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方言の中のあなた

※本ページは、特定の地域の方々を誹謗中傷することを目的としていません

「あんた、けったいな喋り方やなあ」

 大阪に引っ越して間もない頃、仕事で接したお客が、私の言葉をそうせせら笑った。

 そのお客は80代の翁であり、携帯の聞こえが悪いと、携帯電話屋の私に相談に来ていた。原因は携帯ではなく、木の根のように枝分かれした毛が飛び出しているその耳であると私は直感していたが、それを指摘するほどの特攻精神は持ち合わせていないので、適当にスピーカー部分を掃除することに決めた。

 綿棒や布切れを使って翁の古い折りたたみ携帯を磨きながら、沈黙を紛らわせるために私は他愛もない世間話を投げかける。

「聞こえやん、言うてはよはよ携帯屋に駆け込む人は多いんですけどねえ、だいたいはほこりが詰まって聞こえやんようになってるだけ、っちゅうことがほとんどです」

 その言葉を聞いた翁が発したのが、冒頭のセリフというわけだ。

 その翁は「〜まんねん」「〜でんがな」という、昨今では廃れつつある、いわゆるコテコテの大阪弁を操る生粋の大阪人であるようで、彼からすると私の言葉は強烈な違和感を覚えるらしい。

「あんた、紀州の人やなあ。わての親戚にも紀州の人がいてまんねや。あそこの人はな、何にでも『やん』をつけよる」

 御明察である。私は先祖代々親戚一同和歌山に根を張る、純潔生粋の紀州人であり、訛りのきつい祖母に育てられたこともあって、コテコテの紀州弁を操る。あらくたい、のとろ、〜やいしょ等々、大阪にはない言い回しは多々あるし、翁の言おうとおり、大阪人なら「〜へん」と表現するところを「〜やん」と言う。標準語なら「できないじゃん」と言い、大阪弁なら「できへんやん」と表するところ、紀州弁なら「できやんやん」と、間抜けな発音になるということだ。

「すんません。私ついこないだ、和歌山から大阪へ嫁に来たとこで、まだうまいこと大阪弁をばしゃべられやんもんで」

 やってしまった、とバツが悪そうにそう言う私に、翁は、

「かまへんかまへん。お国の言葉は大事にしいや」

 と、毛だらけの耳をほじくりながら言ってのけた。そして、磨いたことで少し色合いが明るくなった携帯電話を手に、ゆっくりとした足取りで退店していった。

 翁よ、恐らくまだ電話の声は遠いままだろうが、あなたの声は私の胸にしかと響いたぞ。

 さて、この翁に指摘される前にも、私は何度か方言について指摘されたことがある。

「あんた、訛り強過ぎやん?」と私をからかったくせに、自身も完全に紀州訛りの同級生。

「今の、どういう意味ですか?」と愉快そうに指摘した、気取った標準語を話す本社勤めの男。

「なに言うてるんかさっぱりやわ」と言う、広島生まれの夫。

 方言に関する苦い思い出など、辿ればキリがないほどだ。それほどまでに私の訛りはきつい。

 だが、私自身は決して自分の言葉を恥ずかしいと思ったことはないし、他国のお国言葉もとても美しいと思っている。翁が使っていたコテコテの大阪弁などまさにそうだ。親しみやすく、独自の表現があり、とても耳馴染みの良い言葉だと思う。

 しかし昨今嘆かわしいのが、若者の標準語化である。ネットやテレビの影響なのか、他県民が多く移住しているからなのかはわからないが、とにかく、大阪にいながら標準語を話す若者が多すぎる。大阪に引っ越してきた時、あちこちから標準語が聞こえてきて目眩を覚えたものだ。

 別に標準語が悪いというわけではない。東京生まれであれば、大阪に住んでいるからといって、大阪弁に直す必要はないだろう。だが、大阪出身で大阪在住であるのにも関わらず、気取って標準語を話す輩が、私は気に入らない。

 岸和田生まれのくせに「このピンクのスマホ可愛いでしょ? お気に入りなんだ」などと言い放つ女に出くわしたときは、危うく気絶するところであった。お前はいったい何を隠そうとそんな言葉を喋っているんだ。何に怯えているんだ。お前がどれだけ標準語を話してタピオカを飲み、渋谷に詳しいアピールをしたところで、ヤンキーとだんじりに揉まれて育った岸和田の女であるという出自は変わらないのだぞ。自分を恥じるな。偽るな。南大阪の女らしく、コテコテの関西弁を喋れ。ヤンキーと付き合え。週末はアルファードでイオンに行け。ドンキのコスプレコーナーの前で男とキャッキャしていろ。

 偏見が過ぎた。閑話休題。

 方言は世界中どこにいても故郷を感じられる、とても大切な財産だと私は思う。従って東京に行こうと北海道に行こうと、生まれた国の言葉を矯正することなど必要ないのだ。

 だが、上京して方言を封印する者の気持ちもわからないでない。

 最近、軽佻浮薄なアフィリエイトサイトの記事で知ったのだが、どうやら東京生まれの者は、東京にいながら方言を使う者を「うざったい」「耳障り」「東京では標準語を話すべきだ」と感じるらしく、その空気に屈して方言を矯正するものが多いそうなのだ。

 なんという上から目線。我こそが標準であるという、標準語話者の揺るぎないプライドを感じる。

 だが、電子の海に生息する架空の東京人よ、ちょっと待ってくれ。

 じゃああなたは逆に、大阪に一歩足を踏み入れた瞬間、完璧な大阪弁を喋ることができるのだろうか?

 いいや、きっとできない。発音の構造が根本的に違うからである。逆も然りで、私も標準語を話せと言われてぱっと話せるわけではない。無意識ではあっても、絶対に関西のイントネーションを発してしまうし、ワイシャツのことをカッターシャツと、ものもらいのことをめばちこと言ってしまうだろう。

 体に染み付いた言葉というものはなかなか抜けないものだ。誰の真似をするでなく、流されるでなく、いついかなる時であっても、自分の言葉を話すことこそが、丁寧な言葉遣い以上に大切だと私は感じる。

 また、そういった道理を抜きにして、方言には利便性のある独自の表現が存在することも、最後に触れておこう。

 紀州弁で言うところの「ふうわり」という言葉である。「ふわり」ではない。「風体が悪い」が変化したと推測される、独自表現だ。

 例えば、流行外れのみょうちきりんな服を着ている者に向かって「そんな服ふうわりが」と言う。そういった「みっともない」「格好悪い」「見栄えが悪い」といった意味合いを持つ言葉なのだ。

 これが標準語の「ださい」や「カッコ悪い」という表現だと、多少トゲを含んでしまうのだが、「ふうわり」という言葉だと、意味は変わらないがなんとなく響きが柔らかくなり、言われた側も素直に飲み込みやすいのだ。

 また、代表的なところで言うと、大阪弁の「〜はる」は欠かせない。これは和歌山ではあまり使われない。紀州弁には敬語という概念がないためである。事実、先生に敬語を使う学生など、私の知る限り和歌山には一人もいなかった。

 だが、大阪に嫁いできてからというもの、頻繁に使うようになってしまった。兎にも角にも便利なのである。「〜いらっしゃる」では堅い、飾りつけなしでは不躾な表現になる。そんな時に役立つ「準敬語」のような表現なのである。

 大阪人はとにかくこの「〜はる」を使う。特に敬う必要のない場面でも使う。広島生まれ大阪育ちの夫は、道行く野良猫に対して「おぉ、なんか食べてはるわ」と言っていた。動物嫌いのくせに、猫をが目上の者であるかのような表現を使ったのがまたおかしかった。

 いやはや、方言というのは実に奥が深い。北は北海道から南は沖縄まで、実に様々な種類、様々な文化を持つ。愛せずにはいられない。

 さて、好き勝手書き殴った乱文だが、最後に一つ。

 これから何十年何百年先、大阪から東京へ瞬間移動できるようになって、県境などあってないようなものになってしまったとしても、こうした貴重な方言は残っていてほしい。そのためには、自分を変えない、偽らないことが大切だ。

 この貴重な文化財を残していくためにも、どうかありのままのあなたでいてほしい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 大変面白かったです~。方言は残すべきでしょうね。方言を話す方は、何倍も魅力的に思えますし。可愛いです。標準語は、ちょっときついというか、冷たく感じる部分もありますからね。 ですが、九州南部…
[良い点] 「何に怯えているんだ。」 吹き出しました。 [一言] 標準語を話していても訛りは残りますよね。 標準語はあくまでも共通語として認識しています。東北北部と九州南部の方たちと同時に話す時に標準…
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