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リークシュア城に来てから半月が経ち、ミラーナはナデッタを連れて謁見の間へと向かった。
「ねぇ、お母さん。これから領主様と領主様の奥様に会うの?」
「そうよ。とてもお世話になったからきちんとお礼を言わないとね。」
ミラーナは熱を出した日から毎日決まった時間に医師の診察を受け、手首の痛みを和らげる薬湯を用意してもらった。侍女のリオナには身の回りの世話をしてもらい、左手首を動かさずに過ごすことができた。そして毎日右手だけで食べられる栄養のある食事を用意してもらった。それもこれも、レディックの両親である領主夫妻からの好意によるものだ。
ミラーナは昨日の診察でようやく添え木が外され、手首の状態を見た医師から待ちに待った言葉をもらった。
「うん、もう大丈夫でしょう。手首をゆっくりと動かしてみて下さい。」
「はい…えぇ、大丈夫です。動かしてももうほとんど痛くありません。」
「念の為に同じ薬湯を用意しておきます。しばらくはゆっくり動かすようにして、徐々に慣らしていって下さい。」
「はい。ありがとうございました。本当に、お世話になりました。」
久しぶりに自由になった腕が軽くて気持ち良い。ミラーナは仕事を終えて部屋に帰ってきたレディックに手首を見せながら、領主夫妻に直接会って礼を言いたいと話した。レディックはそれを快諾し、明日の朝にでも領主夫妻に伝えておくと言った。
そしてつい先ほど、レディックからさっそく今日の午後にその場を設けたという連絡を受けた。ミラーナとナデッタが控えの間で待っていると、侍従が呼びにやって来た。
「ミラーナ・クライネ様、ナデッタ・クライネ様、お待たせ致しました。謁見の間へご案内致します。」
「はい。ナデッタ、行きましょう。」
「はぁい。」
侍従に連れられ、謁見の間の前で足を止める。ゆっくりと扉が開いて中の様子を見た瞬間、またしてもミラーナは意識が遠のきそうになった。初めてリークシュア城に来た日に面会した時は領主夫妻と三人の息子たちが並んでいたが、今回はその倍以上の人数がズラリと並んでいるのだ。
----な、何よこれ…こんなの聞いてないわよ!?
壇上の中央には領主夫妻が座り、その両隣に三人の息子たちが立っている。そして部屋の中央を向いて長男ダグリスの妻と二人の息子たち、次男ハルソンの妻と二人の息子たちが並んでいる。全員が一斉にミラーナとナデッタに目を向け、初見である兄二人の妻たちはナデッタを見て『まぁ!』という顔を向けていた。
総勢十一名からの視線の圧力がミラーナを襲う。ミラーナは冷や汗を流しながら集団の中の一人に目を向けて無言の抗議を訴えた。
----どういうことよ!!私は領主様ご夫妻にお礼が言いたいと言っただけなのに!!
シレッとした表情でフイと視線を外すレディックが心底憎らしい。ミラーナは目を伏せ、ナデッタを連れて謁見の間の中央まで歩みを進めた。
「面を上げよ。」
バロイド伯爵の声を受けて顔を上げる。できればこのまま俯いた状態で話したかったが、会うのはこれが最後だと自分に言いきかせた。
「もう手首は治ったようだな。」
「はい、おかげ様で。領主様ご夫妻をはじめ、皆様の慈悲深いお心遣いですぐに回復することができました。本当にありがとうございました。」
「ふむ、良かったなシレイラ。これでそなたも安心したことだろう。」
「はい。すぐに治って良かったわ、ミラーナ。」
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れませ…」
「それで、これからのことなのだけれど。」
「はい?」
『これから』という言葉が飲み込めず、ミラーナはキョトンとした顔を浮かべた。
「ナデッタはもう五歳でしょう?そろそろ読み書きを教えても良い頃だと思うのよ。」
「はい?え?読み書き…ですか?」
ミラーナの頭上に『?』が浮かぶ。文字の読み書きなど村でもできる者は数えるほどしかいない。もちろんミラーナもできない者の一人だ。それをまるで孫の教育について相談するかのように言うシレイラの言葉に、ミラーナは嫌な予感がしはじめた。
「えぇ。レディックから聞いたのだけれど、ナデッタは絵本がとても好きなのだそうね。」
「え、あ…はい。リオナさんにいつも読んでもらっていました。」
「リオナがね。ナデッタはリオナの声を聞きながら目で文字を追って、少しずつ文字を覚えようとしていたみたいなの。」
「そ、そうですね。私にもいろいろ教えてくれていました。」
「自分から学ぶ姿勢を持つなんて、とても素晴らしいわ。それでね、ハルソンの長男のセドリックがナデッタの一つ下なのだけれど、ちょうど読み書きを教え始めようと思っていたところだったの。いい機会だから一緒に受けさせてはどうかと思っているのよ。」
状況が飲み込めない。領主の孫と貧しい平民の娘に同じ教育を受けさせるというのだ。どういうことだ、という目をレディックに向けるが、レディックは視線を外したまま知らぬ顔で明後日の方向を向いている。こちらを見ろと男に向けて眼光を飛ばすが、こちらを見たのはバロイド伯爵だった。
「ふむ、それはいい。どうだミラーナ。ナデッタに教育を受けさせてみては?」
「あの…恐れながら申し上げます。どうして娘にそのようなことを?何度も申し上げておりますが、この子はレディック様の娘ではありません。私も娘も貧しい平民の娘です。一緒に教育を受けさせて頂くなど…畏れ多いことでございます。」
ミラーナは目を伏せて頭を下げた。無意識にナデッタの手を強く握り締めていたのか、ナデッタが心配そうに手をポンポンと叩いている。
静まり返った空気の中、バロイド伯爵が信じられないといった声を出した。
「レディック…お前はこの数日間、一体何をしとったのだ?」
「…。」
「あなた、色恋に関してはレディックに期待してはいけませんわ。」
「同じ部屋で過ごしているのではないのか?」
「…。」
「ですから申し上げましたでしょう?剣を交える戦場では軍神だのなんだのともてはやされてはおりますが、恋の戦場では女一人落とせないポンコツですのよ、って。」
「しかし…これまで一切女を寄せ付けなかったのは、ミラーナがいたからだと思っていたのだ。まさか本当にだらしないとは思わなかったぞ。」
「本当に…。せっかく武功を立ててもこれじゃ意味がありませんわよね。」
残念そうに肩を落とすバロイド伯爵とシレイラの言葉にミラーナの眉がピクリと動く。まるでずいぶん前からミラーナのことを知っていたかのような口ぶりだ。ミラーナが眉根を寄せて耳を澄ませていると呆れた溜息をつく両親に向けてレディックが無表情のまま口を開いた。
「父上、母上。私たちには私たちの事情があるのです。それに今は彼女の気持ちを待っているところですから、あまり刺激しないで下さい。」
「待ってる!?お前が!?」
「嘘だろ!?レディックが『待ってる』だって!?」
今度はレディックの兄二人が揃って声を上げる。シレイラが扇子の陰でチラと後ろを振り向いたと同時に、兄二人は揃って口を噤んだ。
「ミラーナ。そなたはレディックの妻になるつもりでいるのではないのか?」
「私は誰とも結婚致しません。」
「このままでは埒が明かんな。理由を言え。たとえレディックが大事にする女とて、平民の女が私の息子を拒むのは本来許されることでは無い。」
「父上!」
「黙っていろ、レディック。お前には発言を控えるよう命ずる。」
さぁ、という目をミラーナに向ける。これまでと同じような答えは通用しないことを空気で察し、ミラーナは深く息を吸ってナデッタの手を握り締めた。
「私の母は若い頃に貴族の青年と恋に落ちました。互いに愛し合い、将来を約束したと言っていました。ですが、その相手は母が子を身籠ったと知った途端に母を捨てました。」
目を伏せた視界の端にレディックの表情が映る。ミラーナはその後の母親と自身が受けた辛い出来事について話をしている間、ナデッタの小さな手を掴むことに意識を集中させて震えそうになる声を必死で抑えた。
「こんな話はよくあることだと思われるかもしれません。ですが、その『よくあること』の犠牲になった女の末路がどれほど悲惨なものかはご存知ですか?…母が亡くなったのは私が十七の頃です。過労と、栄養不足と…見知らぬ人たちからの度重なる暴力による怪我の後遺症で…。母は私の為に細く小さな身体でずっと耐えていました。亡くなった母の身体はボロボロで…折れ曲がった骨と…皮と…痣…髪はほとんど抜け落ちて…」
「ミラーナ…」
「母は…いつも私に言っていました。貴族の男とだけは恋に落ちてはいけない、と。ど、どんなに…甘い言葉を囁かれても、貴族の男を…ぜ、絶対に…信じてはいけない、と。」
あまりの恐怖に足が震え、声が震えだす。この場にいるのはまさに貴族の男ばかりだ。貴族の男たちの前で貴族の男を悪く言うことは明らかな侮辱だった。侮辱すれば待っているのは極刑しかない。
「で、ですから…私は…わ、私にはこの子さえいればいいと…」
「ミラーナ。」
「ヒッ…!?」
突然の声にミラーナはビクッと身体を震わせ、顔を上げた。にじんだ視界にはレディックの哀しみに歪んだ顔が揺れている。ミラーナはガクガクと震える足に耐え切れず、床にへたり込んでナデッタを抱き締めた。ボロボロと流れる涙が頬を伝い、ナデッタの肩を濡らしていく。レディックは膝をつき、ミラーナの肩にそっと手を乗せた。
「も、申し訳…ありません…。おゆ、お、お許し、下さ…」
「ミラーナ、まさか…君も母親と同じ目に遭っていたのか?」
「え?あ…あの…あ…」
「君もナデッタも、同じようなつらい目に遭ってきたのかと聞いているんだ!」
「あ…い、いえ、私…は…私は…」
「どうなんだッ!!」
「ヒッ…も、申し訳…」
「クソッ…父上、母上、申し訳ありません。ミラーナを連れて行きます。ミラーナが落ち着くのを待ってから私が直接話を聞き、それをお伝え致します。それでよろしいでしょうか。」
レディックの低い声が重く響く。シレイラは深い溜息をつき、チラと夫の横顔を見た。
「いいだろう。ただし今日までだ。それを過ぎれば…分かっておるな?」
「はい。ありがとうございます。」
レディックはミラーナからナデッタをそっと離し、ミラーナをゆっくりと抱きかかえた。
「あ…あの…」
「もういい。今は喋るな。」
「はい…」
ミラーナを支えるレディックの腕に力がこもる。ミラーナはその心地良さに呼吸が落ち着いていくのを感じて、広い胸にそっと頭を預けた。




