第10話 崩壊のキャンバス
東京湾岸エリアの巨大展示ホールは、文字通り制御不能の暴動状態へと陥っていた。
かつて星宮ルナを崇拝し、彼女の才能を神聖視していた数万人のファンたちは、信じていた虚像が最も醜悪な形で裏返ったことに激怒し、手元にあった数万円単位の限定グッズやペンライトを次々とステージへ向かって投げつけていた。パイプ椅子がなぎ倒される鈍い音、引き裂かれる等身大パネルの破裂音、そして裏切られた悲しみと純粋な殺意が入り混じった怒号がホール内に響き渡る。
警備員たちの必死の制止も虚しく、最前列の鉄柵は完全にひしゃげ、殺気立った数十人のファンがステージ上へとなだれ込んでいた。彼らの目は憎悪と絶望に血走り、つい先ほどまで愛を叫んでいた対象であり、自分たちを「ATM」と嘲笑っていたアバターが映る巨大スクリーンに向かって、ただひたすらに手当たり次第の物を叩きつけている。過剰なまでの愛と崇拝は、たった数分で最も残酷な暴力へと反転した。
騒ぎを聞きつけた所轄の警察官たちが数十人規模でホールに突入し、ようやくステージの裏側から電源が物理的に落とされた。眩い光を放っていた幅十五メートルのLEDスクリーンが不快な電子音と共に完全に沈黙し、後には薄暗いステージと、暴徒の熱気、そして踏みにじられた無数のグッズの残骸だけが残された。
ステージ脇のVIP席の傍らで、統括マネージャーの黒田は崩れ落ちるように床にへたり込んでいた。
スーツの膝が汚れ、額には脂汗が張り付いている。彼の手に握られたスマートフォンの画面は、事務所の代表やメインスポンサーの役員からの着信で絶え間なく明滅し、鼓動のように不気味なバイブレーションを繰り返していた。六千万円の違約金など、もはや些末な問題にすぎない。歴史的なイベントの完全な崩壊、暴動による会場設備の深刻な破損、そして看板タレントの取り返しのつかない不祥事。自身のキャリアはおろか、事務所そのものの存続すら危うい莫大な負債が、今この瞬間、完全に彼の両肩にのしかかっていた。彼は鳴り続けるスマートフォンを見つめたまま、ただうわ言のように言葉にならない呻き声を漏らすことしかできなかった。
副調整室の防音ガラス越しにその凄惨な光景を見届けた佐藤は、一切の感情を交えることなく静かに背を向けた。
「撤収します」
その短い一言で、チームのメンバーたちは即座に自前のサーバーの回線を切断した。ログを消去し、物理的な痕跡を一切残すことなく、彼らは幻影のように会場から姿を消した。
それから三日後。
星宮ルナの炎上は、単なるネット上の騒動という枠を優に超え、現代のネット社会の闇を象徴する社会問題として連日ニュース番組のトップで報じられていた。
アンチフレアのミーティングスペースに設置されたモニターには、様々なネットニュースの記事や、秒単位で更新され続けるSNSのタイムラインが映し出されている。
「見事なまでの手のひら返しだね」
襟華が強炭酸のコーラを啜りながら、モニターのスクロールを止めた。
「昨日まで絶対の味方だった連中が、今じゃ一番過激なアンチだよ。特定班の動きも異常に早かったね。もう本名から実家の住所、学生時代の卒業文集まで完全に丸裸にされてる」
画面には、星宮ルナの「中の人」のプライベートな写真や個人情報が、殺意すら混じった悪意のある言葉と共に次々と投稿されていた。一度火がついた群衆の正義感は、対象が完全に社会から抹殺されるまで決して止まることはない。
「事務所側も、今日の正午に契約解除の声明を出したわね」
千尋がタブレットから視線を上げずに言う。
「見事なトカゲの尻尾切り。違約金から損害賠償まで、すべての負債を彼女個人に被せたわ。数億の借金を抱えて、社会的な信用も完全にゼロ。もう表舞台には二度と立てないでしょうね」
「自業自得よ」
紘子がコーヒーカップを傾けながら、画面のアバターを冷ややかに見つめる。
「他人の人生を踏みにじって集めたお金と名声なんだから、自分の人生で全額清算すべきね」
「ナギさんの方も、これで一件落着ですね」
弥生が自身のノートパソコンの画面を見つめながら口を開く。
「送った検証データでパクリ疑惑は完全に払拭されました。彼女のSNSアカウントも昨夜復活して、かつて彼女を叩いていた連中が、今度はこぞって謝罪のメッセージを送っています」
「そうですか。それは良かった」
佐藤はメンバーの報告を静かに聞き届け、手元のリモコンでモニターの電源を落とした。
「我々の仕事は終わりました。これ以上の事後処理は、当人たちと司法の管轄です」
その日の夜。
佐藤は自宅の高層マンションに戻り、ネクタイを緩めながらリビングへと向かった。
完璧に整えられた静寂な空間。間接照明のわずかな光だけが、磨き上げられたフローリングの木目を美しく照らし出している。外の喧騒を完全に遮断したこの部屋は、彼にとって唯一、一切のノイズから解放される不可侵の領域だった。
佐藤はキッチンカウンターの奥にある酒棚から、一本のボトルを取り出した。アイラ・シングルモルト・スコッチウイスキー、『ラガヴーリン』の十二年物。限定でボトリングされた、樽出しの高いアルコール度数を誇るカスクストレングスの一本だ。
重厚なバカラのロックグラスに、琥珀色の液体を静かに注ぐ。氷も水も入れず、ストレートで。グラスを軽く揺らすと、アイラモルト特有の強烈なピート香と、潮の香り、そして奥底にあるドライフルーツのような濃密な甘いアロマが立ち上ってきた。
佐藤はグラスを手に書斎へと移動し、重厚な革張りのソファに深く腰を下ろす。
デスクの上のヒュミドールを開け、厳重な湿度管理のもとで保管されている葉巻の束から一本を選び出した。キューバ産のシガー、『ボリバー・ロンスデール』。細長くエレガントな形状とは裏腹に、力強くフルボディの深い味わいを持つ名品だ。
佐藤は専用のシガーカッターで吸い口を切り落とすと、手慣れた所作で静かに火を点けた。着火の細かな手順を意識するまでもなく、彼の身体に染み付いた一連の動作が、完璧なドローの準備を整える。
佐藤は葉巻を口に咥え、煙を肺に入れずに口腔内だけで転がすようにゆっくりと吸い込んだ。
豊かな土や革を思わせる重厚な香りと、微かなスパイスの刺激。完璧な状態で保管されていた葉巻だけが持つ、濃密でリッチな煙が広がる。そこへ、ラガヴーリンを一口含む。
強烈なピートのスモーキーさと、ボリバーの土臭いアロマが口の中で激しく衝突し、やがて複雑で深い余韻へと融合していく。強烈な個性を放つ酒と煙草。それを完全にコントロールし、己の味覚と嗅覚だけで静かに味わい尽くす。
この孤独で濃密な時間だけが、デジタル・カルマのノイズによって常に他者の醜い悪意に晒されている彼の神経を、本来の冷徹な状態へとリセットしてくれる。
佐藤は紫煙を細く吐き出し、窓の外に広がる東京の夜景に目を向けた。
眼下には、無数の光の瞬きが地平線の彼方まで続いている。その光の一つ一つの下で、今日も誰かがスマートフォンを握りしめ、承認欲求という見えない麻薬に溺れているのだろう。
星宮ルナは、五十万人という数字の暴力に酔いしれ、自分が安全圏から他人を一方的に裁ける神にでもなったと錯覚していた。だが、彼女が絶対の盾だと頼みとしていたその「群衆」こそが、最も残酷で無責任な捕食者だったのだ。
安全な匿名という仮面を被った人間たちは、対象が「絶対的な悪」だと認識した瞬間、一切の歯止めを失う。昨日までの熱狂的な崇拝は、いとも容易く純粋な憎悪へと反転する。他人の人生を使い捨てのコンテンツとして消費し、正義を振りかざした無責任な娯楽に酔いしれる。彼女は自分が操っていると思い込んでいたその巨大な娯楽のうねりに、自分自身が食い殺されたのだ。
佐藤の脳裏に、数年前の凄惨な記憶が微かにフラッシュバックする。
彼から大切な家族を奪ったあの男もまた、群衆の悪意を巧みに扇動し、無責任な正義感の波に乗って再生数を稼いでいた。あの男を最も高い場所から引きずり下ろし、この世界から完全に消し去るまで、佐藤の歩みが止まることはない。そのために彼は、自らの手をどれだけ汚そうとも、この処刑人の生業を続けていく覚悟を決めている。
グラスの中の琥珀色の液体が、間接照明の光を反射して冷たく光る。
佐藤は残りのウイスキーを静かに飲み干し、短くなった葉巻を灰皿にもみ消した。
感傷に浸る時間は終わりだ。明日もまた、新たな承認欲求の化け物たちが、彼が張り巡らせた蜘蛛の糸に群がってくる。
佐藤は立ち上がり、静まり返った闇の中へ歩みを進めた。




