第35話 八の月 三赤の日(2)
頭がぼんやりとして痛かった。
狭い部屋の中、体が重くてただ座っていた。机の隣の壁にかけられた鏡がカトリーネの姿を映していた。黒い髪をおさげにして、この上なく陰気な表情を浮かべた少女。
そういえばずっと昔、世界中の鏡は繋がっているんだと想像したことがあったっけ。鏡の奥には別の世界があって、そこでは全てが反転していて、どの鏡からでもこちらの世界に出てこれるのだとか、今も誰かが鏡の向こうからこちらを眺めているのではないかと心配したりとか。
鏡に限らず、あの頃は見えない何かをいつも意識していた。どこからどこまでが世界なのか、世界はどこまで広がっているのか、その境界をいつも探っていた。それは世界を知らない不安と期待からきていた。願えば明日は晴れるとか、なにかきっかけがあれば空を飛べるはずだとか、壁の割れ目から誰か出てくるんじゃないかとか、そんなことを真剣に考えていた。
今では鏡を見て不安になったりはしない。世界の果ては知らないけれど、今自分のいるこの場所が広がったり縮んだりしないことを知っている。鏡は鏡で、この平面の他に何も持っていないことを理解している。だから不安にならない。だから期待しない。
鏡の中に広がる世界がないと悟るのと同じように、神に祈ることが無益だと知った。
神は母を返してくれなかったし、父を振り向かせてくれなかったし、妹を助けてくれなかった。
ゆるりと立ち上がって鏡の中のカトリーネに近づく。口紅はもうほとんど落ちていて、琥珀の瞳には力がない。額をつけると鏡の表面はひやりとして心地よかった。
このまま鏡の中のカトリーネと入れ替わって、本当に彼女になってしまえばいいのに。生い立ちは不幸でも、名門学院はじまって以来の天才と褒めそやされ、かわいがってくれる養父がいて、けなげに生きている少女。けれど彼女になりきれないのはわかっていた。これは擬態だ。外側を繕っているだけだ。怒りと憎しみで固めた鎧を着て、この鏡のように冷え切っている。
ノックの音に、鏡から離れる。
「……ギル?」
「やあ」
机にもたれて、部屋に入ってくるギルを見た。出かけていたのだろう、紺のベストに白いシャツというまともな姿だが、さっそく着崩している。
「今日はずいぶん早いじゃないか。ナニーが心配していたよ、一言も口をきかないで部屋に閉じこもってるって」
「どこに行ってたんですか」
「郵便局まで、電信を打ちに。本社が悪魔の件で報告書を送れと言ってきたんでね。まったく、人使いの荒いことだ」
ギルの勤めているビレンブラント社は、新聞出版社である。田舎で事件が起こったところに社員がちょうど滞在していたとなれば、誰かを派遣するよりもそいつを使ってやろうと考えるのはまあ合理的な発想といえた。
「どうせ調べてるんだから、ついででいいじゃないですか。たまにはちゃんと表向きのお仕事もしないと、外部からの不審をかいますよ」
両手を机について後ろに体重をかけた。皮肉な笑みはちゃんと作ることができた。
「でもまだ来週の分ができてないんだ。その、裏向きの方がさ。ぎりぎりだよ」
「一ヶ月分置いてきたって言ってたじゃないですか」
ギルベルト・マクシウスは、テニエス中央新聞に連載を持っていた。フィオナ・オレアリーという偽名を使って、旅行記を書いているのだ。
本当のフィオナは、彼の祖母らしい。ディーリアスから大陸に逃れてきて、故郷へ戻る日を夢にみながら死んだと聞く。
「スケジュール的には余裕だったはずなんだが、暑くてはかどらなくてね」
そんな風に言い訳して、ギルはベッド脇の椅子に勝手に座った。
「で、おまえはどうした?」
話せ。と、目が言っていた。
別に秘密にしなければいけないようなことではない。むしろ報告すべき事柄だった。ただそれを口にすること自体、気が重い。
それでも、黙っているわけにはいかないだろう。
「あいつ、あの子が天使だって言うんだ」
黒い自分の靴を見下ろしながらありのままを吐き出した。
「普通の……、いい子だと思ってたのに」
「悩んでるようだから話して欲しいって昨日も言ってたじゃないか。秘密を教えてもらって嬉しくないのかい」
なんでもないことのようにギルは言った。それがアディナかどうか確認もしなかった。いや、他にいないけれど――そうだ。
いつでもこうやって帰ってきてから話すのは、結局スヴェンのことなんかより彼女についての方が多かった。
ここまできてやっと気が付いた。
「知ってたんだな、ギル」
顔を上げた。ギルは笑っていた。
「怖い顔だ」
「どうして――なんで言わなかった!」
「何故かって? 考えてごらん。わかるはずだ」
ギルは腹が立つくらいに平然としていた。机の端を握る手の爪が痛んだ。
「おまえが天使を嫌っている、いや、憎んでいるのは知ってるよ。僕だって好きじゃないさ。だけど、近づかなければわからないこともある」
呼吸の音がやけにうるさく耳の奥で響いた。そうか、そういうことか。
「本当はスヴェンではなく、アディナのことを調べさせてた――」
「スヴェン・ボルマンは、もちろん問題のある人物さ。証拠は残していないが、裏の社会とつながりがあることは確実だろう。だけど、それを暴いたからといってたいした旨味はないね。実際に被害を受けている人間以外には」




