第34話 八の月 三赤の日(1)
嫌な夢で目が覚めた。
きっと、本を読みながら眠ったせいだ。やっぱりやめておけばよかった。そんなことを考えながら、日課の朝稽古をこなし、シャワーを浴びて身支度をした。髪を編んで、薄化粧をして、オランジェの花の香水をひとふり。暑いのを我慢して、できるだけ体の線を隠してくれる丈の長い地味な服を着込み、私はいつものように別荘に向かった。
アディナは今日も元気がなく、勉強どころか、遊びすらはかどらない。冗談を言って笑わせてみても、どこか無理をしているようで、心配になる。
少なくとももう一月以上、親元を離れているのだ。情緒不安定にもなるだろう。まったく、家族が様子を見に来たりとか、しないのか。
いったいこの子の親は、どこにいて、何をしているんだろう。
念のために調べてみた皇家の系譜には、九歳の女の子はいなかった。正直ほっとした。いや、もしそうだとして私が困るわけではないけれど、アリアーガを征服したテニエス皇家の人間なんて――やっぱりいい気はしないじゃないか。
「あたしのせいなのかしら……」
昼食を終えてからというもの、アディナはなぜかますます落ち込んで、小さく呟いた。
「――なにがですか?」
「お祭りがなくなって、残念ねって言ったの」
見当違いに答えて、アディナは憂鬱そうなため息をついた。
確かに食事の際、ダニエラから大鳥祭の中止の話は聞いた。町の皆で話し合った結果だそうだ。
「まあ、いいじゃないですか。どうせ行く予定ではなかったのですから」
「そうだけど、きっとみんな楽しみにしていたわ。それに、いなくなってしまった大鳥のためのお祭りなのに……」
腕に巻いたリボンの先っぽを指でいじりながら、アディナは言う。なにか誤魔化されているようでいらいらした。いや、実際そうなのだろう。
隠し事があるのははじめから承知の上だ。だけど無理に訊き出そうとすることは、これまで一度もしてこなかった。
聞いてやりたいな。
ふとそう思った。好奇心というより、そう、今、なんだかアディナが聞いて欲しそうにしているような気がしたんだ。
「アディナ様。なにか私にできることはありませんか?」
机の上で両手を重ね、背筋を伸ばすと、私は先生をする時の口調で真面目に切り出した。
「悩み事でしょう。話してみませんか? 少しは楽になるかもしれないし、ならなくても気休めくらいにはなります」
アディナは手を止めて困ったようにうつむいたが、どことなく嬉しそうに見えるのは私の思い込みによるものだろうか。
「……誰にも言わない?」
「ええ、もちろん。ふたりだけの秘密にします」
逡巡の後、彼女は顔を上げた。
「あたしのせいかもしれないの。ハーブが枯れたのは」
それを聞いたときは正直、この子はなにか勘違いをしているので、自尊心を傷つけないよう気をつけながらそんなはずはないですよと優しく諭す必要があると思った。
「ほら、お庭のバラもだめになったでしょう」
だって信じられるはずがない。それとこれと何の関係があるんだ。
「……あなたはハーブ園へ行ったことすらないでしょう? バラはともかく、どうやってハーブを枯らすんです」
「あたしが、天使だから」
聞き間違えようもない、はっきりとした口調だった。取り違えようもない、簡潔な言葉だった。それなのに意味がわからなかった。
待ってくれ。誰がなんだって?
「――天使? あなたが?」
どこら辺がだ。
神学の授業で聞いた話を脳裏に蘇らせる。曰く、天使とは天上天下全ての生命をひれ伏させる力をもって神に背く者を裁く。曰く、深い慈悲をもってあまねく人を癒す。曰く、神に匹敵する広き叡智をもって賢き者に分け与える。
……どう考えてもこの目の前のちんまりしたものに関する説明文とは思えないんだが。
そもそも、子どもの天使なんて存在するのか?
「あの、ぜったい内緒にしてね。ほんとは誰にも教えてはいけませんってユーリエに言われてるの。あたし、カリンとの秘密はちゃんと守ってるわ。カリンも守ってくれるでしょう」
なんの冗談だ、それ。もしかして本気で言っているのか。
「信じない?」
めまいがしそうだ。私は額を抑えた。
「あなたが天使なら、なぜこんなところにいるんです」
地上に降りた天使は翼を失い、二度と天上へ戻ることができないという。
ファネール神殿――通称「水の神殿」は、悪魔を討伐する役目を終えても帰る場所のない彼らのために、エーレンフェストに建てられた。天使はそこで、国中から集まる傷者病者に癒しを与えている。引きこもって、滅多なことがない限り人前に姿を現さないはずだ。
「……待ってるの」
「なにを?」
「言いたくないわ」
けれど、彼女は言ったではないか。エーレンフェストから来たと。天使ならたとえ伯爵であっても、皇王であってもひざまずく。ユーリエは水の神殿に勤める光神官で、つまり天使に仕える仕事をしていて、スヴェンもユーリエに話を聞いて態度を改めた。
嘘ではあるまい。
アディナは、天使なのだ。
「……怒ったのね、カリン。黙っててごめんなさい」
背筋に震えが走った。視界が陰って、胸の前で手を組んでいる彼女の姿が異質なものに見えた。
「怒ってなんか……」
作り笑いがひび割れる。唇が乾くのを感じた。ダニエラに冷たいお茶をもらったばかりだっていうのに。
「じゃあ、悲しいのね。どうして?」
青い目が瞬く。あの応接室に飾られていた絵の天使と同じ色をした目が、迫ってくる。不快感が首筋にまでせりあがる。
近づくな。やめろ。
「いえ、そうじゃなくて……」
どうしよう、うまく息ができない。寒い。そうだ立たなくては。こんなものとは一緒にいられない。バッグをつかんで後退すると椅子が音をたてて倒れた。
「すみません、気分が悪くて。今日は、もう、おしまいにします」