15
瞼に触れる柔らかい唇が優しく肌をついばんでいく。唇に重ねられたと同時に差し込まれる塊が全ての哀しみを拭い去るように荒々しく撫でまわした。
はぁ、と熱い吐息が頬に触れ、そっと目を開ける。切なげに見下ろす青い瞳と目が合い、ミラーナはクスリと笑った。
「どうした?」
「フフ…いえ、なんだか思い出してしまって。」
「何を?」
額に触れる唇にくすぐったさを感じながら、ミラーナはレディックの頬に触れた。少し伸びている髭を指先で撫でる。その手を掴まれ、いたずらをたしなめるように指先をついばまれた。
「貴方様と身体を重ね合った時にも、こうしてその美しい瞳を見上げていたことをです。」
「嬉しいな。俺も今同じことを思い出していたところだ。」
「あら、本当ですか?私は思い出すのはお一人ですが、男性はそうとは限らないでしょう?」
「本当だ。信じるか信じないかは君に任せるが、俺も君としたのが最初で最後だ。」
「え!?」
思いも寄らないレディックの言葉に、ミラーナは思わず声を上げた。その驚き方が気に入らなかったのか、レディックは不貞腐れたようにジロッと見下ろした。
「そこまで驚くのか?」
「いえ、だって、男性が…その…」
「他の男のことなど知らん。でも俺は誰でもいいわけじゃない。」
「もしかして、初めて孤児院にいらした日にあれほど怒ってらしたのって…」
「君がナデッタは俺の子じゃないとか言ったからだ。他の誰と何をしようが俺には関係無いとか言って。」
「…結構覚えてらっしゃいますね。」
「当たり前だ!今ならどうして俺が怒ったか分かるだろう!?」
指先に軽く歯を立てられ、その甘い痛みにミラーナは無意識に喉の奥から声を漏らした。
「ん…申し訳ありません。でも、私がそれを言う前からレディック様はすでに冷たかったですよ。とても怖くて別人かと思いました。」
指先に口付けをするレディックの動きがピタリと止まる。レディックはじっとミラーナの顔を見つめた後、恥ずかしそうに目線を泳がせた。
「あー…それはだな。実は孤児院に向かった日の朝に、サザールに言われたんだよ。」
「副団長様?」
「そうだ。書類の確認をしている時にわざわざ俺のもとへ来て…」
『団長、駆け引きという言葉をご存知ですか?男女の恋愛には駆け引きが何より重要なのです。そんなに浮かれてたらまた逃げられてしまいますよ。最初はお前なんかにはもう興味ないんだ、ぐらいでちょうどいいのです。最初は冷たく、そして徐々に接点を作って今の団長の魅力を小出しにしていくのです。それとも部下たちの前でみっともなく鼻の下を伸ばすおつもりですか?そんなことをして部下たちに引かれているところを見られでもしたら、逃げるどころか幻滅されて二度と振り向いてはもらえなくなるかもしれませんよ。それに…』
「…といったことを延々と言われ続けたんだ。俺はそういうことには疎いから、そういうものかと思って奴に言われた通りにしたんだ。」
「そうだったのですか。」
「でも具体的にどうすればいいのか分からなくてな。サザールに聞いたら『団長が普段女性に接してらっしゃる時と同じようにすればよろしいのです』と言われたんだ。」
溜息をつくレディックを見上げながら、ミラーナは目をパチパチさせて固まった。目の前の情熱的な男は、あの冷たい眼差しや声音を普段から女に向けているというのだ。ミラーナが信じられない目で見つめていると、レディックはさらに溜息を零して続けた。
「でも実際に君の顔を見たら上手くいかなくてな。特に君が俺のこの額の傷を覗き込んできた時なんか、心臓が飛び出そうなぐらい舞い上がってたんだぞ。」
「え?あぁ、あの時!」
「そう、あの時。その後君を手首を傷付けてしまって、ナデッタに怒られて、動揺して、逃げるように立ち去って、サザールに散々なじられたんだ。『どこが冷たい態度ですか。周囲に小花が咲き乱れてましたよ』って。」
思わず『あれで?』という顔を向ける。ミラーナだけでなく村人たちの目には小花など影も形も見えなかった。むしろ棘しかなかった気がする。
そういえば、とふと仕事仲間のオッズの言葉を思い出した。窪んだ目をキョロキョロと動かしながら『たぶん悪い人じゃないよ』と言っていたのは、オッズにはレディックの小花が見えていたからかもしれない。大人よりも子供と仲良くなるオッズだからこそレディックの芝居を見破れたのだと思い至り、ミラーナはまたクスリと笑った。
「また笑ったな!まったく…まぁいい。他に聞きたいことはあるか?」
「そうですね…その額の傷はどうなさったのですか?」
「君がまだ独身だと知った時、あまりの嬉しさに腕を振ったら持っていたペーパーナイフで深く切ってしまったんだ。」
シンと空気が静まり返る。ミラーナはチラと額の傷を見て、スッと視線を外した。
「こら、笑うな。他には?」
「フ、フフフ…そういえば、先ほど騎士団長になったのには理由があるようなことを仰ってましたよね。」
「あぁ、あれか。あれは俺の家族との約束なんだ。」
「約束?」
「あぁ。君を妻に迎える為のな。俺が君に求婚したら君も周囲も必ず身分の差を持ち出すと思った。だから皆の前で互いに約束を取り付けたんだ。これから始まる戦で武功を立て、イーヴェル領の名を上げることができればミラーナ・クライネとの結婚を無条件で認める、と。」
レディックの力強い声がミラーナの思考を奪い去る。ミラーナは胸が締め付けられるような感覚に息ができなくなった。目の奥がジンとしびれ、呼吸が浅くなる。震える吐息に堪えきれず、ミラーナの両目から大粒の涙が溢れた。
「う…うぅ…」
「なぜ泣くんだ?」
「う、も、申し訳、ありません。そこまで…して下さった貴方様の愛を…疑うようなことを…!私なんかの為に…!」
「ミラーナ…」
「お命をかけてまで…私を愛して下さった貴方様に、私はなんということを…」
「ミラーナ。そろそろ俺を名で呼んでくれないか。それからあの時、君にこうも言った。敬語はやめて普通に話してほしい、と。君とは二度と壁を感じたくない。」
「う…えぇ、そうだったわねレディック。あなたはいつも素直な気持ちを伝えてくれたわ。ありがとう。」
「ハハ、俺には駆け引きとやらはできないようだからな。正直に行動する方が性に合ってる。」
「その方がいいわ。さっきみたいに恥ずかしい時もあったけど。…そうだわ、先に言っておくけど、私って実はすごくヤキモチ妬きで我儘なの。あなたがナデッタと仲良さそうにしてるのも本当はすごく羨ましかったのよ?」
ミラーナはレディックの頬をつつき、不貞腐れた顔を返した。優しく微笑むレディックが目を閉じて近付いてくる。深く唇を落とされ、身体に回された手がミラーナの服のひもを掴んだ。
「待って、レディック。今はまだお仕事中でしょう?」
「さっきここに来る途中で、サザールから明日の午前中までは休暇で処理しておきます、と耳打ちされたから大丈夫だ。」
嬉しそうに笑うレディックに胸がときめく。ミラーナはレディックの首に腕を回し、心地良い重みに身を任せた。
*
カタカタと揺れる馬車の窓の外にはのどかな風景が広がっている。遠くを見渡せば森の緑と空の青が溶け合い、鳥が群れを成して飛び交っていた。
「奥様、到着致しました。」
「ありがとうございます。ナデッタ、アメリア、降りるわよ。」
「はい。」
「はぁい。」
「さ、順番に降りておいで。」
開いた扉の横から覗き込んできた顔に、三人が揃ってニッコリと微笑む。差し出された大きな手に最初に飛びついたのは、次女のアメリアだった。まだ足元の台に足が届かないので、抱っこで降ろしてもらっている。
「私も!お父様、私も抱っこがいい!抱っこで降りたい!」
「よし、おいでナデッタ。」
「レディック!私も!」
「ククッ…まったく、本当にヤキモチ妬きだな。」
おいで、と差し出された腕に腕を絡ませ、ゆっくりと身体を預ける。大きくなり始めたばかりの腹に負担がかからないよう、そっと地に足をつけた。
「大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫よ。ありがとう。」
「レディック様!ミラーナ!ナデッタ!アメーリアァァ~!」
遠くから聞こえてくる声に四人が振り返る。そしてパッタパッタと走ってくるヒョロッとした人影を見つけて四人同時に噴き出した。
「オッズだわ。」
「オッズだな。」
「私、やっぱりオッズにだけは勝てるわ。」
「お~い!オッズゥ~!こっち~だよぉ~!」
両手を振るアメリアの愛らしい声に反応して、オッズの足が加速する。しかしあまり変わらない速さに痺れを切らし、アメリアも駆け出した。
「あらあら。もうナデッタがああいうことをしてくれなくなったから、オッズはアメリアに首ったけね。」
「私がやったらオッズがお父様に睨まれちゃうのよ。」
「俺はオッズには怒らないぞ。アイツだけは無害だ。」
「確かに!」
ミラーナとナデッタが声を揃えて相槌を打つ。見守る先ではオッズとアメリアが抱き合って感動の再会を果たしていた。
「こんにちは、レディック様。ミラーナ、ナデッタも。大きくなったね、ナデッタ!」
「久しぶりね、オッズ。ナデッタ、アメリア、オッズと一緒に先に孤児院へ行っていてくれる?私はレディックと一緒にゆっくり歩いて行くから。」
「分かった。オッズ、行きましょう!」
ナデッタとアメリアに挟まれて嬉しそうに歩くオッズの背中がヒョロヒョロと揺れている。やれやれ、と笑うミラーナにレディックが艶のある声で囁いた。二人きりの時にだけ出す甘い声だ。
「さ、行こうか。やっと俺を独占できるな?」
「あら、気付いてたの?」
「当然だ。俺も君を独り占めしたかったからな。」
レディックがニコリと微笑み手を差し出す。
ミラーナはレディックの逞しい腕に手を絡め、ゆっくりと歩きだした。
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