第36話 八の月 三赤の日(3)
こそこそ悪事をはたらくような貴族など、天使に比べればそりゃあ小物だろう。実際、天使の実態について一般に知らされることはほとんどない。偶像化された、伝説と区別の付かないような話が教団から発表されるだけだ。
息を深く吸って止め、ゆっくりと吐き出す。
冷静になるんだ。全部、ギルの計算通りだった。なにも取り乱すようなことはない。さあ、カトリーネになれ。
「そうですね。天使に近づけることなんてそう滅多にありませんから、教団の裏側を探るには絶好の機会といえるでしょう。でもそんなの、初めから言ってくださってよかったんです。私だって、ちゃんと割り切って仕事をすることくらいできます」
「知らない方が自然に接することができて、先入観のない情報を得られるだろう。それに――」
ギルは立ち、一歩、二歩と私に近づいた。
「まだ手が震えてる。覚悟が出来たつもりでも、まだ精神的には弱いよ、おまえは」
大きな手が私の手の上に重ねられる。悔しいけれどその通りだ。カトリーネのふりをしないと自分を支えることすらできない。
だいぶ強くなったつもりでいたのに、ギルの方が私のことをよくわかっているみたいだ。
「大丈夫だ、エル。気が付いたことを話してごらん。まずはそう、証拠だ」
「え……」
「なにか証拠を見せてもらって、それでただの子どもにしか見えないおまえの可愛い生徒が、天使だと信じたんだろう。たとえば、光呪とか」
光呪。人を癒す天使の奇跡。
いや、そんなものはない。アディナは真剣だった。嘘を言っているようには見えなかった、それだけだ。
「……もしかして、なにもなしに子どもの言うことを信じたのかい」
答えないでいると意外そうにそう言われて、私は拗ねたいような気持ちになった。
「だって、つじつまが合うんです。ユーリエやスヴェンの態度も、人目についてはいけないとかいうことも、エーレンフェストから来たということも」
「まあ、それはそうだが。しかし、その全部を知っていて不思議に思っていながら、生徒が天使という可能性をおまえがまったく考えてもいなかったとはね。ユーリエが光神官だってこともわかったんだから、いつ気づくかとこっちは待ちかまえてたってのに」
「それは……」
想像もしなかった。天使が操光師もつけずに神殿から出てくることなんてありえないと思っていた。それこそ教団の刷り込みの成果だ。あのいまいましい神学の授業のせいだ。
「天使が任務もなく神殿から出るなんて……、そんなことがあるんですね」
「あるだろうね。教団に属さず、あちこちを旅しながら救済を行っている天使もいるそうだし。もちろん、教団はそういう天使の存在を隠したがってるから、公にはされてないが」
「そうなんですか」
なんだか自分が情けなかった。
「おまえには探偵は向いていないようだね」
「……すみません」
「別に探偵になれなんて言ってないさ。充分だよ。おまえはよくやってくれてる」
頭を撫でられても文句を言う気力さえ沸かなかった。
「どうしても嫌なら、もう引き上げてもいいんだよ」
そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
このまま引き下がれって?
私はゆっくりと首を横に振った。中途半端なままは耐えられなかった。
「これは仕事だし、途中で放棄したりはしません。そういう、約束ですから」
そうと決めたら、腹をくくるしかない。
「……それで、何を調べさせたいんですか?」
間近にあるギルの顔を見上げると、彼は満足そうにひとつうなずいた。
「おまえは天使についてどう考える? 好悪の問題じゃなく、その在り方についてどう思うか、ということだよ」
「そうですね……。天使庁が彼らを神聖な存在として扱い、多くの情報を秘匿しているために、国民の間では勝手な理想像が横行していると思います。実際、天使なんてありがたくもなんとも思っていない私でも、彼らはもっと特別な存在だと思っていました」
私は慎重に言葉を選んだ。ギルに軽蔑されたくはなかったからだ。
「でもアディナは、少なくとも私の知り得た範囲では、ごく普通の子どもと変わりませんでした。あの、これ、気づかなかったことに対する言い訳じゃないですよ。そりゃあちょっと変わったところはありましたけれど、それは人間らしくないという意味ではなくて、むしろちょっと大人びていると感じるくらいのもので……」
ギルは私の手首を離し、頭の後ろで手を組みながら大股に椅子に戻った。
「一般に言われる天使らしさは感じなかった、ということだな」
「はい」
「それでも、彼女は本物だと思うんだね」
「だって……、アディナはそういう嘘をつく子じゃないんです」
理屈ではないことを言ってしまったが、ギルはそれ以上追及せずにいてくれた。




