな、お前たしか山羊座だったろ」
「……そうだけど」
ほら、また話題が飛んだ。
予測不可能な彼の会話運びが、僕はわりと嫌いじゃなかった。
「今日の運勢、山羊座が最下位。だから、それのせいってことにしとけ」
ぱち、と目を瞬かせる。
今日の運勢。山羊座。最下位。
言葉としては耳に入ってきていても、内容が頭に浸透しない。
「うちの妹が毎朝見てるんだよなー。占いとかくだらねーって言うと怒るんだ。信じる信じないとかじゃなくて、何かあったとき、自分以外の理由があると気が楽だとかなんとか言ってたっけ」
理解が追いつかない僕に気づくことなく、高浦はそのまま話を続ける。
「うまくいかないことがあっても、全部を自分のせいにするんじゃなくてさ。今日は運勢悪かったからしょうがないって思えば、まあまた明日がんばればいっかってなるんじゃねぇの。よくわかんねーけど」
今日はしょうがない。
けれど、明日はどうかわからない。
単純明快で、なんの確証もなく、だからこそ無限の希望がある。
かつての僕は、世界のすべてを自分のせいにして、終わりを勝手に決めていた。
マリアが壊してくれた終わりは、もう僕の中のどこにも残ってはいない。
それなら、彼の言うとおり、未来に託してもいいのかもしれない。
今日が駄目なら明日。明日が駄目なら明後日。それでも駄目なら、もっとずっと先の未来に。
どちらにしろ、マリアから離れる選択は最初から存在しないのだから。
何も知らないはずなのに。斜め上に話が飛んだのに。
妙に的を射ているのは、高浦の脊髄反射のなせる技なんだろうか。
「もしかして、慰めてくれてるの?」
「知らねーよ。お前が落ち込んでて、これが慰めに聞こえるならそうなんじゃねーの」
「高浦は優しいなぁ」
「うわ、そういうのカユイからやめろ」
マリアの選択のおかげで、今の僕がいる。
悩むことができるのだって、選択の余地のなかった以前を思えば幸福であるように思う。
あの閉ざされた箱庭が恋しくとも、帰れないし、帰らない。
たとえばこうして、弱音をこぼせば慰めてくれる友人がいるように。
僕はもう、目映いばかりの新しい世界を知ってしまったから。
その時、ピピピッ、と高浦のスマホが鳴り響いた。
「っと、やべ、あと30分じゃん」
「……アラーム?」
「そ、今日の音楽番組にゲストで俺の好きなバンドが出んの。忘れないように設定しといたんだ」
高浦の説明はほとんど右から左に抜けていた。
アラーム。
刻限を、設定するもの。
「じゃな、キリ。お前も早く帰れよ」
ひらひらと手を振って、高浦は足早に教室を去っていった。
空はもう夜の闇をつれてきていて、街を縁取るように残った夕暮れ色が、日没の早さを物語っている。
時間は流れる。季節は巡る。陽は落ち、また登る。
「……そっか、アラーム」
もしかしたら、と。
少しの希望が、夜の向こうに見えたような気がした。
* * * *
「えっ、これ、もらってもいいの?」
翌日。
一緒に養父母へのクリスマスプレゼントを選んでくれたマリアに、こっそり買っておいたプレゼントを渡した。
「うん、今日のお礼。マリアにもらってほしいんだ」
クリーム色のレースのシュシュ。
高校生のお小遣いで買えるようなものでしかないけれど、柔らかな色はマリアによく似合うと思った。
僕の贈ったものを身につけてもらえたら、という一種の独占欲も否定はできない。
「う、うれしいけど、こんなかわいいの似合わないよ……」
「そんなことない。マリアはかわいいよ」
本心からそう告げれば、ギャ、とマリアは潰された蛙のような声を出した。
みるみる朱に染まっていく頬を見るかぎり、男として意識されていないわけでもないんだろう。
それが僕の望むものかはわからなくても、ひとまず満足してにっこりと笑みを浮かべる。
「今日だけじゃなくて、いつもありがとう。家でも学校でも、マリアには助けられてばかりだから」
「そんなの……別に、やりたくてやってるだけだから。お礼なんていらないのに」
「うん、でも僕があげたいから」
「……ありがとう」
マリアははにかむようにして、やっと笑ってくれた。
かわいい、と何十回何百回言っても足りない。
あふれ出そうなほどのこの感情だって前は知らなかった。名前のない衝動だけが存在していた。
だから、今のほうがずっといい。
マリアを好きだと胸を張れる今が、一番いい。
「私、誕生日プレゼントしか用意してない。キリ、他に欲しいものとかない?」
「マリアが誕生日を祝ってくれるだけで充分だよ」
「欲がないなぁ」
そんなことないけど、という言葉は笑顔で飲み込む。
今の僕は“魔王キリ”のときには知らなかった欲でまみれている。
隠すことばかり上手なのは以前と変わらないのかもしれない。
「あのね、マリア」
「ん?」
本当は。
欲しいものなら、ちゃんとある。
マリアのくれた“幸松希理”としての第二の人生。
彼女がどう思っていようと、マリアなしの人生なんて想像もつかない。
キリとしても、希理としてだけでも、ずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいてほしい。
そして、もしもマリアが。
かつての“魔王キリ”ごと僕を受け入れてくれるなら。
一生に一度のわがままを、言ってもいいだろうか。
マリアの、すべてが欲しい、なんて。
別題:魔王がタラシに進化するまで
お付き合いいただきありがとうございました。




