第11話 虚像の錬金術師
地上四十五階。港区の夜景を三百六十度見渡すことができる、超高級タワーマンションの最上階ラウンジ。
厳しい審査を通過した会員と、その同伴者しか足を踏み入れることが許されない豪奢な空間で、佐藤は静かにグラスを傾けていた。完璧に着こなしたミッドナイトブルーのスリーピーススーツが、薄暗い間接照明の中に溶け込んでいる。
彼の対面に座る女性が、不満げなため息をつきながら、細いステムのシャンパングラスを大理石のテーブルに置いた。
「ねえ、この一口サイズのよくわからないテリーヌ、五千円もするの? これなら下の中華屋で山盛りの餃子とコーラを頼んだ方が何百倍も有意義なんだけど」
深いスリットの入った黒のイブニングドレスに身を包み、普段のオーバーサイズのパーカーからは想像もつかないほど完璧なメイクを施した田中襟華だった。
「文句を言わない。空間の維持費と、そこに集まる人間をフィルタリングするための価格設定です。我々がここに座っているのも、そのフィルターを通過するためですから」
佐藤はドライに返し、手元のショートカクテルに視線を落とす。
「分かってるよ。でも、慣れないピンヒールのせいで足の指の皮が剥けそう。この潜入調査が終わったら、特別ボーナスとして特大のジャンクフードの山を要求するからね」
「善処しましょう」
襟華は文句を言いながらも、その視線は鋭く周囲を観察していた。傍目には、裕福な若き実業家とその美しい恋人のデート風景にしか見えない。しかし、襟華の膝の上に置かれたイブニングバッグの中には、超小型の通信傍受デバイスが仕込まれており、このラウンジ内のネットワークトラフィックを静かに吸い上げ続けていた。
二人の視線の先、少し離れたゆったりとしたボックス席で、一際大きな笑い声を上げているグループがあった。
中心に座っているのは、派手なワインレッドのスーツを着た若い男だ。両腕には煌びやかな装飾が施された高級時計とブレスレットを幾重にも巻きつけ、周囲を取り囲む男女に向かって熱弁を振るっている。
『いいかお前ら、人生を変えたいならマインドセットだ。俺が提供してるメソッド通りに行動すれば、月収一千万なんて通過点にすぎない。現に俺は、スマホ一台でこのタワマンの最上階に住んでる。俺についてくれば、お前らにも同じ景色を見せてやるよ』
男が空のシャンパングラスを高々と掲げると、取り巻きの男女が「さすが北条さん!」「一生ついていきます!」と狂信的な声を上げる。
北条玲、二十五歳。
若きカリスマ起業家を自称し、『絶対成功の資産構築プログラム』なる情報商材をSNSで販売している男。それが今回のターゲットだった。
佐藤の冷ややかな視線が、北条の腕元で不自然に光る時計を捉える。
「彼のSNSのフォロワー数は三十万人。連日、高級外車や札束の山、今日のようなパーティーの様子をアップロードしては、自分の財力と成功を誇示しています」
襟華がシャンパンに口をつけながら、微かに唇を動かした。
「しかし、現実はひどい有様だよ」
襟華はバッグの中で手探りのままスマートフォンを操作し、佐藤の端末にデータを転送した。
「このラウンジのフリーWi-Fiから、あいつの端末の通信パケットを拾って解析した。あいつがSNSに上げてるランボルギーニは、品川にある高級車専門のレンタカー。腕につけてるオーデマ・ピゲは、精巧に作られたスーパーコピー。そもそも、このタワマンの部屋だってあいつの名義じゃない。反社との繋がりが噂されてるペーパーカンパニーが、法人名義で借りてる部屋を又借りしてるだけだ」
「虚像のメッキで全身を覆い、成功者を演じているわけですね」
「そういうこと。でも、あいつの情報商材に騙されてる連中は、そのメッキを本物の金だと信じ込んでる」
襟華のトーンが、一段低く、冷たいものに変わった。
「……拓也くんみたいにね」
三日前。アンチフレアのオフィスを訪れたのは、憔悴しきった初老の女性だった。
彼女の息子である拓也は、まだ二十歳になったばかりの専門学生だった。将来への漠然とした不安を抱えていた彼は、SNSで北条のアカウントを見つけ、その煌びやかな成功の姿に魅了された。
拓也は北条が販売する『FX自動売買ツールと特別コンサルティング』の権利を、三百万円で購入した。当然、学生にそんな大金はない。北条は自らの息がかかった複数の消費者金融や違法スレスレの融資業者を拓也に紹介し、学生ローンやキャッシングの限度額まで借金をさせたのだ。
渡されたツールは、無料のプログラムを少し改変しただけの粗悪品だった。利益が出るどころか、投資した資金はまたたく間に溶けて消えた。拓也が北条にサポートを求めても、「君のマインドが足りないからだ」「もっと高額なVIPコースを受ければ取り返せる」と冷たく突き放され、さらなる借金を要求された。
督促状の山に追い詰められ、誰にも相談できなくなった拓也は、一週間前の深夜、都内の歩道橋から身を投げた。
奇跡的に一命は取り留めたものの、全身を強く打ち、現在もICUで意識不明の重体が続いている。母親は息子の部屋に残されていた契約書と督促状を発見し、すがるような思いで佐藤たちのもとへ駆け込んできたのだ。
「他人の人生を借金まみれにしておきながら、自分は偽物の城で王様気取りか」
襟華はテーブルの下で拳を強く握りしめていた。
「帰ろう、佐藤。必要なデータは全部抜いた。これ以上あいつの顔を見てたら、グラスの中身をぶちまけてしまいそう」
「ええ。十分です」
佐藤はスマートに会計を済ませると、立ち上がって襟華に腕を差し出した。二人はラウンジの喧騒を背に、夜の静寂へと降りていくエレベーターに乗り込んだ。
翌朝。アンチフレアのミーティングルーム。
佐藤と襟華が持ち帰ったデータを元に、チームの顔合わせが行われていた。
「法律の観点から言えば、非常に厄介な相手よ」
千尋がデスクに広げた数枚の契約書をペン先で叩きながら言う。
「情報商材の販売ページには、目立たない極小の文字で免責事項がびっしりと書かれている。融資の斡旋についても、すべて口頭か一定時間で消去されるメッセージアプリで行われていて、直接的な強要の証拠が残っていないの。警察も単なる投資の失敗として処理したがっているわ」
「表のルールで彼を裁くのは難しいということですね」
佐藤はモニターに映し出された北条のSNS画面を見つめた。
「映像と音声の解析も終わったわよ」
解析ブースから、紘子が手元のタブレットを操作して画面を切り替える。
「あいつがSNSに上げている景気の良い映像、全部グリーンバックの合成か無断転載。光の反射角も影の落ち方もバラバラで、吐き気がするほど雑な仕事ね」
「音声も同様です」
弥生がノートパソコンから顔を上げた。
「古典的な不安煽りの話法です。声のトーンや断定的な言い切りは、判断能力の未熟な若者を洗脳するマニュアル通り。彼自身の言葉には何の信念もありません」
「なら、どうするの? あいつのメッキをネット上で告発する?」
襟華が尋ねると、佐藤は即答した。
「それでは効果が薄いでしょう。信者たちはそれを『成功者への嫉妬』と変換して彼を擁護するはずです。北条自身も一時的に身を潜めるだけで、被害者が今後も増え続けるだけです」
佐藤の視線が、モニターに表示された北条の直近のスケジュールに止まった。
『北条玲・独占シークレットセミナー。限定五十名。参加費十万円』
開催日は、今週末。場所は都内の高級ホテルの宴会場だった。
「彼のビジネスモデルの根幹は、『圧倒的な財力』という虚像によって他人を服従させることです。ならば、その根幹を物理的に破壊します。彼が隠している本当の資産を、すべて自発的に我々の手の中へ差し出してもらいましょう」
佐藤は手元のキーボードを叩き、一つのダミーの投資ファンドの企画書をモニターに表示させた。
「欲に目が眩んだ人間は、自分より大きな欲望を前にした時、いとも簡単に理性を失います」
「なるほど。詐欺師をさらに巨大な詐欺のスキームで呑み込むわけね」
オフィスの奥から、ティーカップを手にした女性が歩み寄ってきた。タイトなペンシルスカートを着こなし、柔らかく愛らしい笑顔を浮かべている。アンチフレアの最高財務責任者、松本愛永だ。
「海外のタックスヘイブンに実体を持たないペーパーカンパニーと、ダミーファンドの口座は私が用意するわ。彼が仮想通貨やオフショアに隠している資産を、全部こっちのプールに誘い込むスキームでいいのよね?」
「ええ、お願いします、松本さん」
佐藤が頷くと、今度はミーティングルームの扉が開き、圧倒的なオーラを放つ長身のブロンド女性が姿を現した。ハイブランドのドレスを無造作に着こなす広報兼潜入工作員、グレタ・ヴァイスだ。
「じゃあ、私がその『超大物セレブ投資家』の代理人として、彼に接触すればいいのね?」
グレタは楽しげにウインクをした。
「彼の安いプライドを極限までくすぐって、私たちの用意したプールに全財産をダイブさせる。最高に楽しそうな役回りじゃない」
「ええ、頼みます。彼が最も執着している『金』を餌に、彼自身に全財産を差し出してもらう」
佐藤は、相棒の天才ハッカーを見つめた。
「襟華。彼の仮想通貨ウォレットの暗号鍵と、ペーパーカンパニーの隠し口座のルートをすべて特定してください。彼が資産を動かした瞬間、一円残らず凍結できるように」
「了解。あいつのデジタル資産、全部丸裸にしてあげる」
襟華がニヤリと笑い、即座にキーボードへ向かった。愛永が優雅に紅茶を啜り、グレタが手元のスマートフォンで自身の偽のポートフォリオを確認し始める。
佐藤はモニターに映る北条の虚勢に満ちた笑顔を、感情の一切乗らない冷ややかな視線で見据えていた。




