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 『ミラーナ…俺は君を離したくない。」

 『レディック様…』

 『君は俺が何者でも…いや、お前などもうどうでもいいんだ。』

 『うっ…』

 『ミラーナ、その子を渡せ…』

 『うあぁ…、やめて…ナデッタを連れて行かないで…、あぁッ!』


 左手首に強い痛みが走り、ミラーナはハッと目を覚ました。小さな窓から見える空はうっすらと明るくなり始めている。すぐ隣にいるナデッタの寝顔をチラと見て、安堵の息をついた。心臓が酷く脈打っている。


 ----夢…良かった…


 娘を起こさないよう、右腕で支えてそっと身体を起こす。ただ起きるだけでも痛みが走る手首を見下ろし、これからの不便な生活を想像して重い溜息を落とした。


 ----どうしよう。この手じゃ仕事ができないじゃない。どうしてくれるのよ!


 幸い骨は折れていなかった。折れてはいないが、手首を急に捻ったことで手首の中を傷付けてしまったようだというのがオッドの見立てだった。腫れている部分を冷やして添え木で固定し、動かないよう布で巻く。医師のいない村ではこれ以上の治療はできない。あとはこれ以上悪化することがないように祈りながら時間が経つのを待つしかない。


 痛みと苛立ちに顔をしかめて目を瞑り、自分を見下ろす冷たい眼差しを思い返した。あまりに雰囲気が変わっていたせいで同一人物とは思えなかったが、今となってはもうどうでもいい事だと首を横に振る。


 記憶の奥にしまった一時の甘い思い出。あの瞬間の、己の素直な気持ちに従った行為には一切後悔していない。しかしたとえどんなに甘い言葉を囁かれても、この世で最も信じてはいけないものは貴族の言葉だとミラーナは信じている。

 それを改めて証明したのがこの手首だ。自分の思い通りにならなければ暴力も辞さない・気が済まないのが貴族なのだ。


 ふと、ミラーナは寝息を立ててスヤスヤと眠る娘に目を向けた。ナデッタは流れるようにこの地に来た女が一人で産んだ子だ。この孤児院は扉の前に産まれたばかりの赤子が置かれていることもあるので、ミラーナのように相手がいないまま子を産むことは珍しいことではなかった。珍しくないから誰も気にも留めない。そんな、誰も気に留めないような出来事から五年も経ったというのに。


 ----どうしてナデッタのことを知ってるの?


 戦は二人が過ごした日のすぐ後に始まった。騎士団に身を置くレディックは領地と戦地を行き来していたのだ。五年もの間戦い続け、ナデッタの存在を知るどころかミラーナのことを忘れていてもおかしくないような状況だったに違いない。それなのに。


 ----『俺が用があるのはお前じゃない。この娘だ。』


 領主の息子であり騎士団長ならば戦後の後処理に忙しかったことだろう。たった一度関係を持った平民の女が産んだ娘を捜すには何か理由があるのかと思ったところで、ズクズクとした手の痛みに思考が途切れた。


*


 日が昇り、ミラーナは子供たちを畑仕事に送り出してから箒を持って食堂へ入った。しばらくの間は片手だけでもできることをして過ごさなければならない。これまでやってきた自分の仕事を他の者に代わってもらって申し訳ない気持ちもあるし、それにじっとしていては余計なことばかり考えてしまう。


 朝から子供たちや仕事仲間がミラーナのもとを訪れ、怪我の具合はどうかと尋ねてきた。ミラーナはその度に笑顔を浮かべて大丈夫だと答えていたが、誰一人としてレディックとの関係を聞いてくる者はいなかった。うかつなことを聞いてうっかり何かを知ってしまえば、後々面倒なことに巻き込まれるかもしれないからだ。しかし、時に好奇心は恐怖心より勝るものである。


 ミラーナの娘ナデッタと、領主の息子レディックがまったく同じ顔をしていた。その事実だけがあっという間に村中に広まり、ミラーナは瞬く間に注目の的になった。今や村人たち全員の関心事は二人の関係が今後どうなるかに集中している。何も無い狭い村では、噂話は老若男女共通の娯楽だ。


 ----まぁ、あれこれ聞かれるわけじゃないからいいんだけど…。


 相手の男が領主の息子でありイーヴェルの英雄ならば聞く方も聞きにくいだろう。それに聞かれたところで何も答えられない。共に過ごしたのはわずかな時間だけだ。


 ミラーナは溜息をつきつつ箒の柄を右手で掴み、柄の端を肩に乗せて床の砂を掃き始めた。食堂は孤児院に住む全員が使用する場所だけに、他の部屋よりも落ちている砂や土が多い。長椅子を少しずつ動かしながら掃き進め、半分まで掃いたところで用意していた塵取りを手に取った。


 ----しまった、どうやって取ろう。


 右手で掴んだ塵取りを見ながら、ハタと気付いて立ち尽くした。布でグルグルに巻かれた左手は使えないことはないが上手く塵取りを押さえられない。となれば塵取りを足で押さえるしかないのだが、掃こうとしても上手く力が入らず塵取りの下に砂が入り込んでいくだけだった。砂を集め直しては塵取りの下に入り込む、を何度も繰り返し、ミラーナはとうとう五回目で諦めの溜息をついた。


 ----仕方ない、誰かに手伝ってもらうしかないか。


 これ以上は時間と体力の無駄だと判断し、壁に箒を立て掛けて食堂から出た。今は大人も子供も仕事に出ている時間で、さっきまで賑やかだった院内はひっそりと静まり返っている。近くに誰かいないかと一歩外に出た途端、遠くから昨日と同じ蹄の音が聞こえて身を強張らせた。音が近付いてくる様子から、馬はこの孤児院へと向かっている。


 ----これ…この音ってまさか…。ナデッタ!!


 ミラーナはハッとして畑のある方へ目を向けた。今、ナデッタは他の子供たちと一緒に朝から仕事の手伝いをしに畑に出ている。もし今ここに向かっているのがレディックであれば、孤児院に着く前に畑にいるナデッタに気が付くかもしれない。ミラーナは急いで駆け出した。


 「ハァッ、ハァッ!うっ、つ…」


 走る振動が手首に伝わり、あまりの痛みに足がもつれてくる。それでもすぐそこまで来ている轟音がミラーナの背中を叩き、足を前へと押し出した。


 ----ナデッタはどこ…いた!


 ようやく畑の側まで来たところで辺りを見渡し、ミラーナはホッと胸を撫で下ろした。ナデッタのライトブラウンの髪を探し始めてすぐにオッズのヒョロッとした後ろ姿を見つけたのだ。オッズの側には必ずナデッタがいる。隣にいる子供と楽しそうに話しているところを見れば、その子供がナデッタで間違いない。


 「オッ…、ッ!?」


 ミラーナはオッズを呼ぼうと大声を出した瞬間、背後で蹄音が止まったことに気付いて振り返った。視線の先には馬に跨りジロリと睨み据えるレディックがいる。ザァッと吹く風にマントを靡かせ、馬から降りてミラーナに歩み寄った。


 「レ、レディック様…。」


 レディックが数歩離れた場所で立ち止まり、鋭い眼差しを向けてくる。その威圧的な空気にミラーナは無意識に顔を強張らせた。


 「ここで何をしている。」

 「何も…。畑仕事に…来ていました。」


 レディックの視線がチラッとミラーナの左腕に向けられる。眉一つ動かさず、そのまま視線をミラーナに戻して冷たく言い放った。


 「その腕でか?フンッ、怪我を負った身で何ができるというんだ。治るまで畑仕事はしなくていい。」

 「あの…でも…決められた量の仕事はしなければなりませんので…。」

 「必要ない。今日からこの辺り一帯は俺の管轄地域になった。だから今後は俺の命令に従ってもらう。」

 「えっ!?」


 レディックは唖然とするミラーナの横を通り過ぎ、畑の方へ向いて立った。視線の先にはナデッタがいる。オッズの背後に隠れてジッとこちらの様子を伺っている少女を見つめながら、後ろに控えている部下に声をかけた。


 「サザール、彼女を孤児院まで送って…いや、いい。ヒース。」

 「はい。」


 サザールは無言のまま一礼して下がり、侍従のヒースが返事をした。


 「今から孤児院へ向かう。彼女を送るからお前は俺の馬を連れてこい。」

 「畏まりました。馬車は…」

 「馬車などいらん。それほど距離はないから歩いて連れていく。」


 レディックは言いながら腰を屈め、ミラーナの肩に手を添えて膝の下に腕を差し込んだ。そのまま立ち上がり、ミラーナの身体をヒョイと持ち上げる。息もしないうちの一瞬の出来事に、ミラーナは腕を押さえて声を上げた。


 「きゃあぁ!」

 「うるさい。」

 「何をなさるのですか!このようなことはおやめ下さい!自分で歩けますから!あっ」


 肩を掴む手にグイッと引き寄せられ、レディックの青い瞳が目の前で止まった。ミラーナをじっと見つめる目には静かな怒りがにじんでいる。


 「大人しくしていろ。落ちたいのか?」

 「あ、あ、足を怪我したわけではありませんから、帰れというご命令でしたら自分で…」

 「俺は()()と言ったんだ。」

 「で、ですが、皆が見ています。村の人たちや部下の方々の前で貴方様にこのようなこと…」

 「誰に見られていようが関係無い。お前に怪我を負わせたのは俺だ。口を閉じておけ。」

 「これは私が!」

 「フン、戦士でもない女に怪我を負わせたなど不名誉もいいとこだ。これ以上騒いで俺に恥をかかせるな。」

 「恥をかかせるつもりなんて…。」


 レディックの不愉快に満ちた言葉が胸に突き刺さる。数々の武功を挙げ、英雄と讃えられた男の輝かしい名誉に下らない傷が付くなど我慢ならないといった空気が全身から伝わってくる。周囲からの視線が集中していることなど、それに比べればどうということもないのだろう。


 ----それより、どうしてわざわざ抱き上げるのよ!ここから孤児院見えてるのに!


 服越しに触れる逞しい腕の感触に居心地の悪さを感じつつ、せめて何も目に映らないように顔を伏せた。 

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